Monthly Archives: 3月 2015

日本国の危うさについて(2)

日本国の危うさ、脆さについて、その根本的な問題は、核心がなくなってしまったことにあると言ったが、具体的に見てみましょう。

 

最近起こったいくつかの事象を取り上げてみると

 

金融、経済面では、株価の上昇があります。この株価の上昇については非常に意図的な、長期的視野のない脆さが見え隠れしています。

 

そもそも現在の日本経済をみてみても株価が上がる要素は全く見当たりません。

 

日本の貿易収支は赤字であり、海外の株式投資も昨年は買い越しでしたが、今年度になってからは売り越しです。

 

また、政府が国民の年金や、郵貯からは取りつくしたので、さらなる国民の財布を狙って作ったNISAは蓋を開けてみたら国民が踊らず、投資する人が思ったほど増えない状態に政府は困っています。

 

そもそも、税制度的にもわずかの資本所得に対する非課税をちらつかせて株式投資に誘い出すやり口が気に入りません。

 

国家が株価の上昇を先導し、国民をたきつけ参加させておいて、損失に関しては知らんぷりなのでしょうから。なけなしの庶民の金を吸い上げる資産家、核心的な政策能力がない政府のための行き当たりばったりの付け焼刃の政策にすぎません。

 

おそらく国民がそれに踊らされないのも政府のやり口を学習してきているのだと思う。

 

日本銀行による株式の買い取り、年金基金による株式投資など、ありとあらゆる手立てで見かけ上、株価を上げているのが現状だと思われますが、所詮は核心がないため、おそらく株価が下がってくるのも時間の問題と思われ、そのつけは結局、政府に踊らせて投資した国民自身、表面的には隠している年金基金の損失、最終的には国家の財政破たんへと回ってくることは間違いないことだと思う。

 

先日の国会答弁で安倍さんが年金基金が35兆円利益を上げたなどと発言されていましたがおそらく、年金基金が買い支えている現在の偽りの株価の中では利益が上がった形になっているのでしょうが、結局、基金の資金、自らの資金で上げ、見かけ上資産が増えているだけのことではないかと思う。ある意味で国家詐欺に近いものを感じる。

 

以前にも話したが年金資金は国民の貴重な国民自身の財産であり政府が一時期の国家政策のため利用するものではない。まず失敗して損失を出すのは間違いないのだから。

 

結局、いいように海外投資家初め、資産を保有している人たちに株式投資を通じて大切な基金が流れてしまっているだけのことなのです。

 

安全保障に関しても、憲法9条の拡大解釈、改憲への流れが強まってきています。

 

今回のイスラム国や、ウクライナなど世界各地で多くの戦闘が行われ、世界中どこでテロが起きてもおかしくない状況になってきています。

 

世界全体が混とんとして何が正しいのか、安全保障とは何なのかがわからなくなっています。

 

そんな中で我が国は今、憲法9条という核心を捨てて、何の核心も持たない国家に成り下がろうとしています。

 

私は先に述べた経済面でもそうだし、安全保障面でもそうなのだけど、私たちは資本主義社会が行き詰まり、格差社会、戦争による多くの人々の迫害が生じている混とんとした時代だからこそ、核心を持たなければならないのです。

 

核心のないところに心落ち着ける、心豊かな社会は存在しえません。

 

多少物質的には恵まれてはいるが、薄っぺらな、不安定な社会を選ぶのか、物質的、利便性では欠けるけれど精神的には多少でも安定的な社会を選ぶのか。

 

今、私たちは、それを問われているのだと思う。

 

2015年3月16日  文責  世界のたま                 sign

日本国の危うさについて(1)

日本国について様々な提言をしていますが、最近の政治、経済、金融、教育、治安すべての面で言えることは、その危うさです。

 

言い換えれば、日本という国家、組織の脆さ、次元の低さです。

 

国家というものを手段としてとらえる私ですが、本来の意味で、世界中の人々、一人一人を個として尊重するためには、手段としての国家の存在はその過程の中で不可欠であること間違いありません。

 

そういった意味で現段階においては国家の存在は大切であり、その在りようが非常に重要だと思う。

 

日本国を考えてみた時、四季があり、自然豊かであった一昔前は、そこに住む人々も心豊かで、他の提言でも述べた人々の心の中に核心があったように思う。

 

今回の提言のテーマである危うさも、その原因は、核心が失われていることに尽きると思う。

 

ところで、危うさの本体であるが、何かと言えば、一言でいうと、欲だと思う。

 

欲と言っても人によってさまざまであり、人間も所詮、生物であり、自己防衛本能があり、種を保存すべきDNAが埋め込まれているのだからある程度の欲があることは当然のことである。

 

私がここで問題とする欲とは日本国を代表する人たちの欲である。

 

そもそも国家を代表とする人々、議員、官僚、大臣、大企業経営者などはある意味で、権力欲、名誉欲、金銭欲がなければそういった職に就かないとも言え、水掛け論的な部分もあるが、おそらく社会全体の問題としては、他の提言でも何度も述べているように、資本主義のもつ根本的な問題である、金銭含めた物への過度の執着、欲であろう。

 

そして欲がもたらす結果としての格差社会とも言えるし、格差社会が、さらなる欲を生じさせているとも言える。

 

政治の世界で言えば、二世代議員なども格差社会、社会全体の固定化につながっており、それらが日本国の危うさ、脆さを生じさせているのだと思う。

 

教育に関しての提言の中でも述べているが、社会の多様性こそが社会の発展、強化につながってゆくものだと思う。

 

生物の進化の過程でもそうなのだが、多様化が環境変化に対する生物、種の生き残りには不可欠なものだと思う。

 

私は、今の日本国を見て思うのだが、格差社会の中で、社会全体が固定化する一方、人としては多様性を求めるがゆえにある意味で抑圧し、抑圧される人の中で、様々な問題が生じているのだと思う。

 

子供たちが起こす様々な事件もそうだし、差別的な出来事も原因としては同じものだと思う。

 

私は今の日本国のその危うさ、脆さを克服するためには、社会の固定化、格差社会を改善し、社会の多様性を高めていくことこそが最も必要なことだと思う。

 

その中で一つ考えておかなければならないのは、ただ単に社会の多様性を容認するだけでは不十分であり、多様性の中に核心は不可欠だと思う。

 

その核心こそが国家で言えば憲法に他ならないと思う。

 

日本国の危うさ、脆さの原因を逆に言えば、核心である憲法を軽視し、無視することで核心を揺るがしてしまっているがゆえに、多様性を容認することができなくなってしまい、社会の固定化、格差社会を招いているとも言えるのです。

 

2015年3月14日  文責  世界のたま  sign

 

 

 

 

国会議員と大臣と国民の道徳について

毎日のようにニュースに取り上げられていることの中に、国会での野党から追及されている大臣への政治献金の問題がある。

 

皆さんはどう思われているかわからないが、まず私がこれらの何人かの大臣の国などから補助金をもらった企業からの1年内の大臣への政治献金が毎日のように報道され、それを国会で追求する野党をみていて思うことは

 

何度、過去同じ光景を見てきたんだろうという馬鹿らしさに尽きる。

 

今回の安倍政権、憲法違反の与党、野党含めた現国会すべてを見渡してみて、いかにくだらない、意味のない時間を費やしている日本という国家の愚かさである。

 

何故、こんな単純な約束が守れないのでしょうか。

 

あれだけ政治と金の問題で、最終的に政党助成金の交付という形で決着をつけたはずではなかったのか。

 

今回の政治資金での問題は、すべてのことで言えるのです。政治、経済、金融政策においても構造は同じなのです。一歩もなんら前進しているのではなく振出しに戻って過去あった同じ国会審議というレベルとは言えない言い争いをして意味のない時間、政策を繰り返しているだけのことなのです。

 

戦後総決算とか、新たな時代の幕開けなどとできもしない、する気もない、過去何度も聞いてきた同じことの繰り返しをしているだけである自分たちに気が付いているのか、気が付かないふりをしているのか、それすらも判断できないただの大馬鹿者なのか定かではないが、おそらく後者なのであろうとしか言いようがない。

 

他の提言でも述べているように、私が今回、ブログを立ち上げたのももうこれ以上、無駄でアホらしい時間を私たちは過ごすべきではないと思ったからです。

 

一方、教育現場では学校教育の中で道徳を評価科目として取り入れていこうという動きがあります。

 

最近起きている様々な殺傷、誘拐事件などを受けて考えられているようにも見えるし、一部の報道で言われているように、現政権の愛国心教育の一環として行われようとしているのかも知れません。

 

ただ、今の国会、政権が子供たちの道徳教育を評価していこうと考えている滑稽さに私はあきれてしまうのです。

 

今の子供たちが精神的に追い込まれ、いろんな殺傷事件を起こしている原因は大人たちが作り出している社会そのものにあること、特に政治、経済、金融に中心的に携わっている国会議員、大臣、官僚、大企業経営者にあることを全く自覚していない。

 

今回の政治献金にしてももらったのを本人が知らなかったら許されるというのであればいくらでも可能になります。真の法を定立する国会議員たるものであれば、まず何のための法律かを知って作るものなのです。

 

政治資金規正に関して言えば、公職に対する国民の信頼性、公務の非買収性、ひいては政治、国家に対する信頼、それが本来の目的なのです。

 

彼らは法の本来の目的をもたないまま定立しているため、というより、自分たちの私欲、利益のために法を定立しているために、自分たちが守らなくていいようにするための法律を作ろうとするため逃げ道を作っているのです。国会議員というより、ただの全くたち悪い集団です。

 

一方では国民に対しては税金含めて逃げ道のないように、ずる賢い国民に向けてはより厳しい懲罰的な法律を作っているのです。自分たちこそが、もっともずる賢い国民であることを棚に上げて。

 

私は今の子供たち含めた社会的弱者の中で様々な殺傷事件含めた事件が起きている大きな原因の一つが先ほど述べたように国家の法律を作り、それを施行する人たち自身に道徳感が欠如していることだと思う。

 

結果として社会的弱者にとって不利な、既得権者にとって有利な法律が施行され、勝ち組が勝ち続ける社会、いわゆる格差社会、心が通わない、金銭的な価値が優先される社会が形成される、そのことが一番の原因であるのではないかと思う。他に何があるのでしょうか。

 

最近明らかにされている法人税減税、相続税逃れの資産家の贈与税免除政策、派遣法問題などがその一例だ。景気刺激策などというのもただ単なる言い訳に過ぎない。

 

たとえば、生まれつき犯罪者は犯罪者と決まっているものではないと思う。

 

ある殺人鬼がどこかの大企業の経営者の子供であったなら、大物政治家の子供であったなら犯罪を起こさない確率は高いと思う。逆に政治家の子供も劣悪な環境下におかれたなら何らかの犯罪を起こしてしまうのではないかと思う。

 

時々、私は考えることがあるのですが、貧しい食べるものもない人が生きるために一個のパンを盗むことと、政治家が、法律には触れないと言いながら多額の政治献金を受け取ることと、どちらが最初に罰すべき罪なのかと問われたなら政治家の方だと思う。

 

何故ならば、政治資金がなくても政治家は生きていられるのだから。

 

私は道徳とはまず、国家の統治機関たる国会、内閣、司法に携わる人たちがその手本となる行動をとらない限り、子供たち含めた国民の道徳感には結びつくことは決してないと思う。

 

愛国心とは、ただ単に国家を敬愛し、盲信することではなく、国家を構成する主権者たる一人一人の国民を人として互いに大切にし、尊重する心だと思う。

 

それは決して、道徳という形で一定のものさしで評価されるものではなく、一人一人の心の中から湧き出てくる多様性のあるものだと思う。

 

2015年3月3日   文責 世界のたま                  sign