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おバカな国民がどうやって現代立憲民主主義を守ってゆくのか(2)

おバカな国民が持っている合理的無知、合理的非合理性の中で、どうやって民主主義制度を守ってゆけるのか。このことは本当に難しい問題で、前回のブログの最後に述べたようにかなりの確率で私たちは近い将来、間違いなく後戻りのできない世界へ入り込んでしまうであろう。

イリア・ソミンは政権選択をする選挙の観点から、おバカな国民でも正当に近い正しい選択が可能な思考過程はないのかいくつかの思考過程を検討しているが、彼自身がその著書の中で述べているように、如何なる思考過程においてもある程度の思考努力が必要であり、現代のおバカな国民では期待ができないとしている。私自身も今までのブログの中でも述べているが基本的にはサラリーマン化し、贈与を否定した他者への思いやりのない、自分自身の趣味や仕事にしか興味を持たない思考停止した国民では難しいと考えている。彼らには民主主義制度を守り、培ってゆく能力はない。

現在の日本における安倍独裁政権について検討してみよう。

安倍政権はアメリカの次期大統領のTPPからの撤退声明後も、国内においてはTPP法案の国会での強行採決をもってしてでも可決しようとしている。アメリカ抜きでのTPPは意味がないという参加加盟国の意見がある中で行おうとしている。ここまでしないといけない理由は何なのかであるが、TPPによって利益を得る国内大企業、選挙支持団体の利益など細かな問題もあると考えられるが、その最大の目的はグローバル化の強調に尽きると思う。

北朝鮮脅威論、中国との尖閣諸島問題、ロシアとの北方領土問題、韓国との竹島問題等々、それらのグローバルな問題は事実として存在はしているが、それらをたきつけることにより、国家主権を強調化させ、一方で民主主義を押さえつけてゆくことにある。

例えば、先日駆けつけ警護を従来の任務に付加したスーダンへの自衛隊派遣であるが、そのこと自体、日本国憲法に反する国家的な違憲無効行為であるが、私には現政権による治安が悪くなった地域への強硬な派遣の持つ意味は、これくらいならと徐々に国民感情を慣らし、違憲無効行為の常態化による正当化もあると思うが、はっきり言って自衛隊員の駆けつけ警護による死すら国家主権を強調化させるための扇動行為の手段にしようとしているのではないかと思う。

私は、今の日本の国民、特に有権者の政治的知識を考えたとき、ほぼ絶望的なほどに
無知であると思う。何度も言っているが有権者一人一人が一般的な意味で無知でバカであると言っているのではない。政治的無知であると言っているのである。まず、何がともあれ投票に行かないのである。投票すらいかない人間が新聞やニュースなどを用いて政治的知識を得る努力をすることは到底考えられない。知識はあるが行っても無駄だからと自ら棄権行為を弁護する人もいるであろうが、所詮前回のブログで述べた合理的無知な人間に過ぎず評価に値しない人間である。私たちがこうやって自由な世界を満喫できる民主政治獲得、選挙権獲得の歴史を知らないのである。先人たちが血と汗の中で獲得した歴史を知らないのである。

この政治的無知な国民がどうやって崩されかけている日本の現代立憲民主主義制度を守ってゆけばいいのか。ここまで政治的無知になってしまっている大多数のおバカな国民を教育することは不可能に近い、一方で、安倍政権は、ほっておいてもおバカでしかないのに、NHKをはじめとしてマスコミへの圧力、特定秘密保護法による国家情報の秘匿など、わずかに残っているおバカでない国民に対する政治的情報提供の妨害を図っている。

選挙権が18歳以上になったがこのこと一つとっても、いい意味では若い世代に自分たちの時代なのだからその厳しい未来に対して彼らにも政治的な権利を与えようということでもあるが、正直なところ扱いやすいおバカな国民を増やしてより強固な国家主権の構築を図ろうとする意図が見え隠れする。例えば、憲法改正による自民党改正草案にあるような緊急事態条項のような内閣総理大臣のみでの憲法の停止である。

私が思うに、日本の現代立憲民主主義の崩壊は将棋で言えば詰めの段階に入ってきている。時間がないのだ。先程話したように、おバカな国民の教育は不可能である。それではどうすべきなのかであるが、私が今までのブログで述べてきたことの繰り返しになるが二つしかない。

一つには3年近く前から私自身が訴え続けているが、司法権による現代立憲民主主義の防衛である。このことについては三権分立における他の権力、特に国会との兼ね合いの中で選挙によって選ばれた民主的機関である国会を非民主的な機関である司法は尊重すべきという考え方が従来から言われているが、それはあくまでおバカでない国民による選挙が大前提である。政治的無知な国民が選んだ国会は本来の民主的機関であるかどうかが疑わしい。というより、民主的な機関ではありえないであろう。例えばナチス政権下である意味で民主的に選ばれた国会によって可決された特定の人種の迫害法を司法は尊重すべきだと誰が言えるであろう。

また高度に政治的な問題に関しての司法判断は避けるべきといういわゆる統治行為論も飽くまで健全な政治的な無知でないおバカでない国民による政治的な問題である。おバカな国民にはその判断能力がないのであるからそもそも政治的な判断ができないのである。司法がその問題を避けることこそ、国民の人権を国家機関から守るという立憲主義に反する行為だとしか私には思えないのです。

ここで言う司法とは、前にも何度か話しているが司法権というより、一人一人の裁判官の日本国憲法で言うところの良心である。私が棄却されても訴え続けている理由はこの一人一人の裁判官の良心への信頼である。それこそが言い換えれば、自然法による支配なのだから。

そしてもう一つが日本国憲法による現代立憲民主主義の防衛である。このことも裁判を通じて訴えていることでああるし、今年の参議院選挙に立候補し、訴えた理由である。

今回のブログのテーマである、おバカな国民がどうやって民主主義を守ってゆくのか、その答えは一人一人の裁判官の良心の中、そして戦後、多くの国民の犠牲により獲得した日本国憲法の中にあるのです。

私は、冷静に今の日本国を考えたとき、おバカな総理に、おバカな国務大臣、おバカな国会議員、おバカな官僚だらけだと思う。ただ最も大バカなのは日本国民私たち自身だと思う。

おバカな日本ではあるけれど、私は日本という国が大好きなのです。世界に例を見ない四季をもった自然、助け合い思いやりをもった勤勉な国民性、それらが存在するための前提である現代立憲民主主義が今まさに危機を迎えている。もう時間はそんなにないのです。

現代立憲民主主義を作り上げるのには多くの時間を要したけれど、その崩壊は一瞬である。

もう一度言っておきます。
国民の人権を守り、世界平和を守ってゆくためには、手段としての現代立憲民主主義が不可欠です。如何に強大な軍事力を持とうとも、核兵器を持とうとも、現代立憲民主主義が確立していない国家が、国民の人権を守ることは不可能なのです。

私たちおバカな日本国民が、現代立憲民主主義を守ってゆくために必要不可欠なもの、それは、現在存在する日本国憲法の順守と、一人一人の裁判官の良心を通しての自然法による支配以外ありえないのです。

    平成28年11月29日   文責  世界のたま

おバカな国民(政治的無知)がもたらすもの(1)

今回のアメリカ大統領選でのトランプ現象がなぜ起きたのかということについて、私は二つの理由があると思う。

一つには以前もイギリスのEU離脱についてのブログの中で述べたことであるがグローバル化の中での国家選択の問題である。

今回のアメリカにおけるトランプ現象は構図的に、イギリスのEU離脱と同じことであり、世界中でこの現象は起きている。フランスでの国民戦線の台頭、ドイツにおけるメルケル首相の急速な支持率低下、フィリピンでのドゥテルテ大統領の台頭、我が国日本においても安倍自民党による一党独裁政権の台頭等々、見えている形は違っても構図としては同じことなのです。

これらの現象がなぜ生じているのかというと、今までのブログの中でも取り上げていることであるが、グローバル化の流れの中で、世界中で生じている格差社会が最たる原因だと私は考えている。

格差社会の中で裕福な者たちによる政治献金、ロビー活動により、正常な議会制民主主義制度が捻じ曲げられ、結果的にグローバル化の流れの中で更なる格差社会を生み出している。格差社会の拡大の中では、国内においてはグローバル化の拒絶、国家主権重視への世論が形成されやすく、国家主権重視については、国家権力もそれを利用して更なる強固な国家権力を求めて国民に対して国家主権重視を煽る。その結果として国家主権が台頭しやすい世界情勢が作り出される。

形は違うにしても現在世界中で起こっていることはそういうことだと私は考えている。その中でもそれぞれの国において、その歴史的背景などにより上記にあげたバランスは微妙に異なっていると思う。

民主主義制度が根付いているEU,アメリカにおいてはグローバル化の否定、すなわちイギリスにおけるEUからの脱退、アメリカにおけるTPPへの加入辞退などがそれにあたるが、民主主義制度と国家主権の関係においては、たとえ形骸化した民主主義制度であったとしても国家主権の暴走を寸でのところで止めることができるのではないかと、この間のそれぞれの国民の反応を見て思っている。

一方、民主主義制度が根付いていない日本やフィリピンでは、グローバル化の流れの中で国家主権が優先される中、民主主義制度がないがしろにされてしまう傾向があり、この間の実際の事実としてもフィリピンにおいては、国際的非難の中、国民の生命、身体の自由への侵害が国家主権の下で強行されている。日本においては特定秘密保護法の強行採決による民主政治にとって欠くことのできない知る権利への侵害、安保関連法の強行採決による平和的生存権への侵害、そして最も看過することが許されない私自身も今年の参議院選挙に立候補して訴えた民主政治の根幹をなす選挙制度の違憲状態があげられる。

そしてトランプ現象が起きている二つ目の理由であるが、このこともこれまでのブログの中で再三訴えていることであるのだが、おバカな国民(有権者)の存在である。

私がここで使っているおバカという言葉であるがこれは一般的な知能、知識という意味で言っているのではない。私が言うおバカな国民とは政治的無知な国民という意味である。前回のブログでも述べたが現在の日本の総理、国務大臣、国会議員もおバカさんだらけであるが、スポーツや経済、お金を稼ぐ能力など政治以外では優秀な人も多いと思う。ただ、残念なことに政治的には無知でおバカなのである。

いつも言っているように、権力者が権力を行使する上で、その手足となる人間は、無批判に何にでも言うことを聞く政治的に無知でおバカな人間でないと困るのだ。

EUから離脱したイギリスでの国民投票の後でも、トランプ現象が生じたアメリカの大統領選の後でも、それぞれの国民が国際ニュースの中で述べていたことで印象に残ったのが、日頃から政治に関心をもっていなければならないことをつくづく感じたという話だった。

そうなのだ、国民投票や選挙に行こうが行くまいが、多くの国民、有権者に通じて言えることは、おバカさんだらけなのだ。政治的な無知な人間だらけなのだ。多くのおバカな政治的な無知な人間が投票し、棄権しているだけなのだ。

アメリカのジョージメイソン大学の教授であるイリア・ソミンがこの政治的無知な有権者の問題が結果的に混とんとした世界情勢を作り出している民主主義制度にとっての大きな脅威となってきている問題であることを投げかけている。

イリア・ソミンは、おバカな国民がおバカであり続ける理由として合理的無知という概念を用いている。例えば有権者の投票行動を考えたとき、世の中が有権者にとってうまくいっていて、多くの有権者がそう思っているときに、敢えて投票に行かないだろう。逆に世の中が有権者にとってうまくいっていないときに自分一人が投票に行ったところで何も変わらないだろうと思い、敢えて投票に行かないだろう。その有権者にとって投票しないことはある意味で合理的なのである。そういった有権者は投票に関わらず、多くの政治的問題においても無知であり続けるであろう。例えば自分一人が自動車をエコカーに変えたところで地球温暖化にほとんど影響がないと考え、何一つ行動を起こさないことと同じことだ。

イリア・ソミンは、おバカな国民が陥りやすい行動として合理的非合理性も挙げている。ある一定の政治的思考を持つおバカな国民は、自分の思考にあった情報を安易に受けいれやすく、そうでないものに関しては無視し、拒絶するというものだ。他者から見て非合理な事実もおバカな国民は難なく受け入れてしまいやすい。私は思うのだが、2000年以降の小泉総理時代からの郵政民営化、ぶっ潰せなどのショートカット化された歯切れのいい訴えに単純に踊らされる国民の多くはおバカな国民であろう。小泉以降も、橋本元大阪知事や、現在の安倍総理にも通じるものがある。ナチス政権下のヒトラーの言葉に踊らされたおバカな国民と同じだ。

これらのおバカな国民のもつ合理的無知、合理的非合理性を、おバカな国民が増えている中で世界中の一部の権力を握り、また握ろうとする人たちがこれらを利用して国家主権のコントロールを図り、その強化をもくろんでいるのが現状であると思われる。

以上のように世界を取り巻くグローバ化の流れと、国民のおバカ現象が相まって世界中で民主主義制度の危機を招いており、とりわけ民主主義の根付いていない日本にとってはその危機は、ほぼ崩壊を意味しており、現実的にここ2~3年で国家の基本法である憲法を否定し、国家権力機関の制限規範である憲法を、主権者たる国民の義務規範にすり替えようとしており、もはや我が国には本来的な意味での憲法は存在しなくなっている。

それを許しているのがおバカで無知な日本国民である私たち一人一人なのだ。

歴史を振り返ったとき、おバカな無知な国民は、ナチス政権下や、東條英機政権下でも存在した。第二次世界大戦という未曽有の大量殺戮が行われたが、現代と比較したとき、二つの大きな相違があると思う。一つには当時は今ほど国民一人一人が直接、バイアスのかかっていない情報を得ることが困難な時代であった。そしてもう一つには最終的に核兵器は使用されてしまったが、現代ほどの高レベルの大量殺戮兵器はなく、基礎をなす地球環境もまだ保たれていた。だから、人類は後戻りができたし、今私たちが存在しえたのだ。

これだけネットなどを通じてバイアスのかかっていない世界の情報を個人が得られる中での無数のおバカな国民の存在、無数に存在する大量殺戮兵器、修復不能になりつつある地球環境

それらを考えたとき、私たちはもう二度と後戻りをすることができないであろう。

   平成28年11月29日    文責  世界のたま

思考停止したサラリーマン化した者たちよ、立ち上がれ!(自然法による支配)

TPP衆議院採決が立ち止まっている。
日銀の黒田総裁による消費者物価上昇2%目標も行き詰っている。
豊洲市場移転問題も暗礁に乗り上げている。
オリンピック競技会場問題も同様に暗礁に乗り上げている。

これらすべてに共通することはすべて金がらみだ。
お金という単なる交換価値しか有しないものを最大の目的としてしまった者たちの見るに堪えない醜悪至極の行為のなれの果てである。

昨夜のニュースの映像の中に、安倍総理が同期の議員たちと料亭で酒を飲み赤ら顔で、車に乗り込もうとしている映像があった。おバカな総理を、おバカな大臣たちが取り囲んでいた。

まったくおバカな能天気な人たちだと思う。彼らが料亭で飲み食いしている同じ時間に、多くの国民は仕事に追われ、スーダンでは自衛隊員が、アフガニスタンでも多くの支援団体が、その他、世界中で医師団、ボランティア含めて様々な団体が命を懸け活動をしている。

自分たちだけは安全なところにいて、料亭でおいしいお酒を飲み、国民には日本も集団的自衛権のもとで国際協力しなくてはいけないなどと調子のいいことを、法律という権力を振りかざさして強行しようとする。

たとえ、戦闘やテロなどで誰が亡くなろうと、彼らは何の感情も抱くことはないであろう。自分たちは安全なところで美味しいお酒を飲み続けているであろう。かつて多くの玉砕した兵士や、特攻隊で散っていった若者や、沖縄で崖から冷たい海に飛び込み、洞穴の中で自爆した民間人を尻目に、東京の地下壕で庶民が口にすることもできなかった美味しいものを食べていた戦争指導者たちのように

もし、彼ら自身の命が現実的にかかっていたとしたら彼らは決してそのようなことはしないであろう。というよりそんな強い精神力や思想は持ち合わせていない。所詮、志も何もないつまらない人間たちの集まりである。権力や、くだらない名誉、何の価値もないお金のために生きているだけの人たちなのだから

憲法が何なのかを理解していないおバカな総理、大臣室でポケットに賄賂を入れるしょうもない元経産省大臣、農水省に明日来たらいいことがあるなどとほざいている農水大臣等々、おバカさんのオンパレード、否、もはや国家的犯罪者のオンパレードだと思う。

歴史を振り返り、彼らを見て思い出すのは、1966年から中国の毛沢東が行った文化大革命、そして毛沢東が亡くなり、文化大革命が終焉を迎えるころに始まったカンボジアでのポルポト派による恐怖政治である。

文化大革命では紅衛兵という本当にまだ幼い無知な子供たちが、武器を持って権力の擁護の下、中国全土で知識人、文化人の粛清を行い、書物を焼き捨て、多くの人々が殺害された。

ポルポト派による弾圧でも文化大革命をお手本に、医者や、弁護士、学者など知識人を中心に何百万人の人が殺害され、国中に無数の地雷が埋められた。その際にも何も知識を持たない操りやすい子供たちが利用され、何の医学的知識のない子供医者などが存在していたと言われている。

前回のブログなどでも書いたが、今のおバカな総理や国務大臣を支えているのもやはり憲法なども知らない無知なスポーツ、経済などの専門バカか、しょうもないちっぽけな名誉欲、金欲を持った国会議員たちである。

彼らには以前ブログで書いた共通感覚が欠如しており、そして贈与の否定もしている人たちである。その結果として思考欠如に陥っている人たちであり、文化大革命の紅衛兵であり、ポルポト派の子供医者なのである。彼らには社会的なモラル、思いやりはなく、権力を背景に自分を大きく見せているだけで中身は何もない。空っぽな人間である。紅衛兵や子供医者がそうであったように長くはもたない。権力がなくなったとき、そこにいるのはただの無知な愚かな人間である。

私はサラリーマン化した現代の人たちに問いたい。彼らに自分たちの未来を、子供たちの未来を、このまま預け続けるのですか

企業で働くサラリーマンたちよ、企業という小さな社会の中だけで生き続けるのですか?
公務員たちよ、組織という小さな社会の中だけで生き続けるのですか?
自分たちの社会の外にはもっと大きな世界があり、そこは立体的以上の時間的空間が開けているというのに

私は司法を信じている。というより、法の支配を信じている。ここで私が言っている法とは自然法である。したがって自然法による支配を信じているといったほうが適切であろう

確かに多くの人たちは、特に有識者と呼ばれる人たちは司法も所詮は権力側でしかないという人たちも多い。事実、最高裁判事は内閣が任命するのだから、権力側に組みすると考えやすい、常識からすればそうかもしれない。

ただ私が違憲訴訟にこだわり、地裁に提訴し、それでもだめなら高裁に控訴し、それでもだめなら最高裁に上告し続けるのは、裁判官の独立を信じているからに他ならない。

歴史を振り返ってみると日本の裁判史上でもいくつかの裁判官の独立を守ろうとした裁判は存在している。

裁判官の独立という意味ではないが、私にとって印象的な裁判は水俣病患者に対する最高裁裁判である。多くの水俣病患者、弁護団含めた支援団体が長い闘争の中で、勝ち得たと思われた国との和解に応じたが、それには応じず、最高裁で闘った水俣病患者たちがいた。
まさかと思う患者勝訴の最高裁判決がなされた。それがきっかけとなってより多くの未認定だった患者さんが救われた。最終的には認定申請期限が区切られたことで、認定漏れの人たちが未だに多くおられることはこれから解決しなければならない課題だと思うが、誰もが予想しにくかった本当に大きな印象的な最高裁判決であった。

私は、人類が本当に進化の過程での最終の種であるとするならば、それが作り出す最終的ないわゆる文明社会は、現代社会のような共通感覚のない、贈与の否定をする、思考を停止した思考欠如した社会ではないと思う。

法、すなわち自然法に支配された社会こそが本当の意味での文明社会だと思う。

歴史を振り返ったとき、そして歴史を繰り返さないために、私がたどり着いた考え、唯一の答えが、自然法による支配、それ以外には考えられないのです。

  平成28年11月3日  文責  世界のたま

思考停止社会 ③ 天皇の生前退位について思うこと

先日、今上天皇が生前退位につき意見を述べられ、その後、そのことについて波紋を呼んでいる。私自身は戦後生まれでもあり天皇については、憲法上日本国の象徴であり、国事行為のみを行い、国政に関与できないという程度のことしかわからないし、それ以上のことを知りたいとも思わない。

今回の生前退位の発言についても、私自身は、今上天皇が言われることは本当に理に適っていることであり天皇自らがそう思われているのであれば単純にそうしてあげればと思う。
私はそんなに複雑に考える必要は全くないと思う。蓋し、天皇自らが心境を吐露し、望まれているのだから。

しかし、どうもことはそう簡単ではないらしい。生前退位を認めてしまうと、今後、天皇に即位することを拒否したりなど天皇制度の存続にかかわるのではないかなどの意見もあるらしく、安倍総理自らも、専門会議で慎重に検討を図ってゆくと述べていたが、特定秘密保護法、安保関連法、TTPでは見られなかった対応をしている。

今回の今上天皇の発言を聞いて私がまず思ったことは今上天皇の人柄だ。戦後間もない幼少のころから敗戦という時代背景のもと、アメリカ人の家庭教師の下でいろんなことを学ばれ、そしてその後の人生の中で培われたものであろうが、先に述べたように、今回天皇が述べていることはごく当たり前の考え方にすぎず、国民と同じ目線で考えておられ、また、考えてほしいという要望に他ならない。

戦後間もない1946年1月1日に天皇の人間宣言がなされた。この人間宣言については文言上、人間宣言という文言が全くないために様々な考え方がなされているが、私は、この天皇の人間宣言の持つ意味は、通説では法律学的に革命があったとされている明治憲法から現在の日本国憲法への主権者の変更、欽定憲法から民定憲法への変更を、形式的には明治憲法の改正手続きとして処理されたその法律上の問題は別にして、国民の精神的な落差を緩和させる緩衝材として天皇が発したと考えている。

上記のような私の考え方から、今回の今上天皇による発言こそ私には人間宣言に思えてならないのです。

日本国憲法において天皇は象徴である。今回の発言の中でもそのことに盛んに触れられて象徴としての公務に支障がきたさないように配慮してほしいとの気持ちを述べられている。

しかし、私には今上天皇の一連の行動、発言を見たとき、天皇は象徴というより、人間としての良心に従った行動をとり、発言をされてきたとしか思えないのです。

今上天皇がA級戦犯の合祀されている靖国神社を参拝されないことは天皇の意思であり、戦後50年(平成7年)には天皇のたっての希望で広島、長崎、沖縄、東京下町へ慰霊の旅をされた。また友好親善ではなく慰霊が目的での訪問は前例がなかったが、南太平洋への慰霊の旅を熱望され、戦後60年(平成17年)にはサイパンへの慰霊の旅、戦後70年(平成27年)には激戦地パラオへの慰霊の旅をされ、同年の8月15日には深い反省という言葉で太平洋戦争を振り返り表現されている。

安倍総理の薄っぺらな歴史認識に基づく継ぎはぎだらけの70年談話、靖国参拝などの行動や発言を見たとき、私には人間としての良心の差をまざまざと感じる。

今回の今上天皇の発言は、ある意味で一人の人間としての発言として思われ、私にはその思いがすっと心の中に自然に伝わってきたのです。

天皇に即位することを拒否することが将来でてくるのではないかという心を持った人としての天皇を考える前に制度としての天皇を考え、天皇の国事行為に政治的な意味合いを持たせようとしたり、自民党の憲法改正草案のように、憲法尊重擁護義務者の中から天皇を削除したり、それらの行為は、今上天皇が一人の人として望んでいることとは全く真逆のことであり、私には天皇を道具として政治的に利用しようとしているとしか思えない。

私には彼らが、純粋な瞳をした少女と合理的経済人という過去のブログの中で述べた、贈与の否定をした思考停止した人間としか思えない。思考停止した彼らは悲惨な歴史をただ単に繰り返すだけで、決して何一つ為すことはできないであろう。

最後になるが象徴としての重責を担われた今上天皇が、良心を持った一人の人間として今上天皇自身が望まれる一生を過ごされることを願ってやまない。

 平成28年10月31日  文責  世界のたま

思考停止社会 ② 現代立憲民主主義の崩壊とその立て直し

私は3年前から我が国における現代立憲民主主義の崩壊について、ブログを立ち上げ、こうして世論に訴え、また、裁判を通じて、司法の違憲審査権によりその是正を促そうと今現在も戦っています。今年の参議院総選挙に立候補させていただいたのも、主権者である国民としての唯一の、そして最強の権力的契機としての権利を行使することによってその是正を図ろうとしたからです。

私個人としては可能な限りの努力をしていますが、我が国における立憲民主主義の崩壊は日々音を立てて進んでいます。我が国だけでなくこの傾向は世界中で見られてきています。ただ我が国においては、歴史的に国民自らが作り上げた立憲民主主義ではないため、崩壊するときは早いのです。この崩壊する音は私だけでなく多くの国民にも聞こえているはずなのですが、先週の補欠選挙を見ても、何故かそれに対する反応は見られない。

一昨日も核兵器禁止条約の制定に向けて来年から交渉を始めるという決議が123か国の多数の賛成の下、国連総会で可決されたが我が国は核保有国を含む38か国とともに反対した。私はこのこと一つをとっても我が国における立憲民主主義の崩壊の一場面であると思う。

我が国の現代立憲民主主義が崩壊していることについては、今までのブログの中でも幾度か述べてきたところであるが、今回、二つの原因を述べさせていただき、その立て直しのために私たちが何をしなければならなないかを考えてみたいと思う。

一つは根本的な問題なのですが、現代立憲民主主義国家であるためには、まずその前提として、独立国家である必要があります。そうした点で私は、今の日本が独立国家であるかというとアメリカの属国である、いわゆるアメリカの飼い犬ポチ(アメリカの一つの州)に過ぎないと思っています。確かに前回のブログの中でも日本は1952年に主権国家となったと書いたし、一般的にはそう思われていると思う。しかし、現代立憲民主主義国家としての独立した国家かと問われたなら否と答えるしかないと思う。安倍総理は4月28日を主権回復の日として、沖縄を切り離したが、実はその逆で、その日を境に日本本土はアメリカの属国となったのであり、一方、外見上はアメリカの統治のもとに置かれてしまったが、前回のブログで書いたように、沖縄の住民はその日から自らの力で人権を勝ち取ろうと立ち上がったのだと思う。

安倍総理はアメリカの両院議会で演説をして茶番の拍手喝采をもらったことがあったが、私は、あの時ほど自分が日本人であることが恥ずかしかったことはなかった。最近のブログの中でおバカさんという表現をすることが多くなったが、本当のところ、私自身使いたくはない。しかし、彼ほどのおバカさんは今だかつていなかったと思う。
その演説の中で2015年夏までに安保法制法案を仕上げると断言した。しかし、閣議決定、国会への提示もない状態で総理として発言することは許されることではない。大きく二つの理由があるが、一つには、そのことが我が国の立憲民主主義国家としての否定だからである。ブログの中で何度も言っていることであるが国権の最高機関は国会である。国民の権利、義務、生存権に関わる法律に関して、閣議、国会に図る前にその法律の制定をアメリカの議会という場所で総理大臣が断言することは、国際公約と同じようなものだ。行政の長が立法も兼ねているという独裁国家にほかならず、三権分立、国民主権を規定している日本国憲法に反する立憲民主主義国家の否定である。

もう一つは安倍総理がアメリカのポチであるということを世界に宣言しているということにある。確かに、ペリーによる開国以来、日本は外圧に弱く、特に安倍総理は戦犯であった祖父を救ってもらい総理という要職に復帰させてもらったというアメリカに対して頭が上がらないということもわかる。しかしそれは彼個人の問題であって、彼自身はアメリカの奴隷でいいかもしれないが、日本という国家をわざわざポチのままでいさせてくださいと自ら喜んで差し出す権利を私たちは彼に与えた覚えはない。彼は売国奴に他ならない。そして国際関係の中における国家主権、国家の独立という点からみても、日本国憲法に違反した行為、すなわち立憲民主主義の否定に他ならない。

日米関係でいえば、1972年2月アメリカのニクソン大統領が冷戦下の中、電撃的な訪中を果たしたが、当時の佐藤栄作内閣には直前まで知らされなかった。このニクソンショックの巻き返しに日本は発足したばかりの田中角栄総理が同年9月に訪中、周恩来首相と会談し、日中共同声明を発表し、アメリカに7年先んじて国交を回復したが、当時のアメリカのキッシンジャー補佐官から絶対に許さないと言われ、田中総理は、結局放逐されてしまった。

戦後、戦犯であった岸信介を釈放し、総理にまで仕立て上げたのもアメリカの後ろ盾があってのことだと思うし、国会の審議、決議もないまま自衛隊の前身である警察予備隊を創設したのも、国会議事堂内でのデモの中、東大生であった樺美智子さんが機動隊員に撲殺された日米新安保条約の改定も岸総理の総辞職と引き換えになされた。第4次中東戦争の際、中東諸国がイスラエルを支持する国への禁油処置をとった際には、当時の三木副総理を中東に派遣して下手外交に接して功を奏しているが、それもおそらくアメリカのお伺いを立てた後にしたのではないかと私は思う。

経済面でも1990年代においては貿易不均衡是正のため日米構造協議により430兆円の公共投資(アメリカの貿易に悪影響を与えない分野)を約束させられ、1994年には10年間で630兆円規模に増額させられた。アメリカのドルを買い支え、その買い支えたドルはアメリカの中央銀行で管理され、アメリカの許可がない限り売ることもできない。

アメリカのポチであり続けるために、アメリカが日本に望むことは日本の政府が何も熟慮せずただひたすらアメリカの国益のために動いてくれることである。そのためにアメリカの奴隷である安倍総理にとって何を望んでいるかと言えば、国会が熟慮しないことだ。すなわち、一人でもおバカでちんけな出世欲を持った何も考えずイエスマンである思考停止した国会議員、そして大臣だ。

現在、小選挙区制度の下、一党独裁が完成しつつあり、先日の総裁任期延長もその一端である。私がブログを立ち上げて以降、特定秘密保護法での行政行為の不可視化、NHK会長の今までの慣習を破っての衆参国会の同意のないままの任命行為、NHK理事の会長派過半数確保誘導、それらを含めた報道機関への政治的圧力、沖縄県を含めた地方自治体に対する政治的、訴訟を通じての圧力、安倍総理自らが国会内で述べた「立法府の長」発言や麻生副総理がいみじくも述べた「ナチスの手口をまねればいい」発言は彼らの本音である。

しかし、前回のブログでも述べたが、思考停止に陥っているのは私たち国民自身であることを私たちは認識しなければならない。実は私たち自身がアメリカの言うことを聞いておけばどうにかなるという、属国マインドを個々人が内面化してしまっているのではないかと思う。例えば猫も杓子もアメリカ留学したがるが、特に政治学、経済学においてはアメリカ留学していわゆるグローバル経済を学んで日本国内の主要ポストに就く、アメリカの国益を最大化することでキャリアパスが開ける。しかしこれらはアメリカから見れば植民地支配における基本中の基本のやり方である。

熟慮させない、国会での審議時間、公聴会での審議時間を彼は無駄と考えている。それは国会での彼の言動、態度を見て、ほとんどの国民が感じていることだと思う。

安保法制についても二言目には中国が離島を占拠する、ロシアが攻めてくるかもしれない、北朝鮮がミサイルを撃ってくるなど危機感を訴え、民主的に国会で審議している時間はないと強行採決をちらつかせ、実際に行ってきている。今秋もTPPに関して行おうとしている。

この独裁的なやり方の先に待っているものは、自民党の憲法改正草案の中での緊急避難にたどり着く、これはこれが宣言されてしまうと憲法は一旦停止し、内閣がつくる政令が法律を代行することになるため、国民の権利義務が内閣のみによってどうにでもなってしまう、100日ごとにその法律を継続するかどうか国会の議決が必要であるが思考停止した国会議員が過半数を占めている限り継続され続けるであろう。

そういった意味で私は我が国が独立した主権国家、すなわち現代立憲民主主義国家であるとは、とても思えないのです

そして、我が国が現代立憲民主主義国家でなくなってしまっている二つ目の理由は、日本社会全体がサラリーマン化した社会になってしまっていることだ。

実際に現代社会において企業に勤めるサラリーマンの数の問題もあるが、彼らが日常的に当たり前として何の疑問も持たないトップダウン的な考え方がその元凶なのである。

現代社会にとってトップダウンによる経営は時代の流れの中である面仕方ないことと言えなくもないが、トップダウンの問題は、トップ以外が特にサラリーマン社会においてはサラリーマン自身、一人一人が何も考えることなく、何も疑うことなく、疑ったところで何もできはしないとあきらめの中で、思考停止に陥っていることである。逆に言えば何も考えることなく責任は他者に転嫁する生活に慣れきってしまい、それが社会における最適な仕組みと勘違いしていることである。

そのトップダウンの仕組みが企業のみならず、大学でいえば法人化され、教授会には何の権限もなくなり学問の府としての大学の自治も風前の灯火となっている。教育の現場でも教職員間も、序列化、管理された教育現場になってきており個々の教師における教育の自由もなくなってきている。教育委員会も解体され、権限が知事に一元化してきている。

そして最悪な状況になってきているのが、国権の最高機関たる国会である。個々の国会議員が小選挙区制度の中で、与野党すべてにおいて政党という組織の中で党議拘束という縛りの中でしか活動できなくなってきている。必然的に個々の国会議員も無知で、主体性のない名誉欲、自己顕示欲の強いものだけが政党によって推薦され、そのこともサラリーマン化した国民は違和感なく受け入れてしまっている。

具体的に言えば、橋本元大阪府知事が「民間ではありえない」とトップダウンによる政治運営の中でよく話されていたが、私はおバカではないかと思う。府行政は、所詮、企業ではない、民間ではないのだから当たり前の話だ。民間が好きならば府知事になるべきではない。確かに無駄な事、仕事の能率の問題があったかもしれない、しかし、それは個々人の府民に対する公務員意識の問題であって、行政目的そのものは住民の安全、福祉、教育などを扱うところで、元々、採算性に合わないからこそ行政がしているのである。トップダウンや懲罰で解決できるものではない

最大野党の民主党でも中心となる国会議員に松下政経塾出身者がいるが、政治ではなく政治経営をしようと考えているのではないかと思う。しかし、政治とは利益を追求するものではない。

2000年以降、小泉内閣のころから、日本の政治の質が変わってしまったと思う。長いデフレの中、国民の救世主にすがりたい気持ちも相まって、小選挙区制を背景にした小泉劇場に酔ってしまったのだと思う。トップダウン政治の中で、規制緩和の名のもとに、財界の力が政治を動かすようになり、自分たちに都合のいいようにルールを変え、そのルールのもとで小利口に利益を上げる人間が評価され、真面目に正直に生きる人たちにとって呼吸をすることがしにくい社会となってしまった。

私は、我が国における現代立憲民主主義の崩壊の原因として、我が国が未だに独立した主権国家でないこと、そしてサラリーマン化した他人任せした日本社会、その二つを挙げたが、この二つに共通することは結局、主権者たる国民の思考停止に他ならない。

私たちは、今後どうしてゆくべきなのであろう。

私が思うことは、これまでも何度も述べてきたことであるが、私たちは価値観を変えなければならない。個の中に全体があるのであって、全体の中の個のままであってはならないのです。たとえ大企業のサラリーマンでも、大企業という鎧がなくなったとき、思考停止した裸の自分を誰一人として相手にしないということに気付かなければならない。

主権者としても、そのサラリーマン的な思考停止の解除をしなければならない。国家は企業ではない、企業のように当期利益を追っかけるのではなく、30年、50年先のこと、次世代のことを中心に考えなければならない。

サラリーマンにとってたとえ企業がなくなっても、国家がある。主権者であることには変わりないのだ。しかし、国家の場合、国家がなくなれば国家を持たない難民である。そう言った意味でアメリカという私たち日本人が潜在意識の中で持っている後ろ盾がなくなることは恐ろしいことではあり、誰もが恐怖心を持つ。しかし、これからの時代を見据えたとき、それは避けては通れないことなのだ。

国民一人一人が企業や、政党などという組織人としてではなく、主権者としての自覚を取り戻し、そして思考停止を解除することしかこれからの日本の未来は存在しえない。そして地球上で人間が存在することもできないであろう。

平成28年10月31日  文責  世界のたま

思考停止社会 ① 大阪府警機動隊員による「土人」発言について思うこと

前回のブログで述べた現代の日本人の思考停止の典型的な一例である。

先日、沖縄での大阪府警機動隊員が基地建設反対派に対しての「土人」発言が社会問題となった。このことに対して、様々な考え方が報道されていたと思う。

その多くは、沖縄県民に対する差別発言であるという意見。それに対しては、反対派が侮辱的な言葉を投げかけた上での発言でありお互い様である。そして府知事の会見では、陳謝されるとともに、機動隊員に対するねぎらいの言葉もかけられていたように思う。

診察の合間に卸業者と話しをしていたとき、この話題になり、彼が機動隊員は権力側であり自らが権力を持っているという相手側と対等ではないという自覚を持ったうえで機動隊員は発言すべきであるということを話されていた。それもなるほどと思う。

私はブログの中でも述べたことがあると思うが、物事は立体的に考えなければならないと思う。

何故、沖縄という地でこう言った発言がなされたのかということだ。日本中で様々な問題に対して抗議デモ、集会がなされている。例えば安保関連法案の強行採決時にも多くの反対派が国会議事堂の周りで連日反対集会を開き、警察官とのやり取りも数多くあったのではないかと思う。また、各地の原発反対運動においても同様なことが起きていたと思う。

そんな中で何故沖縄という地だけでこういった発言問題が起きたのか、私はそこにこそ問題が隠されていると思う。そうした中で、沖縄県出身で元県知事、沖縄戦体験者である太田昌秀氏と元外交官、現在作家の佐藤優氏の対談本で書かれてあることは非常にわかりやすく、実際の事実であり、御紹介しながら私自身の考えを述べたいと思う。

沖縄は明治に琉球処分によって日本に編入され(奪われたという考えもある)、その後第二次世界大戦において多くの沖縄の人たちの命、自由、財産が奪われてしまった。

戦時中において当時の日本政府の中枢、すなわち大本営にとって沖縄は、本土を守るための防波堤、すなわち捨て石にすぎなかった。したがって、九州をはじめ本土各地の航空部隊を温存するため、沖縄空襲をした米軍機を迎え撃とうともしなかった。

当時の県知事であった泉知事にいたっては公用にかこつけて上京したまま二度と沖縄に戻ることもなかったし、部長級の県首脳も警察部長を除き残らず、いわゆる本土(あえて本土という言葉を使いますが)に逃げ帰ってしまった。

男子中学生は鉄血勤皇隊という学校単位で結成して出陣、女子生徒たちは即席の看護教育を受けたたけで準看護要員として日夜傷病兵の看護にあたらされた。しかし、当時の沖縄県下の男女中学校の生徒たちが武装して戦場に出される法的根拠はなかった。10代以上の生徒たちまでが戦場に投入できるとする義勇兵役法が公布されたのは、沖縄の守備隊を指揮していた牛島司令官と長参謀長が自決して、守備隊の組織的抵抗が終焉した1945年6月22日、その当日であった。結果的に男子学生の半数、女子学生の6割が10代の蕾のまま戦死した。もはや誰が見ても勝てる見込みのない敗戦が決まった時期になぜ国は公布する必要があったのか。

敗戦が刻々と迫るそんな中、日本政府は、最高戦争指導会議の場で具体的な和平交渉の要綱を作成したが、その中で固有本土の解釈について、沖縄、小笠原、樺太は捨てることが書かれてあった。日本政府は沖縄を捨てたのである。

一方、集団自決などの悲惨な経過をたどる中、まだ戦時中であったが戦後処理に関する1943年のカイロ会談においてルーズベルト大統領は中国の蒋介石に対して中国が沖縄の返還を要求すれば中国に返還することを提案している。それに対して蒋介石は米中の共同管理下に置いて非軍事化して将来は国際機関に管理を委ねることを伝えた。

結局、アメリカの占領下の中、住民をそれぞれの集落に戻そうとせず、各地の収容所に隔離し、沖縄の大半の土地を占領し、軍事基地に使用した。また、米軍に土地を奪われた農民たちは、一度に500人規模で南米のボリビアに集団移民させられ、住民の対米感情は悪化し、そんな中で日本復帰への思いが強まった。

沖縄の住民は占領下、無権利状態の中で、自治権の拡大、民主化を図り、一つ一つの基本的人権を獲得してきた。本土では民主憲法が上から与えられたのに対して、沖縄では、民衆が自らの手で獲得してきた。それだけに平和と民主主義を基本原理とする現行憲法への執着が強かった。日本復帰の願いは叶えられたが、司法が統治行為論により日本国憲法の適用が躊躇される日米安保条約の下、またしても住民の人権は踏みにじられたままなのである。

戦後まもなく沖縄の在日米軍専用施設は全体の53%だったが、日本が独立したとたんに逆に本土から海兵隊を沖縄に移したために現在の75%に増えてしまった。米軍が北海道への基地移転を提起した際にも当時の町村官房長官が自分の選挙区に移すのは反対だとつぶされたこともあったようだ。実際、政府や与党の政治家、そして本土の国民誰もが、日米安保条約は国益に不可欠であると言いながら、自分たちは一切その負担を引き受けようとしない。

戦後、戦後軍事裁判所はA級戦犯者25人を有罪として、7人の死刑を執行したが朝鮮戦争含む冷戦の中で7人以外の戦犯者を釈放し、戦時中の中核的存在だった現総理安倍さんの祖父である岸信介らの戦争責任を徹底追及することなく要職への復帰を許した。軍事裁判所に対する様々な意見はあるが、国民としての私から見ても明らかに彼らは多くの子供たちを含む日本国民を死に追いやった張本人であり、その責任は大きくそう簡単に許されるものでない。私は、このことが、戦後民主主義を変質させ、現在の孫である愚かでおバカな安倍総理による立憲民主主義制度の破壊、戦争の歴史を繰り返そうとしている行為につながっていることは避けがたい事実であることは間違いないことだと思う。。

敗戦から7年後の1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本国憲法の下、日本は主権が回復したとされた。一方で、沖縄は上記で述べたように日本から切り離され米軍統治で27年間、生命への侵害、女性への性的侵害、土地の侵奪、強制移民など住民の基本的人権を蹂躙され続けた。それは悲しいことに今、現在も続いている。主権が回復されたのは本土であって沖縄ではなかったのだと思う。そして今だもって、回復されているとは私には思えない。

沖縄県民が「屈辱の日」とする4月28日を、戦争責任者である岸信介の孫である安倍総理は「主権回復の日」として祝っている。その歴史認識は上記で述べた沖縄切り捨てそのものである。

私は思う。現政権の間違った歴史認識に基づく、立憲民主主義政治の破壊という事実こそが大阪府警の機動隊員の発言の元凶なのである。今日のニュースの中で警察庁が土人発言について、全国の警察に向けて、人権擁護の徹底の指導を図る指示を出したと伝えているが、全くの茶番である。泥棒が盗みをやめましょうといった類の発言である。政府、警察庁自らが発言させているのだという当事者意識のない、相変わらずおバカな首相、政府の指導の下にある警察庁であることをその発言は露呈している。そんなことでは決して今回のような発言はなくなることはないし、元々彼らは指導する気もないのだと思う。

機動隊員はそれをただ代弁しているだけなのだと思う。そしてそれは物事を立体的にとらえることのできない無知そのものである。

そして、今回問題となった彼の一言は、現在の日本国民の姿、そのものであり、それこそが、歴史を顧みることもしない、贈与を否定し、他者を思いやることのできない思考停止をした私たちを映し出している鏡だと思えてならない。

平成28年10月29日  文責  世界のたま

純粋な瞳の少女と合理的経済人

その昔、一人の少女に出会った。長い間使い古した黒い携帯ケースを大切にする、無邪気に砂浜に小枝で名前を書き、潮の香りも聞き分けられる本当に純粋な瞳をした少女だった。

私がブログを通して述べている手段の目的化が人類滅亡の危機の原因であり、特に前回のブログの中で貨幣、経済という手段の目的化による経済至上主義すなわち、大量生産、大量消費社会が最たる原因であることを述べたが、セルジュ・ラトゥーシュが、その著作の中で言っていることは私も同感であり、興味深いので、それらを交えながらお話ししようと思う。

デカルト以降の近代世界の問題点についてはこれまでもいくつか述べてきたが、近代以前は世界には生命が満ちており、ローカルな特殊の知恵に基づく世界であった。それがデカルトによる心身二元論により数学的普遍的知識に基づく世界へと変貌する。

その世界は自然界と人間界が分離された世界である。

動物的身体や自然は、人間の精神とは分離されて、生命なき死んだ物質の世界となり、それを人間は通常の自然と考え、その中で生命を例外的存在と考えるようになってしまう。そこは人間とその周辺の環境との有機的なつながりを失った世界である。一方、人間の精神、理性も数学的普遍的知識に基づく世界の中で、結果を計算する能力とされ、すなわち、理性の計算合理性への服従がなされる。

それでは自然界と人間界が分離してしまったその要因であるが数学的普遍的知識に基づく世界への変貌の中での共通感覚すなわち第六感の喪失である。これは動物的五感を統合する感覚であり、人間界と自然界を結び付けていたものであり、ローカルな特殊の知恵でもあったと思う。

デカルトの我思うゆえに我ありという中で共通感覚は思索する人間、すなわち我の中の内部の能力になり下がってしまったのだと思う。そうした結果、理性の計算合理性への服従の中で人間は共通感覚のない、計算能力のある動物以上のものではなくなってしまう。

確かに、近代科学は発達したが、経済における経済理論の数理化のみが推し進められ、社会政策においても具体的な生活世界の現実との乖離が生じてしまった。

人工的なリアリティを作ることはできるようになったが、物に対する想像力を失ってしまい人間は以前より強力に自分自身の精神の牢獄に閉じ込められ、人間自身の作り出したパターンの中に閉じ込められてしまうようになった。以前だと人間は自分自身にないもののリアリティを経験できたがそれが不可能になってしまった。たとえば、現代科学が扱っている宇宙も実験の中に現れる自然に合わせて解釈され、作業上のリアリティに技術的に解釈できる原理そのものに合わせて解釈されているだけである。

人間がそれについてイメージできないもの、例えば魂など、それは確かに以前からあったのだが、人間が非物質的なものを考えるとき、見たり表現できる物質的なものを背景に考えてしまう中で、人間は非物質的なものだけでなく、物質的なものさえも想像できなくなってしまった。

その結果として、人間の万能を示すとされた科学が、人間の生存の基盤たる生態系の破壊を行うという現在の大量生産、大量消費社会に内在する倫理的欠陥を生じさせている。

古くは水俣病をはじめとする世界中で起こってきたし、現在も新たに起こっているであろう公害問題、エイズの血液製剤混入をはじめとする薬害、データ改ざん問題、原子力による放射能汚染問題、科学の発達の中で起こる戦争による大量殺戮、核、化学兵器、無人機による殺戮、格差社会の中での貧困、餓死、異常犯罪、テロによる殺戮、難民問題それらすべてが倫理的欠陥から生じている。

セルジュ・ラトゥーシュはそうした中、贈与の否定、思考欠如という観点からさらに考えを深めているが、私自身全く同感だと思う。

人間は、私的所有、個人の生活の安全保障の重視から他者との共存の否定、一次の社会性である贈与の次元を否定するようになり、地球や社会に対する負債の返済を拒否し、他者に対して一切の責任を負わない想像上の合理的経済人を作り出した。

そして民主制のもとでユダヤ人の大量虐殺が行われたナチスを例に挙げ、何故、普通の一般的な人々がそういったことをなしえたかという点で、思考欠如を取り上げている。ナチス政権下では、軍人のみならず、子供を愛し、家庭を愛したごく普通の人々が思考欠如に陥ってしまった。その渦中にいたとき人は自分自身が思考欠如に陥ってしまっていることに気づけないのだと思う。私には現代社会における一般常識のあるとされる有権者たち、社会的に能力のあるとされる企業戦士たち、いずれもが思考欠如に陥っていると思う。

彼らには一般常識があり、企業の中での処理能力、社会的能力はあるけれど、共通感覚がないか、もしくは贈与の否定をしているのだ。そうした中では思考が停止し欠如してしまうのだと思う。

私が、このブログを立ち上げ、その中で訴え続けていること、国を相手に訴訟を起こし続けていること、先日の選挙で訴え続けたこと、それは私たち今を生きている人間が失った共通感覚を取り戻してほしいこと、ただそれだけなのです。

そうすることで自然の中での人間としての存在を再認識することができ、本来人間が持つ想像力を回復し、贈与に対する返済ができる、数学的普遍的知識に基づく合理的経済人のような作り上げられたものでない具体的、現実的な社会としっかり向き合うことのできる社会人に、学校教育、企業教育の中で陥ってしまった思考欠如を解除できるのだと思う。

そしなければ、必ず人類、文明は滅びてしまうし、選択の余地と時間はもうないと思う。私たちは科学の発達が引き起こした様々に起こる問題を、更なる新たな科学の力で問題が解決できると盲信している、異常気象であれば、更なる気象予測、早期の通報、非難技術、防災ダムなどの防災技術で解決しようと図り、原子力で言えば、凍土などによる凍結などの技術で解決しようと図り、新たな疾患、慢性疾患で言えば生活を見直すのではなく新たな新薬開発で解決を図ろうとしている。科学の発達によって、科学の発達が原因で引き起こしてしまった事象を決して解決することはできない。蓋し自然界と人間界は有機的につながっているのだから。

だから、私たち人間が、今、しなければならないことは、共通感覚を取り戻し、自然の中での人間のあるべき姿を取り戻すことである。そして、贈与の否定、思考欠如を解除して、他者を含む自然に対する負債に対する返済のできる自分を取り戻すことだと思う。

冒頭にあげた純粋な瞳を持っていた少女も、まだしっかりと共通感覚が残っているのだから、それを研ぎ澄まし、現代の学校、企業教育の中で培われた贈与の否定、思考欠如を解除してその純粋な瞳を再び輝かせてほしいと願ってやまない。そしてできることならもう一度再び輝きを取り戻したその瞳に出会ってみたいと思う。

 いかに謎に満ちていようとも、生命は素晴らしい贈り物なのだから

    平成28年9月11日  文責  世界のたま

貨幣、経済という麻薬による消費中毒社会(3)(解毒とそこからの脱出)

麻薬中毒患者になり果てたおバカな政治屋、官僚、企業家と消費中毒患者となり果てた主権者たる国民、そんな現実の中でどうやってこの消費中毒社会を解毒して、そこから脱出して、人類の滅亡の危機を乗り越えてゆけばいいのだろう。

この問いに対しては果たして人類の滅亡がそんなに悪いことなのか?という問題もある。地球環境にとって、人類以外の生物にとって、人類ほど不要な存在はないであろう。そういった意味で危機を乗り越える必要はないという考えも私自身否定はできない。

このまま何もしなければ勝手に、自然災害、飢餓、疫病、戦争、放射能汚染などで人類の滅亡は間違いなく成就されることであろう。

ただ一方で、私自身含めて教育、社会の中で植え付けられた近代以降の人間中心主義という考え方を否定する考え方にたどり着くことができるならば、人類が存在する意味はあるとも思える。

結局、人類の危機を私たちが乗り越えることができるとするならば、そのこと自体、人類が生き残る価値があったという証左なのだから

冒頭の問いであるが、前々回のブログ(1)で書いたが消費中毒社会の結末、そして前回のブログ(2)で書いた消費社会中毒の原因、それらの結末と原因をしっかりと認識することが大前提であるが、その上で私たちがどうすべきなのか私自身の考えを述べておこうと思う。

大きく分けて政治、経済、教育について述べておく。その中での順番であるが、すべて関連性があり、基本的に分けて考えることは不可能なことであり、どれが重要というものではない。全てが一つなのだから。ただその中で源流として経済から述べなければならないと思う。

経済関連についてであるが、まず貨幣、経済はそれ自体全く何ら価値があるものではなく、私たち主権者たる国民の生存を確保するうえでの単なる手段にすぎず、それ以下でも、それ以上のものではない、決してそれらを目的としてはならないという価値観を共有しなければならない。そして経済成長は、私たちが豊かに暮らしてゆくうえで全く必要がないものであること、手段としての貨幣、経済がありさえすればよいこと、それがすべての大前提であり、この前提を抜きに考えることはできない。

その大前提のもとで現在の社会を見直してみることから始めるべきだと思う。
そうしたとき、私たちが最も価値を置かなければならないのは、手段としての貨幣、経済を取り除けば、空間としての自然の豊かさ、時間としての自分が自分自身のために生きる時間、そして物質的な物ではなく精神的な人間関係であることに気づかされる。

それらを、大切に守ってゆくためには何が必要であるかと考えたとき、自然の豊かさのためには地球温暖化、大気、海洋汚染、砂漠化を防がなければならない、そのためにはエネルギー消費の削減が不可欠である。まずは、不必要な経済成長はやめて、過剰な生産、消費をやめることである。現実的に我が国日本を考えても多量の食料が廃棄処分されている現実は誰もが知っていることである。

政策的には現在進められているグローバリゼーションという考え方は消費エネルギーから考えたとき非効率であり、ローカリゼーションへの政策転換が不可欠である。なるべく小さな規模、組織内での物流にすることで莫大な物資の輸送のための消費エネルギーの削減が可能となる。24時間営業なども考え直すことで過剰な消費の抑制につながると思われる。

前回のブログでも述べたが、消費中毒社会を強化させる媒体としてのコマーシャル、宣伝についても過剰消費があって初めて成り立つものであり、過剰消費を様々な形で無くしてゆく中で必然的に消退してゆくであろう。

過剰消費がなくなる中で産業構造も変化してゆくことになるであろう。自然エネルギーを中心とする産業構造への変革、特にローカリゼーションの中で輸送の媒体としての地球温暖化の大きな要因である自動車産業を縮小してゆくことは変革の中心となるであろう。

労働環境についても個々人が経済という呪縛から精神的にも肉体的にも開放されて自分自身の時間を持てるような社会を目指すべきであろう。産業構造のローカリゼーションの中で人々の人としての新たなつながりも出てくるであろう。

政治的には、私自身が、ブログや、訴訟や、選挙活動の中で訴えてきたし、今もこうやって訴え続けているのではあるが、私たち主権者が失ってしまった立憲民主主義を取り戻すことが可能になるであろう。

貨幣、経済が目的化され、特に1980年代以降、経済至上主義、新自由主義の中で、企業がロビー活動、特に政治献金を通じて、政治的影響力を増し、国権の最高機関たる議会への影響力を行使して、有利な税制度、経済政策を推し進めてきている。2000年代に入ってもアメリカの連邦裁判所判決において、無制限の企業献金を認める判決が下されるなど、その勢いは止まることはない。

わが国においても多数を背景に、政党助成金と引き換えに一度は禁止した企業による政治献金の再開、それにとどまらず、議員による企業からの賄賂としか言いようのない裏金の授受、特にTPP交渉担当の甘利元大臣の金銭の授受など、企業により議会制民主主義が捻じ曲げられ、言わば乗っ取られているともいえるであろう。貨幣、経済が手段化される中で、本来の議会制民主主義の回復も可能となってくるであろう。

政治構造的にも、ローカリゼーション産業構造の中で、中央集権国家から、地方分権国家への転換が図られなければならない、現在中央政府、中央議会が有する様々な権力も可能な限り地方へ分権化し、国防、外交以外は基本的に地方へ権限移譲して、中央はその全体調整役に回ることになるであろう。

地方分権化することで、憲法上は、全国民の奉仕者である国家議員が現実的には出身地方や選出元の団体にいかに予算を持ってくるかに終始している現状を打破して、真の意味での立憲民主主義に基づいた国家のための、主権者のための国政を行うことができるであろう。

地方から見たときには地方分権により、地域の自然、環境に基づいた政治、経済、教育政策を行うことができ、政治責任論的にも現在の権限あって責任なしと言ったおバカな政治屋、官僚政治から脱却することが可能となるであろう。

教育についても、貨幣、経済を目的とする産業、政治構造の変革、地方分権化の中で、真にその一人一人の能力にあった教育環境の提供され、その教育目標、子供たちの能力評価指標も貨幣、経済からの呪縛が解かれて様々な評価指標が取り入れられてゆくであろう。

自然環境の回復の中で、自然とともに共生することの大切さ、ローカリゼーション化の中で人と人とのつながり絆の大切さ、譲り合い、助け合いの心の回復が教育の中で育まれてゆくのだと思う。

そして、そうした教育を受けた子供たちの心の回復が、地方から、日本全国へ、そして世界の人々の心の回復を成し遂げ、世界のすべての人たちが自然の中で共生できる社会へとつながってゆくことができるのだと私は確信している。

  平成28年8月31日   文責  世界のたま

貨幣、経済という麻薬による消費中毒社会(2)(貨幣、経済に本質的な価値はない)

安倍首相をはじめとするおバカな政治屋たちや、おバカな黒田日銀総裁が盛んに推し進めているアベノミクス、GDP600兆円目標、消費者物価指数3%目標、そのために国民に対してさらなる消費拡大を訴えているが、まともではない。

私たち主権者たる国民は、彼らが重症な麻薬中毒患者であることをしっかり認識して、私たち自身が麻薬中毒化することを防がなければならないし、中毒患者に対しては、その解毒が図られなければならない。

前回のブログで述べたように、貨幣、経済は人間が手段として発明したものであり、それら自身に本質的な価値はないのです。人間が社会生活をしてゆく上で、単なる手段として必要なだけなのです。

近代以降、人間中心主義の中で、資本主義が発明され、その過程の中で、手段の目的化が起こり、貨幣、経済そのものが目的化され、貨幣、経済そのものに価値があると人々に錯覚させるすり替えがなされたのです。

当然その中で、富の集中が起こってくる。より多くの貨幣を持つものが、より多くの物を得ることができるのだから。

他方で、多くの人々にとって社会生活するうえで、生きてゆくために手段としてのある程度の貨幣が必要であり、そうした中で必然的に貨幣を所有する量により人間の主従関係が形成されるようになり、それが現代でいう所得格差、貧富の差である。

それでは、元々、単なる手段でしかなかった貨幣、経済を目的にすり替えるため、現代にいたるまでその強化が何によってなされてきたかであるが、それは教育に他ならないと思う。

私は、現代の目的化された貨幣、経済を前提とした学校教育が、それらの手段の目的化の強化の元凶であると思っている。貧富の差は、お金がなければ塾や、専門学校や、大学などの教育を受けられない格差を生んでおり、その教育の格差は、最終的に現在の経済社会の中での貧富の差に直結している。

学校教育の中では、戦後の高度成長により現在の経済大国となった技術大国日本を称賛し、その過程の中で起こる公害問題も技術で乗り越えてきたことを称賛し、所得格差の問題も、問題として触れることはあっても、それらの元凶が、現代の目的化された貨幣、経済にあるということには言及されることはなく、あくまでも現在の目的化された経済を前提に、その中での是正を、どうしてゆくかという社会福祉政策にすり替えられている。

そうした中で、現在の目的化された貨幣、経済社会に何の疑問を持たない従順な人間の再生産が行われてきたのだと思う。

そして、貨幣、経済という麻薬によって、あるものは数多くの無駄な公共事業という麻薬、またあるものは補助金という麻薬、そしてあるものは減税といった麻薬、日銀による異次元の金融緩和という麻薬、数多くの様々な麻薬によって消費が促され、国民は消費中毒に陥る。

国民が消費中毒から目覚めないために、貨幣、経済至上主義という麻薬が切れないように、それらを支えているのがコマーシャル、すなわち企業の宣伝活動である。

テレビ、ネット、看板など様々な媒体を通じて新たな新商品や割引商品を宣伝し、消費を促し、国民の消費中毒症状の強化を24時間、365日図っている。結果的に必要のない過剰の生産、消費を起こさせる。

教育によって、貨幣、経済を目的化した、経済成長する社会こそが、豊かな社会であり、その経済成長を支えるための新たな技術開発、新薬開発、商品開発ができる人間、それらを多量に売りさばける人間が優秀な人間であるという観念を植え付け、広告、コマーシャルによってそれらを消費することの欲求を洗脳する。いわゆる大量生産、大量消費社会を作り上げているのである。

その結果として、自然破壊による地球の温暖化、海面上昇を引き起こし、多量のエネルギー消費による廃棄する場所のない多量の放射能廃棄物を生み出し、将来人間にとってどんな影響を起こすかもわからない遺伝子組み換え食品を多くの子供たちが食べさせられ続けている。寿命とは何なのかも考えないまま破綻しかあり得ない医療、介護保険制度を、医療、介護従事者、製薬メーカーのために、政治的、経済的観点からのみ延々と続けている。出す必要もない医療、介護廃棄物によって地球環境を加速度的に汚染し続けている。

金融、財政政策においても、株価、消費者物価、GDPなどそれ自体何の価値もない経済指標を目的として、将来の国民につけを回して赤字国債を発行し、金融緩和政策を実行し、国民の将来の生活の基金である厚生年金基金を法律改正までしてその投資可能割合を引き上げ、株式投資に使い、結果として今年3カ月だけでも5兆円以上の損失を出している。年金基金を株式に変えることは実際問題として株価が下がるため売ることはきわめて難しくなり、損失以上に年金として給付できなくなってしまうことはバカでもわかることなのに。

これらはすべて貨幣、経済という手段を目的化しているがために起こっている事象である。

貨幣、経済という麻薬により中毒患者になってしまっている安倍総理を筆頭とするおバカな政治屋たち、黒田日銀総裁を筆頭とするおバカな官僚たち、そして、経済至上主義、消費こそが美徳とする消費中毒患者になれはててしまっているおバカな私たち主権者たる国民

私たちは気が付かねばならない

貨幣、経済とは単なる手段であって、決して目的ではないのだということを
貨幣、経済自体には何の価値もないことを

私たち主権者にとって、生きるための手段としての貨幣、経済があればいいのであって、経済成長自体は全く必要のないものであることを

あくなき経済成長、消費社会の向こうには、人類の滅亡しかないことを

   平成28年8月30日   文責   世界のたま

貨幣、経済という麻薬による消費中毒社会(1)(その先に待ち受けているもの)

全国的に猛暑日の続く今までにない暑い夏、8月が終わろうとしている。
今月も世界を見渡してみても明るい話題はない。シリアでは相変わらずロシア、アメリカなどの国々が爆撃を続けて数多くの子供たちがその犠牲になっている。トルコでもテロ事件が相次ぎ、イタリアでは地震による数多くの犠牲者が亡くなられ、その数は増え続けている。

私がこのブログを立ち上げ、立憲民主主義に反する日本国政府、議会を司法に訴え続け、参政権を行使して、国民に訴えたのも、私たち人類の生存の危機がもうそこまで来ており、時間が残り少ないからであるが、世界でも同様に考えている有識者たちの予想では、人類の終焉が2060年頃であるとする予測、英国王立天文学者である「最後の世紀」の著者は、人類が21世紀を生き残る確率は二分の一であるとしている。生態学者である「ガイアの逆襲」の著者はその中で、文明の生存するチャンスはほとんどないとしている。

2060年ごろまでに人類の終焉が来るという予想に関しては私自身、どうかと思ってはいたが、実際のところ最近ではあながちないわけではないと感じている。

2年前、このブログを立ち上げたときに書いた冒頭の主権者への提言の中からずっと言い続けていることであるが、人類の滅亡への道を突き進んでいる原因は、手段の目的化である。

近代以降、人々は貨幣を媒介とした交易を盛んにして経済社会を作りあげてきた。その中で人々はより便利なものを開発して、より多くの物質的な富を蓄積しようとしてきた。特に資本主義社会においては企業の利益が最優先され、アダムスミスが言うように、企業の利益が上がることで万民が最終的に豊かになるという、今でいうトリクルダウンが信じられてきた。

人間社会の中で物のやり取りを含めた交流は不可欠であり、そういった意味で経済活動は手段としては不可欠なものであったが、貨幣含めた経済活動そのものが目的化されてしまい、企業利益を上げることが社会的な善とされ、自然は破壊された上、生き残った生物、環境そのものもその希少性ゆえに重宝がられ、その希少性そのものを、経済活動の中で利用するという世の中のすべての物を金銭的な尺度でしか評価しない社会になっている。

貨幣、経済そのものは、手段として人間が作り出したものであり、どこまでいっても本質的には目的にはなりえない。

一部のものによる富の蓄積、その更なる蓄積のために、貨幣、経済が目的化されてしまっている。一方で人々が生活し生きてゆくためにも最低限度の手段としての貨幣、経済は不可欠なものであり、結果的に目的化した人たちによる手段として生きる人々に対する支配、所得格差、貧富の差が生じる。

それでは富あるものが幸福であるかというと、彼らが幸福と錯覚しているものは所詮、それ自体は全く価値のない単なる貨幣、経済の蓄積である。それらを価値あるものとし続けるためには貨幣、経済の目的化が不可欠なのです。貨幣、経済が本質的に何の価値もないものと認識されれば自分たちの優越性が消失してしまうのだから。

そういった意味で富あるものも、貨幣、経済という麻薬に毒された重度の中毒患者でありそれらに利用されているGDP、株式相場というそれ自体意味のない空虚なものに踊らされおバカな国民に更なる消費を促すおバカな安倍総理を筆頭とするおバカな政治屋、おバカな日銀の黒田総裁も重症な中毒患者である。

そして私たち主権者たる国民も、かけがえのない自然という空間、そして本来は自分自身のために使うべきかけがえのない時間と引き換えに、家や、車や、洋服、食べ物、貴金属というエサにつられて彼らと同様に、結局、貨幣、経済という麻薬に毒され、消費中毒患者への道を歩み続けている。

そして、貨幣、経済という麻薬に毒された多数を占める消費中毒社会が向かう行き先に待っているもの、それは、人類の終焉であり、文明の消失である。

    平成28年8月29日   文責  世界のたま