All posts by tama

政党政治の崩壊を迎えて

ちょうど1年前に私は、このホームページを立ち上げ、8月のブログの中で、たかり集団化した政党について書いたことがある。

 

その後、一年を経過して今私が思うことは、我が国における政党政治の崩壊だ。

 

本来、政党とは何かと言うことだが、政治に国民の意見を反映させるための手段である。あくまでも世論をまとめ、それを実現させるためのものである。

 

現実がどうかと言えば、政党国家化現象が生じてしまっている。

 

政党国家化現象と言えば聞こえはいいが、内実は小選挙区制度や政党助成金、企業献金の再開など相まって、詐欺集団化していると思う。

 

国政選挙で訴える国民受けのいい内容を盛り込んだマニフェストはほとんど達成、実現されることはなく、多数を取った瞬間から、マニフェストにも上げていなかった事案、マニフェストの片隅に入れていた事案等を、さも選挙において国民の多数の同意が あったと言わんばかりに強行採決で議決してゆく。

 

そこには世論をまとめ、それを実現するという政党本来の姿はない。

 

特に今の政権与党である自民党について言えば、小選挙区制度の下でその代表者である総裁に公認権、政党助成金や企業献金の配分権があると思われ、今回の総裁選でもそうだが誰一人総裁にたてつくものが出てこない。この実態は組織化された詐欺集団、暴力団組織そのものに他ならない。

 

過去の歴史をみてみても国民の生命、自由という人権が踏みにじられるとき、その前に、手段としての立憲民主制が踏みにじられる。

 

私が一年前、このブログを立ち上げたのも、人権保障手段としての立憲民主制、国会と内閣との抑制と均衡、政党政治、そして唯一の国民の権力的契機である国政選挙すらもが、時の政権、それらに群がる一部の人達の権力や資産の維持の手段に成り下がってしまったからに他ならない。

 

この政党内での民主制の欠如は与党だけではない。最近起きたことでは、野党である維新の党も同様である。維新の党として国民から議席をもらってまだ半年である。その幹部が好き放題に離党したり、他党との合流、新党結成を図っている。

 

今の国会議員が真の意味で国民の代表者とは言えない。

 

日本国憲法上、国会議員は政党人である前に国民全体の代表者である。党議拘束より国民の利益、すなわち人権保障が優先されなければならない。

 

このように、この一年、私たちは多くのものを失ってきている。それは、国民の人権を守ってゆくための手段である。国会と内閣との抑制と均衡を失い、権力的契機としての選挙制度、すなわち平等選挙制度を失い

 

そして今、私たちは政党という民意を媒介させるための手段をなくしてしまったのだと思う。

 

今、私たちに残された人権を守る手段が何かと言うと、一つには司法判断、憲法上の違憲審査権です。そしてもう一つが、近代憲法制定の歴史の中で成文憲法の条文上からは消えていった抵抗権です。

 

今、国会周辺含めて全国各地で起こっているデモ、動く集会は抵抗権そのものです。

 

そして、私自身が最高裁に上告申立てしていることが日本国憲法上での抵抗権の行使に他ならないのです。

 

2015年9月1日   文責   世界のたま    sign

 

 

 

 

 

 

 

積極的平和主義とは

私は、安倍さんが言っている積極的平和主義という言葉について全く逆の意味でそうだと思う。

 

平和と言う言葉を考えた時、何をもって平和と言うかという問題がある。

 

たぶん安倍さんは基本的な考え方として戦争状態でない状態を平和と考えているのだと思う。

 

確かに戦争がない状態が平和である一つの要素であるとは思うのだが、一党独裁制の下で表面的な争いがない状態が平和であるかといえば、私はそうではないと思う。

 

私は本当の意味での平和とは、何度も言っていることだが、個人が個人として、人として尊重される、自己実現の機会のある、自己統治ができる状態であると思う。

 

安倍さんが言う平和と、私が思う平和、どちらにしても言えることなのだが平和であるためには積極的な行為が必要である。

 

これも何度も言っていることだが、人間とは所詮、自然界における生物の一種でしかない。自己を守り、種を保存しようとする本能から逃れることはできない。そのために、歴史的にも数多くの血が流されてきたのも事実であり、これからも何もしなければその歴史を繰り返してゆくだけであろう。

 

そういった意味で、自己の生存を確保するためには、必ず積極的な行為を必要とする。

 

平和という概念をただ単に戦争状態がない状態、生命的な意味での生存が確保できる状態ととらえると、平和のための積極的な行為として何が必要であるかと言うと、要は相手より武力的に強ければよいということになる。

 

基本的に安倍さんの言う積極的平和主義は、この延長線上にあると思う。相手より、いかに武力的に強くなるか、そのための一つの手段が集団的自衛権である。ただ、そこで言えることは、たとえそれが成功して平和、すなわち、戦争状態がない世界が築けたとしても、そこには、自己実現の機会、自己統治ができる状態、それを保障する立憲民主主義は存在しない。

 

その結果として、もう一つ言えることは、そういった平和状態は長続きしない。

 

私が思う積極的平和主義とは、平和という概念を、自己実現の機会のある、自己統治される状態と考える。そのためには、手段としての立憲民主主義が欠かせないのです。

 

安倍さんの言う、立憲民主主義に基づかない平和は、結果的には何の意味のない、無駄な時間だけ消費されることとなってしまうであろう。過去の歴史をみれば誰でもわかることなのだけれど。

 

私は、集団的自衛権という、もはや、歴史的遺物でしかない手段は捨て去るべきだと思う。

 

他の提言の中で言っているが、世界の平和を追求しようとしたとき、日本国が、最も中心となるべき、なりうる国家であるというのは、世界に誇れる日本国憲法があるからです。世界の平和と言う観点からは第9条です。

 

防衛という観点から考えた時、自衛権は第9条で否定されていないと思うし、本来的意味で自衛権は行使されるべきだと思う。ただし、集団的自衛権は行使すべきではない。

 

私は、日本国が今、なすべきことは、立憲民主主義、すなわち、日本国憲法に基づく憲法第9条、立憲平和主義をたとえ一国主義となろうとも守り抜くことだと思う。

 

現実的な領土、領海、領空は可能な限りの自衛力強化で守り抜き、一方、軍事的な意味での集団的自衛権は行使せず、私は、当面、難民対策を行うことだと思う。特に、弱者である子供たちの難民への支援、受け入れを行い、教育の機会を提供することだと思う。ある程度の教育の後、母国へ帰るなり、少子化の日本で働かれるのもいいと思う。

 

武力により、決して世界平和は築かれない。それは歴史が証明している。

 

教育を通じて人は自己実現、自己統治が可能となる。

 

国家を追われた難民の子供達だからこそ、教育の機会が不可欠なのです。国家とは手段であって目的ではないのです。国家を前提とした集団的自衛権で解決することは、最初から論理的に無理なのです。

 

たとえ一国主義と言われようとも、どんな苦難があろうとも、国際協調主義、平和主義を憲法に掲げている日本国だからこそできることであり、しなければならない国際的使命を持っているのです。

 

教育の機会を提供することで、国家を追われた子供たちが自己実現、自己統治の機会を得ること、そのことが、結果的に私たちも含めた世界の人達が平和に暮らせる唯一の方法なのです。

 

それが人類の歴史を振り返った上での積極的平和主義であると思う。

 

2015年8月26日   文責   世界のたま    sign

 

時代を巻き戻すこと

よくあの頃に戻れたらと言うことがある。

 

私自身は、過ぎ去った時に戻ってみたいなどと思うことはない。戻ったところで同じ結果となるだろうと思っていることと、その時の自分は、その時間においては、そうしかできなかった事実を大切にしたいという思いがあるからだと思う。

 

以前、他の提言の中で、時間と言うものを取り上げたことがあったが、今私たちが為さねばならないことで、よく言われることに歴史を振り返ることがある。

 

私は思うのだけれど、今、私たちが為さねばならないことは歴史をただ単に振り返ることではなく、時代を巻き戻すことではないかと思う。

 

私たちは利便性や、合理性の追求の中で、一見、たくさんの物を得ることができたと錯覚しているのではないのだろうか。

 

スピード化の中でおそらく、以前は見れていたもの、感じることができたものを見落としてきているのではないだろうか。たとえば、確かに新幹線や、高速道路や、飛行機の移動によって、時間を得た反面、出会えたであろう多くの人達、見ることができた多くの風景、しっかり考え、想像する力、そんなものを失ってきたのではないのだろうか。

 

介護現場の中でも感じることがあるが、生活圏と施設との点と点の生活があたりまえになってきている。そこには生活空間としての面は存在しない。

 

何でもそうなのだけれど、不便さがあれば、そこには摩擦が生じて、人は悩み、苦労して、いろんな感情が生じる。

 

利便性や、合理性を求めると、そこには、より多くの道具、もしくはより便利な道具が介在することは避けて通れない。

 

道具と言うものは便利な反面、心を持っていない。

 

心がなくなった社会、人はそういった社会を作るために生きてきたのであろうか、これからも生きてゆくのだろうか。

 

今、私たちに必要なことは、時間を巻き戻す勇気ではないのかと思う。

 

2015年8月20日  文責  世界のたま          sign

 

 

戦後70年を迎えて思うこと

今までもブログの中で何度か取り上げてきていることであるが、戦後70年を迎えて改めて私が思うことをいくつか述べてみようと思う。

 

安倍さんが昨日の談話の中で述べていたように、過去、植民地支配、ブロック経済の下で結果として世界大戦が起き、数多くの人達が亡くなった。

 

彼はその事実を話しながら、戦争体験のない人たちへの提言として、謝罪をし続けることは必要ないと語った。

 

結局、彼の談話は、先の大戦から離れることができない、先の大戦の正当化をしようとしたいだけだと思う。

 

あれだけ、世界を注目させたわりに、だらだらと言い訳ばかりで、自分が本当に言いたいことをごまかしたために、まったく何が言いたいのかわからない、本当に意味のない、くだらない稚拙な談話となってしまった。

 

あんなくだらない談話であるのなら、何もしなかった方がよっぽどましであった。国際的にも意味のない恥ずべき談話だったと思う。

 

最近の彼の政治姿勢と同じで、何の将来的な展望も、希望もない、ただ過去に縛られた自分というものから離れられないおろかな談話であった。

 

私は思うのだが、敢えて戦後70年ということで何か考えるべきものではない。昨年、69年であっても、考えなければならなかったし、来年71年であっても考えないといけないものである。人間というものは確かに忘れやすい生き物であり、結果として、歴史を繰り返してきた。

 

二度と過ちは繰り返しませんという言葉はその代表である。

 

そのため、確かに節目節目で振り返ることは大切なことなのではあるが、得てしてその振り返ること、そのものに目が行き過ぎて、節目が終われば何事もなかったかのように忘れてしまうことも事実だと思う。今回の談話がそうであったように。

 

節目が大切なのではなくて、振り返るというきっかけとしては大事であるというだけのことだ。本当に重要なのはそこで何を考えるかである。

 

今回の彼の談話はそういった意味で、全く意味のないものであった。

 

結局、歴史を繰り返しましょうと、声高々に宣言したに過ぎない。

 

先ほども述べたが、彼自身は過去の歴史に囚われずに新たな時代を進まなければならないと宣言したつもりであろうが、結局、過去に囚われているのは彼自身である。

 

彼自身、かつてA級戦犯であった身内である岸元総理のことなどから離れることができないのであろう。そんな個人的なくだらない感情など、どうでもいい話だ。

 

私は思うのだが、今、世界は歴史を繰り返そうとしている。

 

他のブログでも書いたが、いま日本が進めているTPPもいわば、ブロック経済化に他ならない。しかもその中身は各国それぞれ、格差社会の中で勝ち残っている富ある一部の者たちがより多くの富を求めて、交渉しているに過ぎない。

 

確かに彼らの理屈はたぶん、富あるものの下で働く多くの国民の所得となり、国家全体の収益にもなると言いたいのだと思う。しかし、一見そう考えやすいが、単なる詭弁である。

 

現実を見ればわかる。結局、国内的にはさらなる格差社会は進み、国際的にはさらなる南北問題は進むだけのことだ。

 

それらが何を意味するかといえば、国内的には民主主義は崩壊し、国際的には緊張が高まり、歴史を繰り返す結果となるであろう。

 

今までも何度も訴えてきているが、世界の根本的な問題は、資本主義社会の生き詰まりの中で、私たちは新たな道を選択して、突き進まなければならないということなのです。

 

資本主義という手段としては優れた制度であったが、それ自身を目的にしまっている現代社会を私たちは変えていかなければならないのです。

 

それしか道はないと思う。

 

そういった中で、日本国という国は本当に世界を変える起爆剤としてはもっともすぐれたふさわしい国家なのです。

 

皆さんにはまだわからないかも知れませんが、私にははっきり見えているのです。

 

そんな中で私が昨年度からブログを立ち上げ、もう1年になりますが、我が国の現在行っている財政、金融政策に対する提言をもう一度改めてしておこうと思う。

 

長引いた、世界にもまれにみる長期のデフレの中で日本は、ケインズ理論の下、減税、公共事業などの財政政策を行い、金融政策としてゼロ金利政策を行うもデフレ脱却できなかった。ゼロ金利の下では財政政策は何もなしえないとし、量的金融緩和の必要性が少しずつ叫ばれる中、あくまで金融政策は補完的なものであるという立場を変えなかった。

 

そうした中でデフレは脱却できず、リーマンショックが起き、アメリカ、イギリスの中央銀行での量的金融緩和、その後、日本銀行による、量的金融緩和政策が行われ、さらに、質的金融緩和が行われ、現在に至っている。

 

私自身も、赤字財政政策、量的質的金融緩和政策がデフレ脱却のための政策として理論的には理解できる。

 

市場に量的に貨幣を供給し、一方で日銀が市場から国債を買い入れる。かつて財政ファイナンス的だとして禁じ手だったこれらの質的金融緩和もある意味で、国債の金利上昇を抑える意味もあり、一石二鳥として一定の効果があることも理解できる。

 

累積の借金が1050兆円を超えGDPの二倍を超えてきているが、通貨の発行権限のないギリシャと違うことも理解できる。だからこそ、今行っている、量的、質的金融緩和政策が実行できたのではあるが。

 

確かにリーマンショック後、ギリシャ危機が起こり、EU内で行われた緊縮財政政策で、結果的にデフレが生じてしまい、ドイツの反対の中で、EUにおいても、量的金融緩和政策への転換が行われた。

 

現在、日本において、市中銀行の国債保有は減っている中で日銀がもつ国債は200兆円を超えてきているが、ある意味で日銀、日本国政府全体として見た時、中央政府内の問題であるとも言える。様々な意見のある中で、そう簡単にハイパーインフレ化することはないとも言われている。

 

私はこの間の世界の財政、金融政策を見ていて、当面の手段としては理論的には新たなケインズ理論としても理解はできる。

 

ただ、それは、当面の今の富が集中する資本主義体制の維持をするための理論としてであって、そういった意味で、手段としては正しいかもしれないが、目的としては間違っていると思う。

 

そこには、民主主義や地球温暖化含めた、地球環境の問題、南北経済格差問題は考慮されていないからである。

 

緊縮財政が否定される中で、現実的に我が国で起こっていることは、案の定、財政規律があまりにもでたらめになってきている。赤字財政主義、多少の財政ファイナンスもデフレ脱却のためには問題ない、そう簡単にハイパーインフレは起こらないという、奢りの下で。

 

公共事業もそうであるし、オリンピック関連予算もあまりのでたらめさにどこに財政民主主義があるのか開いた口がふさがらない。

 

そんな中でオリンピックのロゴマーク問題も生じてきている。

 

それぞれ違った問題のように思えるが、私はすべて同じ問題だと思う。

 

今回の総理談話と同じで、薄っぺらい、核心のないものだということなのです。

 

今、私たちは、金融資本家の考え方に流されることなく、財政中心の政策を、考えてゆかなければならないと思う。確かにそれは厳しい道のりであることは事実です。

 

税制面では、所得再分配(格差社会の中で、資産あるものが一番嫌うことで、政治資金の大元なのでなかなかてごわいですが)の是正

 

社会保障の面では、年金の一元化(これも共済保険など既得権者の問題あってなかなかてごわいですが)、医療介護一元化(これも高齢者問題あってなかなかてごわいですが)、その上で、税制度全体の中で消費税を考えてゆくべきだと思う。

 

安易に消費税ありきではだめなのです。

 

今、私たちは財政、金融政策面で大きな岐路に差し掛かっているのです。安易な金融政策でごまかし続けることは、結果的に大きな代償を払うことは間違いないのです。

 

それは環境破壊による多くの自然災害であり、格差社会、南北経済格差問題の中での、多国間の紛争、テロ含めた戦争でもある。

 

最終的に私たちが求めるものは何なのか、私たちが後世代の人間に何を残さなければならないのか。

 

私は思うのです。

 

私たちが大切にしなければならないもの、残さなければならないもの。

 

それは、自己実現する機会です。憲法13条で言う幸福追求権です。

 

そのために最も大切なことが何かといえば、財政民主主義も含めた立憲民主主義なのです。

 

私たちが過去の先人たちからもらったもの、後世の人達に伝えていかなければならないものそれが立憲民主主義なのです。

 

2015年8月16日   文責  世界のたま            sign

 

 

TPPと民主主義

現在、我が国ではTPP交渉が山場を迎えている。

 

私は思うのだが、基本的にはTPPなどに参加するのは反対である。交渉が決裂することを望んでいる。

 

TPPはグローバリゼーションの一手段に過ぎない。関税撤廃の方向で進んだところでその先に待っているのは、EUが良い例だと思う。国家という存在を国民が否定する方向に考えない限り、TPPはうまくいくわけがない。

 

もしTPPがうまくいったとしても、国内的には、大企業を中心とする、TPPにより利益が上がる企業、輸出産業や、医療分野で言えば、アメリカの大手の製薬メーカーが目論んでいるような特許の延長による利益の独占、その恩恵に預かろうとする社会的レベルの低い国内製薬メーカー(患者や、国民の医療費負担のことなど全く考えない)、それらの一部のいわゆるずる賢い人間が利益を上げるだけのことだ。

 

多くの国民にとって何の利益もない。一見、安く物が買えるような錯覚をするのだけれど、その代償は何かといえば、強権的な国家統制と、民主主義の崩壊、農作物などの国民にとって最も大切な必需品の自給率の低下だ。

 

たとえば、TPPと同時に国家という存在も薄れてゆくのであれば、世界中の人々がお互いに尊重し合っていける保証があるのであれば、いいのだけれどそのようなことは決してなく、その逆だ。

 

上手くいっているうちはいいが、政治的な問題が生ずるとたちまち、自給率の低い国はお手上げになってしまうか、今の日本のようにアメリカの属国に成り下がってしまうかどちらかです。

 

他のブログで書いているが、今を見るのではなく、5年先、10年先、子供たちの未来をどう予測して、今を生きる私たちが、そのために何を選択すべきかを考えないといけないのです。

 

今の政治家、企業家にないのは、本当の意味での時代を見る目、自分自身のことより、自分たちの子供たち、将来の国民のことをどこまで考えることができるのか、いわゆる、道徳感だ。

TPPと安保法制、特定秘密保護法、おそらく多くの国民はこれらそれぞれ何の関係もないことのように考えていると思う。

 

TPPを推し進めてゆこうとする勢力は、これはどの国でも同じことなのだが、それぞれの国の中で富を得ている人たちが更なる富を求めて政治献金をはじめとするあらゆる手段を講じて政権を動かしている。

 

そのために、TPPなどで被害をこうむる人たちは切り捨てられてしまうのです。たとえTPPを推し進めることで将来の国民にとって、国家にとって損失がでるとわかっていても、それらを考える勢力など無視し、排除されてしまうのです。はっきりしているのは、切り捨てられ、排除される人々の方が、圧倒的に多く、民主主義の観点から言えば、多数なのです。

 

すなわち、多数を無視し、少数者の一部の人のための政治が行われているのです。

 

多数を抑え込む国家体制、すなわち民主主義の否定です。

 

現在、我が国、日本で、起きていることはまさにそのことなのです。

 

一部の富や権力がある人たちのために民主主義を否定した社会をつくるために国内的に、何が必要かといえば、徹底的な情報管理です。そういった意味で特定秘密保護法は不可欠になってくるのです。

 

国外に目をあててみると、TPPの推進で国際的協調が進むかと思いがちになるが、所詮、それぞれの国家の中で富ある者たちのエゴでできている仕組みでしかないため、お互いの協調などあり得るはずがないのです。当然、彼らは国家という組織を守ろうとするためそのためには安保法制に基づく軍事力の増強が不可欠なのです。

 

私たちが今、将来の子供たちのために何を為し、何を残さないといけないのかを考えた時、私は思うのです。

 

まず第一に守らないといけないもの、残さないといけないものは民主主義なのです。そこを出発点として考えなければならない。民主主義を守っていくうえで次に必要なのは当面、手段としての国家なのです。

そうした中でTPPは捨てるしかないのです。

 

2015年7月29日  文責  世界のたま     sign

 

 

安保法制の強行議決を前にして

この間、安保法制の国会審議を見ていて思うことは、日本国における民主政治の成れの果てを見ているようで、怒りや悲しみを通り越して今の国会議員、内閣総理大臣、他の大臣の人々の哀れさを感じる。

 

それは権力に魅せられた哀れな人たちの愚かさだ。

 

どこかの新聞の記事に出ていたが、私自身も今の安倍さんは世界の中で裸の王様でしかない。自分自身は、多分、大したことをしていると錯覚しているのだが、ただの自己満足でしかない。自分自身もある意味では不安なのだとは思う。その表れが、アメリカ議会での演説などのパーフォーマンスに他ならない。

 

哀れな裸の王様に対して誰一人裸なのですよと注意してくれる人もいないということに更なる哀れさを感じるが、多くの国民を巻き添えにする点においてなんら同情する余地はない。

 

私自身、このブログの中で、そして裁判の中で、今、私たち日本国民が大切にしなければならないものは、何かを訴えてきましたが、現時点では、何も変えることはできませんでした。

 

忸怩たる思いで、いっぱいですが、私自身、精一杯しているつもりで、個人としては、現代立憲民主主義国家に生きている国民として、なんら後悔はしていません。

 

このことで日本の民主主義が終わるのではないのだけれど、無駄な時間の消費と、第二次世界大戦含めた、過去、現在行われている様々な戦争、テロによって失われている尊い命と同様に日本国民の命の危険、実際の被害が生じてしまうリスクは避けることができないであろう。

 

できる限り避けなければと私なりに一生懸命頑張っているつもりではあるけれど。

 

ただ、裁判については先週に最高裁判所第一小法廷の裁判所事務官から上告受理申立の受付が完了した通知が届いた。

 

申立てが却下されることの確率はほぼ100%かもしれないが、私の裁判を通じて、日本国憲法が想定する内閣と国会における抑制と均衡が取れなくなった統治機構の中で、かつ民主制の過程の回復が困難な状況の中で、国民の基本的人権を守るため、日本国憲法の核心を守るため、憲法保障機関としての司法が、今までの殻(過去の最高裁判例)をうち破って、憲法裁判所としての司法の新たな姿を見せてくれることを切に願っている。

 

私の上告が認められ、審理されることで、我が国の民主主義の再構築、日本国憲法の再認識、世界の中でのこれからの日本の在り方が問い直されることを切に願ってやみません。

 

2015年7月14日    文責   世界のたま  sign

 

 

無知な総理大臣、国会議員をもった無知な国家、日本

2年前の12月に、私が特定秘密保護法案の国会議決無効、法律の執行停止を求めて訴訟を提起し、昨年の8月にこのブログを立ち上げましたが、その後、昨年の12月に衆議院の解散、違憲状態のまま総選挙を行い、今年になって、安保関連の問題、つい最近では報道機関に対する国会議員の発言が大きな問題となっています。

 

裁判を提起し、控訴、上告をして、またブログを書いてゆく中で、思うこと。

 

私自身、我が国の在り方、世界の中で、私たちが今、何をすべきなのか、限られた地球時間の中で、何かをしなければならないと思い、今もこうやってブログも書き続けているのですが、最近つくづく思うことは、前のブログで道徳について書いたが、道徳以前に、多くの政治家、官僚が無知であることだ。

 

このことは、政治家、官僚にとどまらず、大企業の役員含めて、増え続けている。

 

私自身、仕事上、製薬メーカーと接することが多いいが、以前にも取り上げた製薬メーカーなどもそのいい例だ。以前、私自身、製薬メーカーの勉強会に呼ばれ、お話をしたことをブログで書いたことがあったが、企業の規模、収益と、その企業の社会的存在価値とは別問題だ。

現代社会で多くの利益を上げている企業、個人こそずる賢く利益を上げている例が多いいと思うし、社会的には存在価値、レベルが低い企業が多いいと思う。

 

先の例にあげた製薬メーカーも、海外での多額の和解金による解決や、誇大広告での行政処分が今年になってなされたが、今の政府と同じで、圧力をかけたのであろう、あまり大きな報道にはなっていない。

2年前、支店の勉強会で少しは、理解してもらえればとあえて苦言を呈したが、その時も思ったがそういう社会的存在としての企業の在り方、思想を根本的にもっていないくだらない社会的レベルの低い企業だけに、社員に対する企業教育もまったくできていなかったので、いい目をもっていた若い社員もあっという間にその目も混濁、汚れてしまう。

 

ただ、あの当時に患者、そして、一生懸命、現場で頑張る医療スタッフへの思いを少しでも持てたなら、もう少し早い段階でもっと違う形での解決がなされたのだと思う。

 

そのメーカーについて言えば、今回の和解の報道などをみていても、まったく自分たち企業が社会的にどうあるべきなのか、未だにもってまったく理解できていない。本当に救いようのない企業だと思う。間違いなく、今後も同じことを繰り返し、遠くない将来、企業としての終焉を迎えると思う。先見の明がないということはこういうことを言う典型的な企業だ。

 

今の政治、経済を見ても思うのだが、その企業にしても何故、先が読めないのか。2年前、違った企業行動を起こしていればこういう結果は防げたのは間違いない。

 

その原因はたった一つだ。経営者が無知であり、その結果としてその社員も無知であることだ。

おそらくきちんと事実を認識して適切な行動をとろうとした良識ある社員もいたであろうがそういった社員は左遷されるか、解雇されるか、自主退職に追いやられているんだと思う。

当然残った社員は、社会的にはレベルの低い無知な社員だけになってしまう。そんな中で企業が変われるわけはない。

 

同じことが今の日本の政治、経済で起こっており、世界中で起こっているのです。

 

総理大臣、国会議員、世間では、優秀とされる官僚の人達、無知な人が増え続けている。実は、当初、私自身、彼らがここまで無知とは思わなかった。通常、国家の代表者として選ばれる人であるから、一応、それなりの見識があると、善意に解釈していたのだが、見事というしかない無知な人の集まりでしかなかった。

 

ところで、私が無知と言っているのは、どういう人たちなのか説明がいると思う。

 

私が言う無知な人間とは、知識がない人のことを言っているのではない。読んでいる人もわかられると思うが、私が先ほどから無知と言っている人々は決して知識がないわけではない、知識の量から言えば逆だ、金銭的も恵まれ、そういった意味では何の苦労もなく育ち、いわゆるある意味では一見、利口な人が多い。

 

そんな知識をもった利口な人たちが何故無知な人間になってしまうのかということだが、目的がないからだ、手段としての目的は持っている。ただ、もっと大きな、手段としての企業、国家を超えた目標がないのです。目的がないのです。

 

山で遭難した時、人は北極星を基準に考える。いわゆる、核心、言い換えれば、道徳感が彼らにはないのです。核心、道徳感を持ちさえすれば、一年先、数年先、将来が勝手に簡単に見えてくるのです。

彼ら自身、誰もが、一度経験すればわかることなのです。私自身が経験者なのだから、間違いがないことなのです。

 

今、国会でなされている安保法案についても馬鹿らしくてブログに書く気にもならなかったが、安全保障とは何なのか、イスラム国含めたテロに対してどう向き合うべきなのか、ギリシャ問題含めて、世界で生き詰まっている資本主義経済を今後どうしてゆくべきなのか、地球環境をどう考えてゆくのか、一見、それぞれが一つ一つ違った問題に見えて難しいように思えますが、答えはそんなに複雑ではないのです。実は単純な問題なのです。

 

私が裁判を通じて、ブログを通じて問い続けていることは、彼らが、自分たちが無知であることに気づき、私たち国民にとって、世界中の人間にとって、地球上のすべての生物にとって、社会的存在価値のある、道徳的な人間であってほしい、そのことだけなのです。

私自身そうであるけれど、人間とは所詮、無知な生き物である。

 

ただ、無知であることを認識できるのもまた人間なのだから

 

2015年6月28日  文責  世界のたま sign

 

 

 

 

 

 

 

道徳とは

先日、校医の仕事の関係で、小学校を訪れたが、その際、現場の先生との話の中で、道徳の学校教育について聞いてみた。

 

先生になられて8年目の先生であったが、現在考えられている道徳を国が評価科目にすることについて反対意見を持たれていた。

 

以前、道徳について触れたことがあるが、国民の中でも最もとは言わないまでも、道徳的でない人たちである政治家が考えることだけに、多くの国民があきれ返っていることとは思う。犯罪者が、皆さん、犯罪を起こさないようにしましょうと言っているようなものなのだから。

 

私は思うのだけれど、そもそも道徳とは、学校で教わるようなものではないと思う。

 

基本的には学校ではなく、社会の中で教わってゆくもの、自然に身についてゆくものだと思う。ここで言う社会とは家庭、学校も含んでいるが、本来的には家庭、学校外での社会である。

 

人間は社会的動物であり、社会あるところに道徳が存在する。孤島で独りぼっちであったなら、道徳的である必要は全くないのだから。

 

子供たちにとって、家庭、学校というところは、最初に出会う社会であるのだけれど、そこで言う社会とは、親、教師を通した社会である。すなわち、親、教師が社会の一部であり、親、教師を含む社会を、彼らを通して学ぶのである。

 

決して、算数や理科のように教科書を通じて学習するのではなく、現実社会の中で道徳を学ぶのです。そのためには、親、教師はもちろんのこと、子供たちを取り巻く現実社会が道徳的でない限り、子供たちに道徳を教えることはできないし、ましてや、その評価などできるわけがないのです。

 

親、教師について考えた時、私を含めて、彼らも、現実社会の中で、生活をして生きている。

 

私は、その現実社会の中で生きてゆくことに、年々息苦しさを感じる。この息苦しさを感じるのは自分だけなのだろうか。そして、その息苦しさは年々、強くなってきている。

 

その息苦しさの原因は、私たちの社会に目的がないことから生じている。

 

そして、その目的こそが道徳なのです。

 

目的を持たない社会、手段を目的化している社会が現代社会なのだ。

 

ブログの冒頭の主権者への提言の中でも述べているが、人々が行っている様々の日常的なありとあらゆる行為は、経済的、政治的活動含めて、すべて所詮は手段に過ぎない。

 

現在、日本を含む世界で問題となっている国家体制である、資本主義、民主主義制度そのものも、所詮はただの手段に過ぎないのです。それぞれの制度は、社会を、物質的、精神的に豊かにする手段としては優れていたのは事実である。

 

ただ、人間は、種の保存というすべての生物の目的とは違う、自己実現をその目的としてきており、しかもその目的は手段そのもので留まっている。

 

私が感じる社会の息苦しさは、人間が、資本主義、民主主義という手段を乗り越えられないもどかしさ、そして、その中で世界は、本来の目的を見失い、歴史が繰り返されるというわかりきった結果がそこにあるのに、その流れの中で何も起きていないかのように楽しんでいる人間の悲しさ、哀れさからきているのだと思う。

 

所詮人間は、自然界における生物の一つの種でしかないとするならば、道徳的であることは無理なことかもしれないが、道徳的でなければ人間は存在し続けることはできないことも知らなければならない。

 

道徳を評価しなくてはならないのは、子供たちではなく、私たち大人たちであり、最も評価されるべき対象者は政治家、官僚など政治に携わる人たちである。ただ、憲法、法律を守れない人たちに道徳を守ることは決してできないことも事実である。

 

 

2015年6月28日  文責 世界のたま    sign

 

 

グローバリゼーションと民主主義と国家主権

最近の日本含めた国際状況を見ていて思うこと。

国家というものが強調され、戦後築かれてきた民主主義の存在が薄れ、人々の中でないがしろにされつつあるということだ。

 

ブロック経済のはて、世界大戦が起こり、その後、世界中で復興がなされ、社会主義体制の崩壊の中で、資本主義を中心とした社会が形成され、グローバル化が進んでいる。

 

私はこのグローバル化が何を社会にもたらすのか、あまり考えることはなかった。

 

おそらく、経済を中心とするグローバル化の流れの中で、企業、そこで働く人々、そして政府、国家そのものも、その流れの中で押し流されながら、なんとか企業、国家の生き残りをかけて戦っているのだと思う。

 

そんな中一方で、世界中で、事実として冷静に現実を見渡してみると、民主主義が崩壊し、国家というものが強調されている。

 

私は、今までこれらのことを関連して考えることはなかった。

 

そうではなく、グローバル化は民主主義にとって利することはあっても害することはないのではないかと漠然と考えていたように思う。

 

最近出会った本の中でグローバリゼーションと民主主義と国家主権との関係を論じてあった。

 

その中でこの三つをすべて満たすことはできず、二つを取れば一つは失うと書かれてあった。

 

それを読んだとき現代社会の中で生じている現象が理解できた。

 

確かにグローバリゼーションを優先し、その上で国家を考えていこうとすれば、国内的には民主主義を制限せざる負えなくなると思う。一方、グローバル化の中で民主主義を推し進めてゆこうと思えば国家という存在は弊害、邪魔になってしまうであろう。

 

今の日本社会の在り方、現実を見た時、グローバリゼーション、そのための国家という組織の強化に重点が置かれていることは間違いのないことだと思う。

 

資源のない我が国にとって、経済的にもグローバル化の推進は不可欠であると考え、そのための手段としての国家の機能強化が優先されているのであるが、一方ではそれらとは両立しえない民主主義は軽んじられてきている。

 

ただ、立ち止まって考えてみると、グローバル化の手段としての国家機能強化とは別に、国内的な統治手段、格差社会における格差維持のために、それを目的として国家機能強化、民主主義への抑圧が行われていることに私たちは気づかなければならない。

 

他の提言の中でも、触れているが、資本主義社会の行き詰り、地球環境の悪化というまったなしの状況の中で、今、私たちは、グローバリゼーションと国家主権という二つを選んでいこうとしているが、これが正しい選択かと問われたならば、私は否と答えると思う。

 

今、私たちは、民主主義をまづ第一に選択すべきで、その手段としての国家主権を次に選ぶしかないと思う。

 

確かにグローバリゼーションは国家、国民の生活の維持向上、国際関係にとって必要不可欠なことにも思えるが、私は選択の順番を間違えてはいけないと思う。

 

人が生きるということは自己実現、自己統治のためであり、そのために、グローバル化は必要だと思うが、自己実現、自己統治なくしてグローバル化は何の意味もなさない。

 

グローバリゼーション、国家主権という名の下に決して、私たちは民主主義を失ってはならないのです。

 

2015年6月17日   文責      世界のたま         sign

 

 

 

 

法の支配と法治主義

前回のブログで民主主義を取り上げましたが、民主主義が機能する前提として、法の支配が不可欠です。

 

そこで問題となるのが法というものです。

 

狭義の意味では法とは国家における法律を指すことが多いいかもしれません。そこで言う法律とは国家機関である立法府によって制定された法を指します。

 

従って法を守りましょうという場合の法、法治主義でいう法とは、基本的には狭義の意味での法律を指し、その制定過程、その内容、ましてやたとえ国家体制が独裁国家であれ、それらに関しては考える余地はないのです。

 

いわゆる悪法も法なりです。

 

我が国においても明治憲法下では法律の留保のもとで、言い換えれば、法律の範囲内での人権が認められ、逆に言えば、法律をもってすれば、人権制限が可能であった。

 

その後、世界大戦中、国家、法律の名のもとに様々な人権侵害が世界中で行われ、それを契機に法の支配という、国家、法律によっても侵すことのできない法、いわゆる自然法による支配が確立していった。

 

最近の世界で起きている様々な事象を考えた時、明らかに法の支配から、法治主義的な考え方への流れがはっきりと見受けられる。

 

私自身、法の支配という言葉が昔から大好きだった。ただ、法の支配という概念は、実は非常に人間にとってハードルの高い概念であることも事実だと思う。

 

国家や組織を超えたところにある法の支配という概念は、それを履行しないからといってそれを強制する強制力を持っているわけではない。法治主義においては、国家機関である検察、警察、そして司法による強制力が作用するため否が応でも従わざる負えないが、法の支配に関する強制力は存在しない。あるとすれば抵抗権、革命権といったことになるのであろう。

 

沖縄辺野古問題での政府の沖縄県への対応の中でも防衛省の農水省への行政不服審査法に基づく執行停止の申し立てなどは、本来は国民の権利を守るための不服審査法であるのを国家が申し立てるなど、法治主義どころか、本来、不服審査で訴えられる側が逆手にとってその法律を用いて訴えるということを平気で行っている。

 

2010年のアメリカ最高裁判所のシチズン・ユナイテッド裁判での企業による政治献金の無制限の合憲判決もある意味では政治活動の自由という点から見れば一見、理があるように思えるが、資産があるものの政治への影響力を考えた時、これは法治主義的な考え方で、政治活動の自由(特に政治資金の供与の自由という点に過ぎない。)と健全な民主主義の維持という利益を比較検討した時、法の支配の考え方からは、政治献金の制限が認められることが理にかなっていると思う。

 

イスラム国などとのテロとの戦い、彼らには彼らなりの宗教上の教義があり、それがいかなる非人権的なものであろうとも、それが彼らにとっての法である。それもまた、法治主義的な考えである。

 

ロシアによるウクライナ問題、アフリカ各地でみられる内戦、シリアでの内戦、北朝鮮での政治体制など世界各地で起こっている諸問題で言えることはそれぞれの国家、地域での施政者にとって、法治主義的な意味での法に則った行為であり、正当化されるべきものであると考えている。

 

今、私たちが考えてゆかなければならないのは法の支配という視点から物事を考え、行動してゆくことだと思う。

 

法の支配とは、国家、地域を超えた概念で、いわば道徳に近い概念だと思う。

 

すべての人が道徳的であることはほとんど困難であるが、すべての人が法の支配のもとにあることは可能だと思う。

 

私は思うのです。法の支配から法治主義へ歴史を戻し、従来から言われているように歴史を繰り返すのではなく、法の支配の確立を目指すべきなのです。

 

法の支配とは決して難しいことではないのです。ほんの少しだけ誰もが私欲を捨てればできることなのだから。

 

2015年6月4日   文責   世界のたま                 sign