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貨幣と民主主義 (2)

貨幣という手段を目的化してしまっている一部の人々が、使う目的もなくかき集めた貨幣を用いて、自分たちに有利な政治的な決定に影響を及ぼす。

 

貨幣というものは社会の中では人が生きてゆくうえで手段としては不可欠なものである。人々が生きるための糧である衣食住を自分自身で用意できなければ、交換手段としての貨幣は人の命をも支配する。

 

生物学的な意味においてある意味では思想、良心の自由がなくても生きることは可能であるが、貨幣なくして、暴力などの力を抜きにして、人は生きてゆくことは困難であろう。

 

そういった意味で貨幣を持つものはそれを増やし、持ち続けることにありとあらゆる手段を通じて働きかける。そのやり方が露骨になってきている背景は何なのだろう。

 

一つには持つ者がより多くの貨幣を持ちたいという際限のない欲望もあろう、他方、持つ者の持たざる者への疑心暗鬼、言い換えれば恐怖心に近いものもあるかもしれない。

 

ただ、私が考えざる負えないことはヒトという種の最終段階への入り口に差し掛かっているのではないかということだ。

 

人間は社会を形成する過程の中で争い、殺し合い、その中で多くのことを学び、共存してゆくこと、立憲民主主義という政治手法を編み出して今日に至っている。

 

一方、衣食住を中心とする経済活動においては資本主義という手法の下で急速な発展を遂げ、社会は便利になり、個々人が欲望を満たし、長寿社会を築いてきた。

 

世界を見渡してみても現代社会においては、政治的には立憲民主主義国家が基本であり、経済的には資本主義経済が基本となっている。

 

ただ、これらの体制が音を立てて崩れかけてきている。

 

世界中で景気回復、経済成長を求めて、金融、財政政策が行われているが、原理的にこれまでのやり方でそれらの成長が可能であるはずがない。

 

アメリカにおいては中間所得層の所得は減り、負担する税は増えてきている。結果として最も大きな中間層の購買力は低下し続けており、基本的にこのままの高所得者優遇税制度の中で成長が望めるわけがないのです。

 

日本においても所得格差は大きくなってきており、大企業、高額所得者優遇政策が次々と推し進められておりそういった意味ではアメリカの後を追いかけて行っていると思われます。一時的なごまかしの金融政策で株価を釣り上げたところで何の意味もないことを認識しなければならない。

 

これらの事象の中で共通していることは貨幣に対するあくなき欲求が、資産の局在化を生じてしまい、貨幣の固定化、流動性の消失を招いている。貨幣は止まってしまえば、ただの何の意味のない無価値に過ぎない。

 

これらの問題の解決方法は所得の再分配によって貨幣の流動性を取り戻すことが必要なのです。

 

税制度においては、企業で言えば大企業優遇税制の是正、個人で言えば、累進課税の強化、相続税における累進的な税負担が不可欠である。

 

社会保障制度においても、年金の一元化が望まれるが、困難であることも考え、最低保証制度を全体的な減額の中で進めてゆくべきであろう。医療、介護保険においても一元化、減額しかないと思われる。

 

所得の再分配を進める中で消費税も不可欠であろう。

 

これらの様々な政策が本当は必要なのに、そうするしかないのにできない理由、それが貨幣による、民主主義の機能不全だ。具体的には、資産家の政治献金、天下りによる政治家、官僚の買収に他ならない。

 

この腐りきった薄っぺらい表面的な民主主義制度の下での政治、そして司法すらもそれに対して何の警告も出せず、アメリカにおいては擁護すらしている現実を見聞きした時、怒りというより人間の悲しさ、憐れみを感じてしまう。

 

日本においても、違憲国会による特定秘密保護法の強行議決後、違憲国会は、平成26年末、2年間という任期を残したまま、最高裁が求める選挙制度改革をすることもなく、再び違憲選挙を行った事実。

沖縄県米軍基地移設においても、沖縄県が出した辺野古沖の作業一時停止に対して、防衛省が、農水省へ行政不服審査法(本来、行政不服審査法は主権者たる国民が行政に対してする不服審査のための法律である。)に基づく執行停止を申し立てた事実。

報道機関(NHK, 朝日放送)に対する政権与党による呼び出し(たとえそれがいかなる理由があろうと)の事実。

 

日々、立憲民主主義が崩れかけている現実がある。

 

最近、仕事上、話す機会の多い若いMRなどに言うのだけれど、アメリカの大手製薬メーカーなどが莫大の資金を使って薬剤の特許期間の延長を図り、さらなる利益を出したりしているが、そのような姑息な手段で利益を上げるのではなく、まともに患者と向き合った関係の中で、医療従事者、患者、そして製薬メーカー皆がより良い方法によってその中で企業が成長すべきだと。

 

たとえば、最近オーソライズジェネリックというジェネリック医薬品が出てきているが、先発メーカーは、特許が切れれば、先発品の薬価収載を削除してオーソライズジェネリックに切り替えて販売すべきだとMRに言っている。新薬販売時、イベント抑制など様々な利点を言いながら、特許が切れれば、どうしても新薬に重点がいってしまう。

 

本来は10年後、20年後が本当の意味でその薬の検証がされるべきで、メーカーはその責任を全うすべきであり、オーソライズを販売することで薬価は落ちてもさらなる副次効果があれば、他のジェネリックへの変更の心配も少なくなり、MRもその副作用、効果につき20年先まで責任もって営業ができると思う。薬価は下がってもその分、本当にいい薬であれば、処方量が増えることも考えられると思う。

 

今からの社会的存在としての企業の在り方、これは個人の在り方もそうであるのだけれど、本当の意味での道徳感、人への思いやり、お互いに共存してゆく気持ち、それが健全な社会を作ってゆける唯一の道だと思う。そのためには手段としての民主主義が不可欠なのです。

 

2015年5月26日   文責   世界のたま      sign

貨幣と民主主義

貨幣とは何なのか、他の提言の中でのべましたが、今回私が、このブログや裁判で訴えている民主主義の崩壊との関係についてお話ししようと思います。

 

ブログの冒頭の主権者への提言の中で、資本主義社会が世界で広がり、拡大する中で、手段が目的化されていることへの警告を発しましたが、その資本主義社会の中での手段としての貨幣について考えてみましょう。

 

貨幣とは、ご存知のように、あくまでも交換手段に過ぎませんが今の世界、日本を見た時、その目的である流動性がなくなってきています。

 

その原因の最も大きなものは所得格差、企業収益格差によるものが大きいと言えます。アメリカのクリントン政権時、労務長官をしたロバート・ライシュの著である格差と民主主義の中で取り上げられていますが、アメリカのここ数年の上位400人の年間総所得が下位1億5000万人の総所得より多いという現実には驚いてしまいます。

 

2010年アメリカ最高裁シチズン・ユナイテッド裁判において企業による政治献金に関して無制限とする判決がなされ、アメリカでは大企業、高額所得者がロビー活動を通じての政治をコントロールすることがより容易になってきており、個人、企業含めた所得格差は拡大の一途を続けており、中間所得者の所得は減る一方で、結果的に治める税金は減少の一途をたどっている。(一方では、高額所得者は減税によりその所得は増えている。)結果的に一般の学校、公園、道路などの公共施設は、老朽化が放置され、教師数など含めて教育、環境面でその質は低下してきている。

 

結果的に機会の平等は失われ富める者は、その資産を引き継ぎ、私立学校での高度な教育の中でより富める者になる機会が与えられる。一方、貧しき者は先ほどもお話ししたように、質が低下した公的な教育機関でしか学ぶことができない。しかも、所得の低下のためそれら公的な教育すら受けられない人々も増えていると思われる。

 

富める者は、結果的に公的なサービス機関を利用することがなくなるため、公的サービス機関の充実などのために、公的な税金を支払うことをきらい、莫大の政治資金、ロビイストを通じた政治力により、より高額所得者の所得税負担の軽減、相続税負担の軽減を図ってきている。

 

結果的に中間所得者以下の所得は減少し、GDPを支える中間層以下の購買力は低下し、企業の利益も低下し、結果として税収も減少、税収入を上げるため中間層以下の所得税負担、消費税、公的なサービス料金は上がり、サービスの質も低下する。その循環の中で誰が考えても分かることであるが、所得格差は拡大の一途をたどってゆく。

 

アメリカでのこれらの所得格差が最も拡大した時期は1928年そして2008年であり、世界恐慌とリーマンショックの時期と重なっている。

 

日本においても同様に所得格差は拡大の一途をたどっている。

 

企業間利益格差もはっきりしてきており、エコ減税などの制度を利用して自動車産業などの大企業では史上最高の利益を上げている。公的な税金を利用し、莫大な企業利益を上げる構図、金融機関なども大手金融機関は公的資金で救われながらいろんな優遇税制などを駆使して莫大の利益を上げてきている。

 

これ以外でも多くの大企業はその政治資金、天下りなどを利用して、有利な税制度、補助金制度を作り出し、富める者をより富める者にする政策を推し進めてきている。

 

一般的には国際競争力強化や大企業を支えることで下請けはじめ日本経済の活性化につながるとしているが、私は多くは富める者たちの詭弁だと思っている。

 

社会全体の利益、幸福にはつながっていないと思う。

 

かつて言われた社会ダーウイン主義的な考え方に近くなっていると思う。私は対自然との関係においてはある意味で人工的な物は排除して、自然淘汰にまかせるべき方向性が正しいと思っているし、地球全体から、種としての人間を考えた時それ以外の道は選びようがないと思っている。

 

しかし、人間が作る人間の集まりである社会組織を考える上では、そこには人間の気持ち、心、愛情が介在すべきで、ダーウイン主義的な考え方を取り入れることは間違っていると思う。かつてのユダヤ人迫害、そして現在世界各地で起きている民族間での迫害につながる考え方だと思う。

 

貨幣というものを手段から目的にしてしまっている先進国と言われる日米に比べて、以前にも他の提言で取り上げたことがあるが、ドイツはやや異質な国で、所得上位者の割合は1970年台とあまり変わっていないとされている。原子力問題についても、財政における健全化においても、EUという組織を作り上げた点においても手段を手段としてとらえようとしている冷静さを感じる。

 

我が国日本においては、大臣が関係する省庁が補助金を出した企業から、大臣の政治団体が、政治資金の提供を受けても知らなければ許されるという、聞いてあきれることがまかり通っている。実質的には賄賂に他ならない。

 

貨幣という手段に翻弄され支配されていっている人間だけれども、所詮はもともと何の価値もない交換手段にしか過ぎないものであるということに私たちは気づかなければならない。

 

しかし、実際にその中で既得権、資産を形成した人たちがそれらに気付き、自ら是正してゆくことはまず困難である。ロバート・ライシュ氏も語っているがそれらの改革は決してワシントン内部からは起こることはないと。

 

一人一人の国民が考え、行動するしかないのです。

 

民主主義が、貨幣という力で捻じ曲げられてきているのです。

 

先ほども申しましたが、それを是正できるのは国民一人一人の力です。ただ、その前提として最も大切なのは手段としての民主主義が機能不全に陥っていないことです。

 

私が最高裁判決において不平等な違憲状態の選挙制度の是正を言われながらその是正をしない違憲国会について現在最高裁に上告しているのは、民主主義が機能不全に陥ることだけは避けたいその一心なのです。

 

制度としての民主主義が機能不全に陥ったとき、そこに待っているのは、格差社会というより、人間の尊厳すら否定される社会であることだけは間違いないのだから。

 

2015年5月26日   文責   世界のたま           sign

 

今なさねばならないこと(4)

しばらくの間、書くことができませんでした。

 

以前お話したことがありますが、特定秘密保護法の国会議決無効、執行停止を求めて広島地裁へ提訴、その後、昨年末に、棄却判決をいただき、広島高裁へ控訴、先月に控訴棄却判決をいただいたため、最高裁へ上告、上告受理申立てをさせていただいていたのですが、その理由書の作成のため、ブログはお休みさせていただいておりました。

 

結局、上告提起に関しては理由書の作成はせず、上告受理申立てに関してのみ理由書作成し、昨日5月19日に、広島高裁民事部へ提出させていただきました。

 

私なりに一生懸命作成しましたので悔いはないのですが、針の穴に糸を通すレベル以上に困難であることも事実です。理由書の中にも書きましたが、私自身、法曹界の人間でなく、おそらくその世界の人からみれば稚拙な論理展開であることも百も承知だったのですが、このまま立憲民主主義の崩壊を、ただ座してみておくことは、現代に生きる主権者として、私にはできないのです。

 

こうして上告受理申立て理由書を提出して広島高裁を後にしたとき、天気も良かったせいもあって車窓から入ってくる風は本当にすがすがしく思え、わずかの安堵感を感じることができた。

 

今の私にとってできる限りのことをしている。結果はどうであれ、後悔だけはしない生き方、自分に正直に生きているという自負だったかもしれない。

 

ただこのブログにしても、裁判にしてもそうなのだけれど、人との出会いがなくしてあり得なかったのも事実だ。本当に不思議なものだと思う。

 

今回の理由書の作成についても、過去振り返ってみた時、一応、国立の医学部受験、医師国家試験などいくつかの多少頑張った時期があったが、久々に集中した時間を過ごせた。

 

過去幾度か経験した、自分自身を無にして時間そのものの中に身を委ねることができたのも、ある純粋な瞳との出会いであった。

 

自分自身が遠くに置き去り、忘れかけてしまっていた、遠い純粋無垢な核心に触れることができた。その出会いがなければ、一生気付くこともなかったかもしれないと思う。

もう一度あの純粋な瞳の中に私自身を映し出せるものならと思う。

 

今、私がなさねばならないこと、私自身の核心に忠実に生きること。

 

2015年5月20日   文責  世界のたま      sign