今なさねばならないこと(3)

私がこのホームページを立ち上げた大きな理由の一つに憲法保障の問題があります。

 

他の提言でお話ししているように私は今の日本国憲法が本当に大好きなのです。

 

私にとって他国に押し付けられたなどの理由などどうでもよいのです。問題は中身なのですから、ある意味で世界における国家からの人権の獲得、保障の歴史を詰めた宝石箱のような憲法だと思う。

 

今の政府含めた憲法改正論議を見ていると、押し付けられたという論理は、まやかしであって本意は戦前のように天皇を中心として国民を統制していきたいだけの話だということが見え見えである。

 

しかも戦前もそうだったのであるが天皇を中心にしてというのはただの口実であって所詮はその時代というか日本が近代化された際にたまたま権力、資産を蓄えた人々がそれらを維持するために戦前戦後含めて天皇という隠れ蓑の中で国民を統制してきただけの話だ。

 

多くの純粋な若者を、沖縄の人達を、植民地の人々を犠牲にして、ある意味で利用して自分たちの利益しか考えていないのに、お国のため、天皇のためとしてそれらの人々から搾取してきたのだと思う。それらの人々を扇動はしても自分たちは決して前線には出ず、敗戦となれば相手国にひれ伏して何とかして生き延びようとし、その中でうまい汁を吸おうとする。戦犯となっても様々な手段で彼らは生き延びてきた。

 

言わば国家的詐欺の犯罪者に過ぎないと思われるが、それらの子孫がまた頭をもたげてこようとしている。

 

その最終段階が憲法改正であると思う。

 

平成24年作成の自民党の改正草案を見ていてもはっきり出ている。

 

天皇を象徴から元首へ変更、天皇の国事行為に関して、内閣の助言と承認の削除、表現の自由に公共の福祉の制限を設けようとしている、更に特に問題となるのは、今の日本国憲法では国民には憲法尊重義務は課せられていないが、憲法尊重義務者の第一文に国民をあげている。

 

他の提言の中でも述べているように、憲法とは国民の人権を国家から守るために存在しているのです。それを彼らは無力化しようとしている。

 

憲法という武器を失った国民は自分たちを守る術が何もなくなってしまいます。

 

総選挙後の一連の流れの中で、一つ一つの事実を見てみればわかります。

 

沖縄の辺野古問題での知事の中止命令処分に対しての政府機関内でのやり取り、原子力発電所問題での政府の対応、本来は行政を規制すべき法律を逆手にとって国民の権利の制限に使っている。

 

それらの延長線上に国民の人権を国家権力から守るべき憲法を、国民が守るべき規制へとすり替えようとしているのです。

 

そしてNHK、朝日放送の呼び出し、事情聴取など表現の自由への圧力、一見、表現の自由の行き過ぎという理由がもっともらしく聞こえるのですが、先の憲法改正草案、特定秘密保護法案の一連の流れの中でみると、その本質がはっきりとわかります。

 

私が今回、最高裁へ訴えているのもそこなのです。

 

言論、表現の自由が失われた時、もうその時には遅いのです。それは歴史が証明しています。

 

現政権になって戦前からの多くの国民から生き血を吸って肥え太った資産家、政治家、それらに踊らされ、利用して戦後、資産を蓄積した人たち、それらの子孫が、資産を守り増やすために多くの政策を打ってきています。これは我が国に限らず世界中で言えることですが。

 

その中では当然のごとく格差は広がっていき、地球環境は破壊されていっています。

 

私は最近よく考えることがあります。

 

デカルトが言った、我思うゆえに我あり、人間中心の社会に、理性は存在するのか、フロイトが言うように理性とは幻想であって、自我の確立などはあり得ないのか。

 

2015年4月30日  文責  世界のたま       sign

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