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思考停止社会 ② 現代立憲民主主義の崩壊とその立て直し

私は3年前から我が国における現代立憲民主主義の崩壊について、ブログを立ち上げ、こうして世論に訴え、また、裁判を通じて、司法の違憲審査権によりその是正を促そうと今現在も戦っています。今年の参議院総選挙に立候補させていただいたのも、主権者である国民としての唯一の、そして最強の権力的契機としての権利を行使することによってその是正を図ろうとしたからです。

私個人としては可能な限りの努力をしていますが、我が国における立憲民主主義の崩壊は日々音を立てて進んでいます。我が国だけでなくこの傾向は世界中で見られてきています。ただ我が国においては、歴史的に国民自らが作り上げた立憲民主主義ではないため、崩壊するときは早いのです。この崩壊する音は私だけでなく多くの国民にも聞こえているはずなのですが、先週の補欠選挙を見ても、何故かそれに対する反応は見られない。

一昨日も核兵器禁止条約の制定に向けて来年から交渉を始めるという決議が123か国の多数の賛成の下、国連総会で可決されたが我が国は核保有国を含む38か国とともに反対した。私はこのこと一つをとっても我が国における立憲民主主義の崩壊の一場面であると思う。

我が国の現代立憲民主主義が崩壊していることについては、今までのブログの中でも幾度か述べてきたところであるが、今回、二つの原因を述べさせていただき、その立て直しのために私たちが何をしなければならなないかを考えてみたいと思う。

一つは根本的な問題なのですが、現代立憲民主主義国家であるためには、まずその前提として、独立国家である必要があります。そうした点で私は、今の日本が独立国家であるかというとアメリカの属国である、いわゆるアメリカの飼い犬ポチ(アメリカの一つの州)に過ぎないと思っています。確かに前回のブログの中でも日本は1952年に主権国家となったと書いたし、一般的にはそう思われていると思う。しかし、現代立憲民主主義国家としての独立した国家かと問われたなら否と答えるしかないと思う。安倍総理は4月28日を主権回復の日として、沖縄を切り離したが、実はその逆で、その日を境に日本本土はアメリカの属国となったのであり、一方、外見上はアメリカの統治のもとに置かれてしまったが、前回のブログで書いたように、沖縄の住民はその日から自らの力で人権を勝ち取ろうと立ち上がったのだと思う。

安倍総理はアメリカの両院議会で演説をして茶番の拍手喝采をもらったことがあったが、私は、あの時ほど自分が日本人であることが恥ずかしかったことはなかった。最近のブログの中でおバカさんという表現をすることが多くなったが、本当のところ、私自身使いたくはない。しかし、彼ほどのおバカさんは今だかつていなかったと思う。
その演説の中で2015年夏までに安保法制法案を仕上げると断言した。しかし、閣議決定、国会への提示もない状態で総理として発言することは許されることではない。大きく二つの理由があるが、一つには、そのことが我が国の立憲民主主義国家としての否定だからである。ブログの中で何度も言っていることであるが国権の最高機関は国会である。国民の権利、義務、生存権に関わる法律に関して、閣議、国会に図る前にその法律の制定をアメリカの議会という場所で総理大臣が断言することは、国際公約と同じようなものだ。行政の長が立法も兼ねているという独裁国家にほかならず、三権分立、国民主権を規定している日本国憲法に反する立憲民主主義国家の否定である。

もう一つは安倍総理がアメリカのポチであるということを世界に宣言しているということにある。確かに、ペリーによる開国以来、日本は外圧に弱く、特に安倍総理は戦犯であった祖父を救ってもらい総理という要職に復帰させてもらったというアメリカに対して頭が上がらないということもわかる。しかしそれは彼個人の問題であって、彼自身はアメリカの奴隷でいいかもしれないが、日本という国家をわざわざポチのままでいさせてくださいと自ら喜んで差し出す権利を私たちは彼に与えた覚えはない。彼は売国奴に他ならない。そして国際関係の中における国家主権、国家の独立という点からみても、日本国憲法に違反した行為、すなわち立憲民主主義の否定に他ならない。

日米関係でいえば、1972年2月アメリカのニクソン大統領が冷戦下の中、電撃的な訪中を果たしたが、当時の佐藤栄作内閣には直前まで知らされなかった。このニクソンショックの巻き返しに日本は発足したばかりの田中角栄総理が同年9月に訪中、周恩来首相と会談し、日中共同声明を発表し、アメリカに7年先んじて国交を回復したが、当時のアメリカのキッシンジャー補佐官から絶対に許さないと言われ、田中総理は、結局放逐されてしまった。

戦後、戦犯であった岸信介を釈放し、総理にまで仕立て上げたのもアメリカの後ろ盾があってのことだと思うし、国会の審議、決議もないまま自衛隊の前身である警察予備隊を創設したのも、国会議事堂内でのデモの中、東大生であった樺美智子さんが機動隊員に撲殺された日米新安保条約の改定も岸総理の総辞職と引き換えになされた。第4次中東戦争の際、中東諸国がイスラエルを支持する国への禁油処置をとった際には、当時の三木副総理を中東に派遣して下手外交に接して功を奏しているが、それもおそらくアメリカのお伺いを立てた後にしたのではないかと私は思う。

経済面でも1990年代においては貿易不均衡是正のため日米構造協議により430兆円の公共投資(アメリカの貿易に悪影響を与えない分野)を約束させられ、1994年には10年間で630兆円規模に増額させられた。アメリカのドルを買い支え、その買い支えたドルはアメリカの中央銀行で管理され、アメリカの許可がない限り売ることもできない。

アメリカのポチであり続けるために、アメリカが日本に望むことは日本の政府が何も熟慮せずただひたすらアメリカの国益のために動いてくれることである。そのためにアメリカの奴隷である安倍総理にとって何を望んでいるかと言えば、国会が熟慮しないことだ。すなわち、一人でもおバカでちんけな出世欲を持った何も考えずイエスマンである思考停止した国会議員、そして大臣だ。

現在、小選挙区制度の下、一党独裁が完成しつつあり、先日の総裁任期延長もその一端である。私がブログを立ち上げて以降、特定秘密保護法での行政行為の不可視化、NHK会長の今までの慣習を破っての衆参国会の同意のないままの任命行為、NHK理事の会長派過半数確保誘導、それらを含めた報道機関への政治的圧力、沖縄県を含めた地方自治体に対する政治的、訴訟を通じての圧力、安倍総理自らが国会内で述べた「立法府の長」発言や麻生副総理がいみじくも述べた「ナチスの手口をまねればいい」発言は彼らの本音である。

しかし、前回のブログでも述べたが、思考停止に陥っているのは私たち国民自身であることを私たちは認識しなければならない。実は私たち自身がアメリカの言うことを聞いておけばどうにかなるという、属国マインドを個々人が内面化してしまっているのではないかと思う。例えば猫も杓子もアメリカ留学したがるが、特に政治学、経済学においてはアメリカ留学していわゆるグローバル経済を学んで日本国内の主要ポストに就く、アメリカの国益を最大化することでキャリアパスが開ける。しかしこれらはアメリカから見れば植民地支配における基本中の基本のやり方である。

熟慮させない、国会での審議時間、公聴会での審議時間を彼は無駄と考えている。それは国会での彼の言動、態度を見て、ほとんどの国民が感じていることだと思う。

安保法制についても二言目には中国が離島を占拠する、ロシアが攻めてくるかもしれない、北朝鮮がミサイルを撃ってくるなど危機感を訴え、民主的に国会で審議している時間はないと強行採決をちらつかせ、実際に行ってきている。今秋もTPPに関して行おうとしている。

この独裁的なやり方の先に待っているものは、自民党の憲法改正草案の中での緊急避難にたどり着く、これはこれが宣言されてしまうと憲法は一旦停止し、内閣がつくる政令が法律を代行することになるため、国民の権利義務が内閣のみによってどうにでもなってしまう、100日ごとにその法律を継続するかどうか国会の議決が必要であるが思考停止した国会議員が過半数を占めている限り継続され続けるであろう。

そういった意味で私は我が国が独立した主権国家、すなわち現代立憲民主主義国家であるとは、とても思えないのです

そして、我が国が現代立憲民主主義国家でなくなってしまっている二つ目の理由は、日本社会全体がサラリーマン化した社会になってしまっていることだ。

実際に現代社会において企業に勤めるサラリーマンの数の問題もあるが、彼らが日常的に当たり前として何の疑問も持たないトップダウン的な考え方がその元凶なのである。

現代社会にとってトップダウンによる経営は時代の流れの中である面仕方ないことと言えなくもないが、トップダウンの問題は、トップ以外が特にサラリーマン社会においてはサラリーマン自身、一人一人が何も考えることなく、何も疑うことなく、疑ったところで何もできはしないとあきらめの中で、思考停止に陥っていることである。逆に言えば何も考えることなく責任は他者に転嫁する生活に慣れきってしまい、それが社会における最適な仕組みと勘違いしていることである。

そのトップダウンの仕組みが企業のみならず、大学でいえば法人化され、教授会には何の権限もなくなり学問の府としての大学の自治も風前の灯火となっている。教育の現場でも教職員間も、序列化、管理された教育現場になってきており個々の教師における教育の自由もなくなってきている。教育委員会も解体され、権限が知事に一元化してきている。

そして最悪な状況になってきているのが、国権の最高機関たる国会である。個々の国会議員が小選挙区制度の中で、与野党すべてにおいて政党という組織の中で党議拘束という縛りの中でしか活動できなくなってきている。必然的に個々の国会議員も無知で、主体性のない名誉欲、自己顕示欲の強いものだけが政党によって推薦され、そのこともサラリーマン化した国民は違和感なく受け入れてしまっている。

具体的に言えば、橋本元大阪府知事が「民間ではありえない」とトップダウンによる政治運営の中でよく話されていたが、私はおバカではないかと思う。府行政は、所詮、企業ではない、民間ではないのだから当たり前の話だ。民間が好きならば府知事になるべきではない。確かに無駄な事、仕事の能率の問題があったかもしれない、しかし、それは個々人の府民に対する公務員意識の問題であって、行政目的そのものは住民の安全、福祉、教育などを扱うところで、元々、採算性に合わないからこそ行政がしているのである。トップダウンや懲罰で解決できるものではない

最大野党の民主党でも中心となる国会議員に松下政経塾出身者がいるが、政治ではなく政治経営をしようと考えているのではないかと思う。しかし、政治とは利益を追求するものではない。

2000年以降、小泉内閣のころから、日本の政治の質が変わってしまったと思う。長いデフレの中、国民の救世主にすがりたい気持ちも相まって、小選挙区制を背景にした小泉劇場に酔ってしまったのだと思う。トップダウン政治の中で、規制緩和の名のもとに、財界の力が政治を動かすようになり、自分たちに都合のいいようにルールを変え、そのルールのもとで小利口に利益を上げる人間が評価され、真面目に正直に生きる人たちにとって呼吸をすることがしにくい社会となってしまった。

私は、我が国における現代立憲民主主義の崩壊の原因として、我が国が未だに独立した主権国家でないこと、そしてサラリーマン化した他人任せした日本社会、その二つを挙げたが、この二つに共通することは結局、主権者たる国民の思考停止に他ならない。

私たちは、今後どうしてゆくべきなのであろう。

私が思うことは、これまでも何度も述べてきたことであるが、私たちは価値観を変えなければならない。個の中に全体があるのであって、全体の中の個のままであってはならないのです。たとえ大企業のサラリーマンでも、大企業という鎧がなくなったとき、思考停止した裸の自分を誰一人として相手にしないということに気付かなければならない。

主権者としても、そのサラリーマン的な思考停止の解除をしなければならない。国家は企業ではない、企業のように当期利益を追っかけるのではなく、30年、50年先のこと、次世代のことを中心に考えなければならない。

サラリーマンにとってたとえ企業がなくなっても、国家がある。主権者であることには変わりないのだ。しかし、国家の場合、国家がなくなれば国家を持たない難民である。そう言った意味でアメリカという私たち日本人が潜在意識の中で持っている後ろ盾がなくなることは恐ろしいことではあり、誰もが恐怖心を持つ。しかし、これからの時代を見据えたとき、それは避けては通れないことなのだ。

国民一人一人が企業や、政党などという組織人としてではなく、主権者としての自覚を取り戻し、そして思考停止を解除することしかこれからの日本の未来は存在しえない。そして地球上で人間が存在することもできないであろう。

平成28年10月31日  文責  世界のたま

思考停止社会 ① 大阪府警機動隊員による「土人」発言について思うこと

前回のブログで述べた現代の日本人の思考停止の典型的な一例である。

先日、沖縄での大阪府警機動隊員が基地建設反対派に対しての「土人」発言が社会問題となった。このことに対して、様々な考え方が報道されていたと思う。

その多くは、沖縄県民に対する差別発言であるという意見。それに対しては、反対派が侮辱的な言葉を投げかけた上での発言でありお互い様である。そして府知事の会見では、陳謝されるとともに、機動隊員に対するねぎらいの言葉もかけられていたように思う。

診察の合間に卸業者と話しをしていたとき、この話題になり、彼が機動隊員は権力側であり自らが権力を持っているという相手側と対等ではないという自覚を持ったうえで機動隊員は発言すべきであるということを話されていた。それもなるほどと思う。

私はブログの中でも述べたことがあると思うが、物事は立体的に考えなければならないと思う。

何故、沖縄という地でこう言った発言がなされたのかということだ。日本中で様々な問題に対して抗議デモ、集会がなされている。例えば安保関連法案の強行採決時にも多くの反対派が国会議事堂の周りで連日反対集会を開き、警察官とのやり取りも数多くあったのではないかと思う。また、各地の原発反対運動においても同様なことが起きていたと思う。

そんな中で何故沖縄という地だけでこういった発言問題が起きたのか、私はそこにこそ問題が隠されていると思う。そうした中で、沖縄県出身で元県知事、沖縄戦体験者である太田昌秀氏と元外交官、現在作家の佐藤優氏の対談本で書かれてあることは非常にわかりやすく、実際の事実であり、御紹介しながら私自身の考えを述べたいと思う。

沖縄は明治に琉球処分によって日本に編入され(奪われたという考えもある)、その後第二次世界大戦において多くの沖縄の人たちの命、自由、財産が奪われてしまった。

戦時中において当時の日本政府の中枢、すなわち大本営にとって沖縄は、本土を守るための防波堤、すなわち捨て石にすぎなかった。したがって、九州をはじめ本土各地の航空部隊を温存するため、沖縄空襲をした米軍機を迎え撃とうともしなかった。

当時の県知事であった泉知事にいたっては公用にかこつけて上京したまま二度と沖縄に戻ることもなかったし、部長級の県首脳も警察部長を除き残らず、いわゆる本土(あえて本土という言葉を使いますが)に逃げ帰ってしまった。

男子中学生は鉄血勤皇隊という学校単位で結成して出陣、女子生徒たちは即席の看護教育を受けたたけで準看護要員として日夜傷病兵の看護にあたらされた。しかし、当時の沖縄県下の男女中学校の生徒たちが武装して戦場に出される法的根拠はなかった。10代以上の生徒たちまでが戦場に投入できるとする義勇兵役法が公布されたのは、沖縄の守備隊を指揮していた牛島司令官と長参謀長が自決して、守備隊の組織的抵抗が終焉した1945年6月22日、その当日であった。結果的に男子学生の半数、女子学生の6割が10代の蕾のまま戦死した。もはや誰が見ても勝てる見込みのない敗戦が決まった時期になぜ国は公布する必要があったのか。

敗戦が刻々と迫るそんな中、日本政府は、最高戦争指導会議の場で具体的な和平交渉の要綱を作成したが、その中で固有本土の解釈について、沖縄、小笠原、樺太は捨てることが書かれてあった。日本政府は沖縄を捨てたのである。

一方、集団自決などの悲惨な経過をたどる中、まだ戦時中であったが戦後処理に関する1943年のカイロ会談においてルーズベルト大統領は中国の蒋介石に対して中国が沖縄の返還を要求すれば中国に返還することを提案している。それに対して蒋介石は米中の共同管理下に置いて非軍事化して将来は国際機関に管理を委ねることを伝えた。

結局、アメリカの占領下の中、住民をそれぞれの集落に戻そうとせず、各地の収容所に隔離し、沖縄の大半の土地を占領し、軍事基地に使用した。また、米軍に土地を奪われた農民たちは、一度に500人規模で南米のボリビアに集団移民させられ、住民の対米感情は悪化し、そんな中で日本復帰への思いが強まった。

沖縄の住民は占領下、無権利状態の中で、自治権の拡大、民主化を図り、一つ一つの基本的人権を獲得してきた。本土では民主憲法が上から与えられたのに対して、沖縄では、民衆が自らの手で獲得してきた。それだけに平和と民主主義を基本原理とする現行憲法への執着が強かった。日本復帰の願いは叶えられたが、司法が統治行為論により日本国憲法の適用が躊躇される日米安保条約の下、またしても住民の人権は踏みにじられたままなのである。

戦後まもなく沖縄の在日米軍専用施設は全体の53%だったが、日本が独立したとたんに逆に本土から海兵隊を沖縄に移したために現在の75%に増えてしまった。米軍が北海道への基地移転を提起した際にも当時の町村官房長官が自分の選挙区に移すのは反対だとつぶされたこともあったようだ。実際、政府や与党の政治家、そして本土の国民誰もが、日米安保条約は国益に不可欠であると言いながら、自分たちは一切その負担を引き受けようとしない。

戦後、戦後軍事裁判所はA級戦犯者25人を有罪として、7人の死刑を執行したが朝鮮戦争含む冷戦の中で7人以外の戦犯者を釈放し、戦時中の中核的存在だった現総理安倍さんの祖父である岸信介らの戦争責任を徹底追及することなく要職への復帰を許した。軍事裁判所に対する様々な意見はあるが、国民としての私から見ても明らかに彼らは多くの子供たちを含む日本国民を死に追いやった張本人であり、その責任は大きくそう簡単に許されるものでない。私は、このことが、戦後民主主義を変質させ、現在の孫である愚かでおバカな安倍総理による立憲民主主義制度の破壊、戦争の歴史を繰り返そうとしている行為につながっていることは避けがたい事実であることは間違いないことだと思う。。

敗戦から7年後の1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本国憲法の下、日本は主権が回復したとされた。一方で、沖縄は上記で述べたように日本から切り離され米軍統治で27年間、生命への侵害、女性への性的侵害、土地の侵奪、強制移民など住民の基本的人権を蹂躙され続けた。それは悲しいことに今、現在も続いている。主権が回復されたのは本土であって沖縄ではなかったのだと思う。そして今だもって、回復されているとは私には思えない。

沖縄県民が「屈辱の日」とする4月28日を、戦争責任者である岸信介の孫である安倍総理は「主権回復の日」として祝っている。その歴史認識は上記で述べた沖縄切り捨てそのものである。

私は思う。現政権の間違った歴史認識に基づく、立憲民主主義政治の破壊という事実こそが大阪府警の機動隊員の発言の元凶なのである。今日のニュースの中で警察庁が土人発言について、全国の警察に向けて、人権擁護の徹底の指導を図る指示を出したと伝えているが、全くの茶番である。泥棒が盗みをやめましょうといった類の発言である。政府、警察庁自らが発言させているのだという当事者意識のない、相変わらずおバカな首相、政府の指導の下にある警察庁であることをその発言は露呈している。そんなことでは決して今回のような発言はなくなることはないし、元々彼らは指導する気もないのだと思う。

機動隊員はそれをただ代弁しているだけなのだと思う。そしてそれは物事を立体的にとらえることのできない無知そのものである。

そして、今回問題となった彼の一言は、現在の日本国民の姿、そのものであり、それこそが、歴史を顧みることもしない、贈与を否定し、他者を思いやることのできない思考停止をした私たちを映し出している鏡だと思えてならない。

平成28年10月29日  文責  世界のたま

純粋な瞳の少女と合理的経済人

その昔、一人の少女に出会った。長い間使い古した黒い携帯ケースを大切にする、無邪気に砂浜に小枝で名前を書き、潮の香りも聞き分けられる本当に純粋な瞳をした少女だった。

私がブログを通して述べている手段の目的化が人類滅亡の危機の原因であり、特に前回のブログの中で貨幣、経済という手段の目的化による経済至上主義すなわち、大量生産、大量消費社会が最たる原因であることを述べたが、セルジュ・ラトゥーシュが、その著作の中で言っていることは私も同感であり、興味深いので、それらを交えながらお話ししようと思う。

デカルト以降の近代世界の問題点についてはこれまでもいくつか述べてきたが、近代以前は世界には生命が満ちており、ローカルな特殊の知恵に基づく世界であった。それがデカルトによる心身二元論により数学的普遍的知識に基づく世界へと変貌する。

その世界は自然界と人間界が分離された世界である。

動物的身体や自然は、人間の精神とは分離されて、生命なき死んだ物質の世界となり、それを人間は通常の自然と考え、その中で生命を例外的存在と考えるようになってしまう。そこは人間とその周辺の環境との有機的なつながりを失った世界である。一方、人間の精神、理性も数学的普遍的知識に基づく世界の中で、結果を計算する能力とされ、すなわち、理性の計算合理性への服従がなされる。

それでは自然界と人間界が分離してしまったその要因であるが数学的普遍的知識に基づく世界への変貌の中での共通感覚すなわち第六感の喪失である。これは動物的五感を統合する感覚であり、人間界と自然界を結び付けていたものであり、ローカルな特殊の知恵でもあったと思う。

デカルトの我思うゆえに我ありという中で共通感覚は思索する人間、すなわち我の中の内部の能力になり下がってしまったのだと思う。そうした結果、理性の計算合理性への服従の中で人間は共通感覚のない、計算能力のある動物以上のものではなくなってしまう。

確かに、近代科学は発達したが、経済における経済理論の数理化のみが推し進められ、社会政策においても具体的な生活世界の現実との乖離が生じてしまった。

人工的なリアリティを作ることはできるようになったが、物に対する想像力を失ってしまい人間は以前より強力に自分自身の精神の牢獄に閉じ込められ、人間自身の作り出したパターンの中に閉じ込められてしまうようになった。以前だと人間は自分自身にないもののリアリティを経験できたがそれが不可能になってしまった。たとえば、現代科学が扱っている宇宙も実験の中に現れる自然に合わせて解釈され、作業上のリアリティに技術的に解釈できる原理そのものに合わせて解釈されているだけである。

人間がそれについてイメージできないもの、例えば魂など、それは確かに以前からあったのだが、人間が非物質的なものを考えるとき、見たり表現できる物質的なものを背景に考えてしまう中で、人間は非物質的なものだけでなく、物質的なものさえも想像できなくなってしまった。

その結果として、人間の万能を示すとされた科学が、人間の生存の基盤たる生態系の破壊を行うという現在の大量生産、大量消費社会に内在する倫理的欠陥を生じさせている。

古くは水俣病をはじめとする世界中で起こってきたし、現在も新たに起こっているであろう公害問題、エイズの血液製剤混入をはじめとする薬害、データ改ざん問題、原子力による放射能汚染問題、科学の発達の中で起こる戦争による大量殺戮、核、化学兵器、無人機による殺戮、格差社会の中での貧困、餓死、異常犯罪、テロによる殺戮、難民問題それらすべてが倫理的欠陥から生じている。

セルジュ・ラトゥーシュはそうした中、贈与の否定、思考欠如という観点からさらに考えを深めているが、私自身全く同感だと思う。

人間は、私的所有、個人の生活の安全保障の重視から他者との共存の否定、一次の社会性である贈与の次元を否定するようになり、地球や社会に対する負債の返済を拒否し、他者に対して一切の責任を負わない想像上の合理的経済人を作り出した。

そして民主制のもとでユダヤ人の大量虐殺が行われたナチスを例に挙げ、何故、普通の一般的な人々がそういったことをなしえたかという点で、思考欠如を取り上げている。ナチス政権下では、軍人のみならず、子供を愛し、家庭を愛したごく普通の人々が思考欠如に陥ってしまった。その渦中にいたとき人は自分自身が思考欠如に陥ってしまっていることに気づけないのだと思う。私には現代社会における一般常識のあるとされる有権者たち、社会的に能力のあるとされる企業戦士たち、いずれもが思考欠如に陥っていると思う。

彼らには一般常識があり、企業の中での処理能力、社会的能力はあるけれど、共通感覚がないか、もしくは贈与の否定をしているのだ。そうした中では思考が停止し欠如してしまうのだと思う。

私が、このブログを立ち上げ、その中で訴え続けていること、国を相手に訴訟を起こし続けていること、先日の選挙で訴え続けたこと、それは私たち今を生きている人間が失った共通感覚を取り戻してほしいこと、ただそれだけなのです。

そうすることで自然の中での人間としての存在を再認識することができ、本来人間が持つ想像力を回復し、贈与に対する返済ができる、数学的普遍的知識に基づく合理的経済人のような作り上げられたものでない具体的、現実的な社会としっかり向き合うことのできる社会人に、学校教育、企業教育の中で陥ってしまった思考欠如を解除できるのだと思う。

そしなければ、必ず人類、文明は滅びてしまうし、選択の余地と時間はもうないと思う。私たちは科学の発達が引き起こした様々に起こる問題を、更なる新たな科学の力で問題が解決できると盲信している、異常気象であれば、更なる気象予測、早期の通報、非難技術、防災ダムなどの防災技術で解決しようと図り、原子力で言えば、凍土などによる凍結などの技術で解決しようと図り、新たな疾患、慢性疾患で言えば生活を見直すのではなく新たな新薬開発で解決を図ろうとしている。科学の発達によって、科学の発達が原因で引き起こしてしまった事象を決して解決することはできない。蓋し自然界と人間界は有機的につながっているのだから。

だから、私たち人間が、今、しなければならないことは、共通感覚を取り戻し、自然の中での人間のあるべき姿を取り戻すことである。そして、贈与の否定、思考欠如を解除して、他者を含む自然に対する負債に対する返済のできる自分を取り戻すことだと思う。

冒頭にあげた純粋な瞳を持っていた少女も、まだしっかりと共通感覚が残っているのだから、それを研ぎ澄まし、現代の学校、企業教育の中で培われた贈与の否定、思考欠如を解除してその純粋な瞳を再び輝かせてほしいと願ってやまない。そしてできることならもう一度再び輝きを取り戻したその瞳に出会ってみたいと思う。

 いかに謎に満ちていようとも、生命は素晴らしい贈り物なのだから

    平成28年9月11日  文責  世界のたま

貨幣、経済という麻薬による消費中毒社会(3)(解毒とそこからの脱出)

麻薬中毒患者になり果てたおバカな政治屋、官僚、企業家と消費中毒患者となり果てた主権者たる国民、そんな現実の中でどうやってこの消費中毒社会を解毒して、そこから脱出して、人類の滅亡の危機を乗り越えてゆけばいいのだろう。

この問いに対しては果たして人類の滅亡がそんなに悪いことなのか?という問題もある。地球環境にとって、人類以外の生物にとって、人類ほど不要な存在はないであろう。そういった意味で危機を乗り越える必要はないという考えも私自身否定はできない。

このまま何もしなければ勝手に、自然災害、飢餓、疫病、戦争、放射能汚染などで人類の滅亡は間違いなく成就されることであろう。

ただ一方で、私自身含めて教育、社会の中で植え付けられた近代以降の人間中心主義という考え方を否定する考え方にたどり着くことができるならば、人類が存在する意味はあるとも思える。

結局、人類の危機を私たちが乗り越えることができるとするならば、そのこと自体、人類が生き残る価値があったという証左なのだから

冒頭の問いであるが、前々回のブログ(1)で書いたが消費中毒社会の結末、そして前回のブログ(2)で書いた消費社会中毒の原因、それらの結末と原因をしっかりと認識することが大前提であるが、その上で私たちがどうすべきなのか私自身の考えを述べておこうと思う。

大きく分けて政治、経済、教育について述べておく。その中での順番であるが、すべて関連性があり、基本的に分けて考えることは不可能なことであり、どれが重要というものではない。全てが一つなのだから。ただその中で源流として経済から述べなければならないと思う。

経済関連についてであるが、まず貨幣、経済はそれ自体全く何ら価値があるものではなく、私たち主権者たる国民の生存を確保するうえでの単なる手段にすぎず、それ以下でも、それ以上のものではない、決してそれらを目的としてはならないという価値観を共有しなければならない。そして経済成長は、私たちが豊かに暮らしてゆくうえで全く必要がないものであること、手段としての貨幣、経済がありさえすればよいこと、それがすべての大前提であり、この前提を抜きに考えることはできない。

その大前提のもとで現在の社会を見直してみることから始めるべきだと思う。
そうしたとき、私たちが最も価値を置かなければならないのは、手段としての貨幣、経済を取り除けば、空間としての自然の豊かさ、時間としての自分が自分自身のために生きる時間、そして物質的な物ではなく精神的な人間関係であることに気づかされる。

それらを、大切に守ってゆくためには何が必要であるかと考えたとき、自然の豊かさのためには地球温暖化、大気、海洋汚染、砂漠化を防がなければならない、そのためにはエネルギー消費の削減が不可欠である。まずは、不必要な経済成長はやめて、過剰な生産、消費をやめることである。現実的に我が国日本を考えても多量の食料が廃棄処分されている現実は誰もが知っていることである。

政策的には現在進められているグローバリゼーションという考え方は消費エネルギーから考えたとき非効率であり、ローカリゼーションへの政策転換が不可欠である。なるべく小さな規模、組織内での物流にすることで莫大な物資の輸送のための消費エネルギーの削減が可能となる。24時間営業なども考え直すことで過剰な消費の抑制につながると思われる。

前回のブログでも述べたが、消費中毒社会を強化させる媒体としてのコマーシャル、宣伝についても過剰消費があって初めて成り立つものであり、過剰消費を様々な形で無くしてゆく中で必然的に消退してゆくであろう。

過剰消費がなくなる中で産業構造も変化してゆくことになるであろう。自然エネルギーを中心とする産業構造への変革、特にローカリゼーションの中で輸送の媒体としての地球温暖化の大きな要因である自動車産業を縮小してゆくことは変革の中心となるであろう。

労働環境についても個々人が経済という呪縛から精神的にも肉体的にも開放されて自分自身の時間を持てるような社会を目指すべきであろう。産業構造のローカリゼーションの中で人々の人としての新たなつながりも出てくるであろう。

政治的には、私自身が、ブログや、訴訟や、選挙活動の中で訴えてきたし、今もこうやって訴え続けているのではあるが、私たち主権者が失ってしまった立憲民主主義を取り戻すことが可能になるであろう。

貨幣、経済が目的化され、特に1980年代以降、経済至上主義、新自由主義の中で、企業がロビー活動、特に政治献金を通じて、政治的影響力を増し、国権の最高機関たる議会への影響力を行使して、有利な税制度、経済政策を推し進めてきている。2000年代に入ってもアメリカの連邦裁判所判決において、無制限の企業献金を認める判決が下されるなど、その勢いは止まることはない。

わが国においても多数を背景に、政党助成金と引き換えに一度は禁止した企業による政治献金の再開、それにとどまらず、議員による企業からの賄賂としか言いようのない裏金の授受、特にTPP交渉担当の甘利元大臣の金銭の授受など、企業により議会制民主主義が捻じ曲げられ、言わば乗っ取られているともいえるであろう。貨幣、経済が手段化される中で、本来の議会制民主主義の回復も可能となってくるであろう。

政治構造的にも、ローカリゼーション産業構造の中で、中央集権国家から、地方分権国家への転換が図られなければならない、現在中央政府、中央議会が有する様々な権力も可能な限り地方へ分権化し、国防、外交以外は基本的に地方へ権限移譲して、中央はその全体調整役に回ることになるであろう。

地方分権化することで、憲法上は、全国民の奉仕者である国家議員が現実的には出身地方や選出元の団体にいかに予算を持ってくるかに終始している現状を打破して、真の意味での立憲民主主義に基づいた国家のための、主権者のための国政を行うことができるであろう。

地方から見たときには地方分権により、地域の自然、環境に基づいた政治、経済、教育政策を行うことができ、政治責任論的にも現在の権限あって責任なしと言ったおバカな政治屋、官僚政治から脱却することが可能となるであろう。

教育についても、貨幣、経済を目的とする産業、政治構造の変革、地方分権化の中で、真にその一人一人の能力にあった教育環境の提供され、その教育目標、子供たちの能力評価指標も貨幣、経済からの呪縛が解かれて様々な評価指標が取り入れられてゆくであろう。

自然環境の回復の中で、自然とともに共生することの大切さ、ローカリゼーション化の中で人と人とのつながり絆の大切さ、譲り合い、助け合いの心の回復が教育の中で育まれてゆくのだと思う。

そして、そうした教育を受けた子供たちの心の回復が、地方から、日本全国へ、そして世界の人々の心の回復を成し遂げ、世界のすべての人たちが自然の中で共生できる社会へとつながってゆくことができるのだと私は確信している。

  平成28年8月31日   文責  世界のたま

貨幣、経済という麻薬による消費中毒社会(2)(貨幣、経済に本質的な価値はない)

安倍首相をはじめとするおバカな政治屋たちや、おバカな黒田日銀総裁が盛んに推し進めているアベノミクス、GDP600兆円目標、消費者物価指数3%目標、そのために国民に対してさらなる消費拡大を訴えているが、まともではない。

私たち主権者たる国民は、彼らが重症な麻薬中毒患者であることをしっかり認識して、私たち自身が麻薬中毒化することを防がなければならないし、中毒患者に対しては、その解毒が図られなければならない。

前回のブログで述べたように、貨幣、経済は人間が手段として発明したものであり、それら自身に本質的な価値はないのです。人間が社会生活をしてゆく上で、単なる手段として必要なだけなのです。

近代以降、人間中心主義の中で、資本主義が発明され、その過程の中で、手段の目的化が起こり、貨幣、経済そのものが目的化され、貨幣、経済そのものに価値があると人々に錯覚させるすり替えがなされたのです。

当然その中で、富の集中が起こってくる。より多くの貨幣を持つものが、より多くの物を得ることができるのだから。

他方で、多くの人々にとって社会生活するうえで、生きてゆくために手段としてのある程度の貨幣が必要であり、そうした中で必然的に貨幣を所有する量により人間の主従関係が形成されるようになり、それが現代でいう所得格差、貧富の差である。

それでは、元々、単なる手段でしかなかった貨幣、経済を目的にすり替えるため、現代にいたるまでその強化が何によってなされてきたかであるが、それは教育に他ならないと思う。

私は、現代の目的化された貨幣、経済を前提とした学校教育が、それらの手段の目的化の強化の元凶であると思っている。貧富の差は、お金がなければ塾や、専門学校や、大学などの教育を受けられない格差を生んでおり、その教育の格差は、最終的に現在の経済社会の中での貧富の差に直結している。

学校教育の中では、戦後の高度成長により現在の経済大国となった技術大国日本を称賛し、その過程の中で起こる公害問題も技術で乗り越えてきたことを称賛し、所得格差の問題も、問題として触れることはあっても、それらの元凶が、現代の目的化された貨幣、経済にあるということには言及されることはなく、あくまでも現在の目的化された経済を前提に、その中での是正を、どうしてゆくかという社会福祉政策にすり替えられている。

そうした中で、現在の目的化された貨幣、経済社会に何の疑問を持たない従順な人間の再生産が行われてきたのだと思う。

そして、貨幣、経済という麻薬によって、あるものは数多くの無駄な公共事業という麻薬、またあるものは補助金という麻薬、そしてあるものは減税といった麻薬、日銀による異次元の金融緩和という麻薬、数多くの様々な麻薬によって消費が促され、国民は消費中毒に陥る。

国民が消費中毒から目覚めないために、貨幣、経済至上主義という麻薬が切れないように、それらを支えているのがコマーシャル、すなわち企業の宣伝活動である。

テレビ、ネット、看板など様々な媒体を通じて新たな新商品や割引商品を宣伝し、消費を促し、国民の消費中毒症状の強化を24時間、365日図っている。結果的に必要のない過剰の生産、消費を起こさせる。

教育によって、貨幣、経済を目的化した、経済成長する社会こそが、豊かな社会であり、その経済成長を支えるための新たな技術開発、新薬開発、商品開発ができる人間、それらを多量に売りさばける人間が優秀な人間であるという観念を植え付け、広告、コマーシャルによってそれらを消費することの欲求を洗脳する。いわゆる大量生産、大量消費社会を作り上げているのである。

その結果として、自然破壊による地球の温暖化、海面上昇を引き起こし、多量のエネルギー消費による廃棄する場所のない多量の放射能廃棄物を生み出し、将来人間にとってどんな影響を起こすかもわからない遺伝子組み換え食品を多くの子供たちが食べさせられ続けている。寿命とは何なのかも考えないまま破綻しかあり得ない医療、介護保険制度を、医療、介護従事者、製薬メーカーのために、政治的、経済的観点からのみ延々と続けている。出す必要もない医療、介護廃棄物によって地球環境を加速度的に汚染し続けている。

金融、財政政策においても、株価、消費者物価、GDPなどそれ自体何の価値もない経済指標を目的として、将来の国民につけを回して赤字国債を発行し、金融緩和政策を実行し、国民の将来の生活の基金である厚生年金基金を法律改正までしてその投資可能割合を引き上げ、株式投資に使い、結果として今年3カ月だけでも5兆円以上の損失を出している。年金基金を株式に変えることは実際問題として株価が下がるため売ることはきわめて難しくなり、損失以上に年金として給付できなくなってしまうことはバカでもわかることなのに。

これらはすべて貨幣、経済という手段を目的化しているがために起こっている事象である。

貨幣、経済という麻薬により中毒患者になってしまっている安倍総理を筆頭とするおバカな政治屋たち、黒田日銀総裁を筆頭とするおバカな官僚たち、そして、経済至上主義、消費こそが美徳とする消費中毒患者になれはててしまっているおバカな私たち主権者たる国民

私たちは気が付かねばならない

貨幣、経済とは単なる手段であって、決して目的ではないのだということを
貨幣、経済自体には何の価値もないことを

私たち主権者にとって、生きるための手段としての貨幣、経済があればいいのであって、経済成長自体は全く必要のないものであることを

あくなき経済成長、消費社会の向こうには、人類の滅亡しかないことを

   平成28年8月30日   文責   世界のたま

貨幣、経済という麻薬による消費中毒社会(1)(その先に待ち受けているもの)

全国的に猛暑日の続く今までにない暑い夏、8月が終わろうとしている。
今月も世界を見渡してみても明るい話題はない。シリアでは相変わらずロシア、アメリカなどの国々が爆撃を続けて数多くの子供たちがその犠牲になっている。トルコでもテロ事件が相次ぎ、イタリアでは地震による数多くの犠牲者が亡くなられ、その数は増え続けている。

私がこのブログを立ち上げ、立憲民主主義に反する日本国政府、議会を司法に訴え続け、参政権を行使して、国民に訴えたのも、私たち人類の生存の危機がもうそこまで来ており、時間が残り少ないからであるが、世界でも同様に考えている有識者たちの予想では、人類の終焉が2060年頃であるとする予測、英国王立天文学者である「最後の世紀」の著者は、人類が21世紀を生き残る確率は二分の一であるとしている。生態学者である「ガイアの逆襲」の著者はその中で、文明の生存するチャンスはほとんどないとしている。

2060年ごろまでに人類の終焉が来るという予想に関しては私自身、どうかと思ってはいたが、実際のところ最近ではあながちないわけではないと感じている。

2年前、このブログを立ち上げたときに書いた冒頭の主権者への提言の中からずっと言い続けていることであるが、人類の滅亡への道を突き進んでいる原因は、手段の目的化である。

近代以降、人々は貨幣を媒介とした交易を盛んにして経済社会を作りあげてきた。その中で人々はより便利なものを開発して、より多くの物質的な富を蓄積しようとしてきた。特に資本主義社会においては企業の利益が最優先され、アダムスミスが言うように、企業の利益が上がることで万民が最終的に豊かになるという、今でいうトリクルダウンが信じられてきた。

人間社会の中で物のやり取りを含めた交流は不可欠であり、そういった意味で経済活動は手段としては不可欠なものであったが、貨幣含めた経済活動そのものが目的化されてしまい、企業利益を上げることが社会的な善とされ、自然は破壊された上、生き残った生物、環境そのものもその希少性ゆえに重宝がられ、その希少性そのものを、経済活動の中で利用するという世の中のすべての物を金銭的な尺度でしか評価しない社会になっている。

貨幣、経済そのものは、手段として人間が作り出したものであり、どこまでいっても本質的には目的にはなりえない。

一部のものによる富の蓄積、その更なる蓄積のために、貨幣、経済が目的化されてしまっている。一方で人々が生活し生きてゆくためにも最低限度の手段としての貨幣、経済は不可欠なものであり、結果的に目的化した人たちによる手段として生きる人々に対する支配、所得格差、貧富の差が生じる。

それでは富あるものが幸福であるかというと、彼らが幸福と錯覚しているものは所詮、それ自体は全く価値のない単なる貨幣、経済の蓄積である。それらを価値あるものとし続けるためには貨幣、経済の目的化が不可欠なのです。貨幣、経済が本質的に何の価値もないものと認識されれば自分たちの優越性が消失してしまうのだから。

そういった意味で富あるものも、貨幣、経済という麻薬に毒された重度の中毒患者でありそれらに利用されているGDP、株式相場というそれ自体意味のない空虚なものに踊らされおバカな国民に更なる消費を促すおバカな安倍総理を筆頭とするおバカな政治屋、おバカな日銀の黒田総裁も重症な中毒患者である。

そして私たち主権者たる国民も、かけがえのない自然という空間、そして本来は自分自身のために使うべきかけがえのない時間と引き換えに、家や、車や、洋服、食べ物、貴金属というエサにつられて彼らと同様に、結局、貨幣、経済という麻薬に毒され、消費中毒患者への道を歩み続けている。

そして、貨幣、経済という麻薬に毒された多数を占める消費中毒社会が向かう行き先に待っているもの、それは、人類の終焉であり、文明の消失である。

    平成28年8月29日   文責  世界のたま

更なるおバカな国民へGO!(3)

 先日お話ししたデカルト以降の近代精神の形成の中で、更なるおバカな国民への流れを決定づけているものは、自然科学の発達の中での、人間の自然に対する驕りである。

 新自由主義、経済至上主義、グローバリゼーションの下での、環境破壊は、その典型であるが、遺伝子組み換えなどの自然の摂理に対する侵犯、地球上のあらゆる自然が人工化されてゆく中で、自然はそれを押しとどめるべく、地球温暖化による異常気象、海面上昇、多剤耐性菌、ウイルス、そして人間の細胞の癌化、あらゆる手段を講じて人間に対して、自然へのより戻しを行ってきている。

 地球という星そのものも、所詮は宇宙という大きな自然の中での一つに過ぎない。そんな小さな地球という星の上で人間が何をしようと全体からすればたいしたことではない。宇宙という大自然の中では、例え自然のより戻しの中で人間という種が絶滅したところで、おそらく何もなかったかのようにただ過ぎ去ってゆくだけであろう。

 ドーピング問題でゆれるオリンピック、島の領有権でもめるASEAN首脳会議、テロが頻発するヨーロッパ諸国、様々な問題が世界で起きている。それらは所詮、人工的で取るに足らないくだらない問題にすぎないが、少なくとも現実的な問題である。

 数多くの現実的な問題がある中、一方で、ポケモンという架空の生き物を求めて多くの人々が街中をさまよっている。私は街中を多くのゾンビがさまよっている光景を重ねていた。
 
 彼らに共通しているのは生ける屍、心がないのだ。

 彼らの出現は、人間の潜在的な逃避行動なのか、それはわからない。ただ一つだけ言えることは、更なるおバカな国民へのGOだという事実だ。

     
     平成28年7月27日    文責  世界のたま

更なるおバカな国民へGO!(2)

自分たちが置かれている状況を全く認識していないおバカな国民が救われる可能性はあるのだろうか?
 
 国民の権利義務を制限する法律を制定し、それを執行する国会、内閣が違憲状態の国会議員で占拠され、政党国家化現象の中で、法律を定立し、日本国憲法上では国権の最高機関であるはずの国会が実質的に内閣の下に置かれ、国会と内閣における権力の抑制と均衡が機能停止に陥っている状況。

 民主主義という概念を選挙制度の上では、人口の少ない地方の意見を政治に反映するためだと一票の格差を正当化する一方で、国会の強行採決の局面や、沖縄問題などでは、多数決こそが民主主義であると豪語する。

 特に彼らの言う民主主義では、立憲民主主義における立憲という、憲法に基づいたという考え方が抜けているというより、意図的に外されている。

 上記に述べているように、現在のわが国における立法、行政という統治機構において立憲主義は機能しておらず、国民主権という観点からの民意によるコントロールも機能不全に陥っている。

 これは操縦不能になった飛行機に似ている。操縦かんを握っているコックピットの機長、副機長が国家機関であり、乗っている乗客が国民である。機体の一部は破壊され、操縦かんは機能していないがクルーにはその原因が見えていない。そして操縦不能になったことを乗客は知らず、それぞれがこの平穏な生活が永遠に続くものと錯覚している。

 機外の天候は悪化の一途をたどり、それは今の世界状況と同じで回復の見込みはない。

 そこで冒頭の問いである。おバカな現状認識をしていない国民が救われる手立てはあるのであろうか。

 私は、そんな状況下でおバカな国民が救われる方法があるとすれば、それは機外に求めることであると思う。管制塔を通じた多くの客観的な冷静な検討、指示である。そして最終的にはそれらを冷静に受け止め、適確に選択して、実行に移すクルー、および乗客自身である。

 管制塔の役割を果たすのが司法、すなわち裁判所である。

 どこまで立憲民主主義的な意味でその機能が、残存しているのか、それは私にもわからない。しかし、民主制という飛行機の根幹部分が破壊されてしまっている中、操縦かんが全く機能しない中、非民主主義的な機関であるがゆえに、民主制の崩壊の中で、最後までその機能が影響を受けることなく残存していることを私は信じたい。

 司法とは、日本国憲法が、国民の権利と自由を守るために、そして、最終的に日本国憲法自身をも守る憲法保障機関として、そのすべてを託した存在なのだから。

          平成28年7月25日   文責   世界のたま

更なるおバカな国民へGO!(1)

 この度の参議院選挙、並びに行われようとしている都知事選について言えることは立候補者、有権者含めた時代認識の欠如であり、このことは致命的な事実である。

 しかしながら、人間というものはそれぞれの時代の渦中にいるとき、その歴史的流れの中での己自身を客観的にとらえ、その時代の軌道修正を図ることは簡単そうで非常に難しいことなのであろう。

 近代哲学の父であるフランスの哲学者デカルトが語った、我思うゆえに我あり、すなわちそれまでの他の動物と同じように自然を恐れ、神によってすべてが決せられると信じた世界から、あらゆるものの存在を信じることはできないが、こうして考えている自分自身の存在だけは否定できないとする、人間中心主義、科学的に証明されたもののみを信じる科学主義、それらが私たち近代精神の源泉であり、そこから派生した民主主義、資本主義、自然科学の発展それらすべてが行き詰まっていること。

 グローバル化の流れの中での富の蓄積により、資本主義が民主主義を機能不全に陥れようとしている現実、蓋し、あらゆる民主主義的組織は説明責任を持っているが、私的組織は説明責任を持つことはないのだから。

 今回私が参議院選挙に立候補してつくづく分かったことは、本来の政党の意味を全くなくしてしまっている説明責任を持っていない政党による選挙制度の支配、独占化だ。前回の衆議院選挙から衆議院選挙では個人の立候補者の政見放送ができなくなってしまったが、それ以外でも個人が立候補することは制度的に困難になってきている現実。

 そして説明責任を持たない非民主的な政党をただ単に盲信し、追従する自律心のないおバカな国民と、権利の上に胡坐をかいている愚かな国民。

 特定秘密保護法により表現の自由が侵害され、安保関連法により平和的生存権が侵害され、違憲選挙制度、立候補の自由への侵害により民主制度が侵害され、民主制による国民の権利侵害への回復が困難になっている現実。

 それらの事実を前にして、私たち国民は更なるおバカな国民へとただひたすら突き進んでいるのである。

     平成28年7月25日   文責  世界のたま

参議院選挙につきまして応援ありがとうございました。

参議院選挙につきまして、応援ありがとうございました。
16.691人の貴重な一票、一票を大切にさせていただきます。
選挙を終え、選挙結果を前にして一言だけ述べさせていただきます。
歴史を振り返って初めて人々は冷静に物事を判断できること、渦中にいてはその判断がなかなかできないことをつくづく思い知らされました。
今回の結果についても歴史が証明することになると思う。
ただし、私は、あと三回私たち主権者にチャンスがあると思っています。(選挙という意味ではありません)
現在の主権者、そして未来の主権者のために
応援してくださった方々の一票一票を無駄にすることなく大切にさせていただきます。
本当にありがとうございました。
なお、この二日間コメントを寄せてくださった方々には本日中に御返事させていただく所存です。

平成28年7月11日  文責  世界のたま