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経済至上主義(経済奴隷)からの離脱

私たちはいつまで、バカの一つ覚えのような、経済成長、GDP600兆円などの言葉に踊らされて生活し続けてゆくのですか?

 経済成長の先に何が待っているのですか?何のための、誰のための、経済成長なのですか?

 今までの経済成長で私たちは何を得て、何を失ったのですか?

 私たちは1980年以降、レーガン大統領、サッチャー首相、中曽根首相時代からの新自由主義、経済自由主義の下で何が起きてしまっているのかをきちんと知っておかなければならない。加速度的に世界中で所得格差が生まれ、現在もそれは拡大し続けている。かつてキング牧師が語った「私には夢がある」といった時代ははるか遠く、それこそ夢になってしまっている。
 
 冒頭に述べた現政権が盛んに訴える経済成長の先に何があるのかといえば、そこにあるのはさらなる格差社会、それに伴う、国内での治安の悪化、政治の腐敗、国際関係においてはテロの拡大、難民の増大、最終的には国家間での戦争状態すら起きてしまうであろう。

 そして誰のための経済成長なのかといえば、現在、経済的な意味で豊かである人々である。先程述べた新自由主義の下でのトリクルダウン(金持ちをより金持ちにすることが結果的にその恩恵が貧しきものへも生じてくる)というバカげた考え方を信じている人がいるとは思わないが、今の与野党の国会議員含めて相当のおバカさんが多いいので、ひょっとしたらいるのかもしれない。
 
万が一、それが多少でも言えるとしても1960年代の高度成長期の日本における企業の終身雇用の制度の下でしかない。2000年代以降の終身雇用制度が破たんしている現在においてトリクルダウンのためと称していかに大企業に補助金を与え、優遇税制、その他諸々の便宜を図ったところで社員、下請け企業にとって何のメリットもなく、内部留保、株主配当、役員報酬が増えるだけのことである。

 たちが悪いのは現政権がそれらを理解した上でそれらのことを行っていることである。いわゆる確信犯なのである。

 それでは私たちは何を得たのでしょう?

 私は思うのですが、奴隷としてではあるが、当面生きておられるという事実だけです。昔から百姓は生かさぬように、殺さぬようにということが言われていましたが、まさにその状態です。

 奴隷の最終段階は奴隷が自らを奴隷と思わなくなることであると言われている。

 私は今の日本の現状はそうなってきていると思う。経済成長は、そもそも私たちみんなの生活が物質的にも、精神的にも豊かになるための手段であったはずです。それが今はどうなっているのでしょう。手段であったはずの経済成長のために、それを目的として、経済成長のために私たちはサービス残業をして、私たちの命を削っているのです。

 経済成長という言葉に私たちは騙されているのです。手品といっしょで手段を目的にすり替えられてしまっているのです。私たち人間は今や、石油、鉄鉱石などの資源と同様に単なる資源の一つになってしまっているのです。

 様々な休むことのない広告、宣伝の嵐の中で、ある時は、政府による、エコ減税や、ありとあらゆる補助制度の誘惑の中で、まだ使える携帯や、パソコンや、車などを経済成長のためになるのだと買い替えされられている。それらの新商品、オリンピックなどの一時的な興奮と引き換えに、一瞬の間、奴隷である自分たちを忘れることができる餌を私たちは与えられ続けているだけのことなのです。

 そろそろ私たちは自らが奴隷であることに気づかなければならない。無駄な買い替えをしたところで、決して私たちの本当の意味での生活は豊かになることはないということに気づかなければならない。無駄な買い替え、消費をすることで加速度的に地球温暖化は進み、インチキなお金を使ったオリンピック招致活動、インチキなロゴマーク、施設の選定、ドーピング問題など

それらすべてのことに対して耳を塞がず、目をしっかり見ひらいて目をそらさず、しっかりとその一つ一つの事実を私たちの胸に刻まなければならない。

 現在、高収益を得ている企業、団体、組織、個人は決してそれらを手放すまいと必死の抵抗を試みて、私たちに、経済成長のない世界はデフレで失業者のあふれる恐ろしい世界であることをさかんに宣伝することは間違いない。それは洗脳された人が目を覚ますのを邪魔する行為そのものである。

 私は決して恐ろしいものではないと思っている。環境に優しくない産業、他者に健康被害を与えても何ら自らを省みることなくお金で済ませると思っている社会的価値のない企業を社会から一掃して、意味のない消費行動をやめて環境に優しい、人に優しい社会に作り変えてゆくだけのことなのです。

 確かに今までのような無駄な消費を私たちはやめなければならないため、現在の物にあふれた生活に慣れ切っている私たちにとってそれは一見、物足りなく不便さを感じるかもしれない。しかし、今より多少、不便であるとしても結果的には、自然豊かで、労働時間が少なくなった余暇を楽しめる社会への転換が図れるはずであるし、そうしなければならない。持続可能な経済成長など、有限の世界の中であり得るはずがないのです。

私たち人間がこの限られた有限の地球という中で生きてゆくにはそれしかないのです。

そして私たちに残された時間も限られているのです。

   平成28年5月20日   文責   世界のたま  

 

震災とグローバリゼーション

熊本では、今回の震災で多くの方々が亡くなられ、今現在も続く余震の中、被災された多くの方々が過酷な避難生活を強いられている。

震災後、様々な報道がなされている中で、今回に限らないがいつも思うことがある。

今回の震災においても震災当初の話であるが総理大臣が官邸にいながら早期に屋内生活への指示を出した一方、熊本県知事は現場がわかっていない、今までに例を見ない激しい余震が続く中、人々は怖くて屋内避難などできないといった談話が流された。

この報道を見て私は東北で起きた震災での原子炉の燃料棒融解を思い起こしていた。

あの時も現場で対応に当たる指揮官はじめ職員と、現場から遠く離れた東京にある総理官邸や東京本社にいる東京電力の幹部との考え方、指示の違いが報道されていたし、今だもってそのやり取りの詳細がはっきりしない部分がある。

どちらのケースでも最終的に正しかったのは現場だと思う。正しいという言い方は適切ではないであろう。それしかないのだ。

今回に限らないが世界各地でいわゆる未曽有のことが立て続けに起きている。今までの経験では対応が困難な事例、予測がつかない事例だ。

それらをみていて私がいつも思うことは国内外でグローバリゼーション化が推し進められる中でのグローバリゼーション自体の持つ脆さであり、そこへの加速度的な流れであり、未来の地球、そこで生活していると思われる現在生きている子供たち、孫たちを含めた未来の人たちへの生存の危機である。

グローバリゼーションは常に均一化を求め、効率化を求める。その中で地域性、人間性は薄れ、失われてゆく。

確かに災害対策において自衛隊、警察含めた人的、ガス、電力、水道などに対する復旧、そして予算面での国家的な対応は不可欠である。

しかし、震災当初、長期的対策の中ではその担い手は地域しかないのです震災という観点から見た時に最終的に必要なものが地域であるということを誰もが認識するのであるが、特にグローバリゼーション化した現代社会にあっては、当事者になって初めて気づかされるものだと思う。

その地域性であるがこれらは一朝一夕にできるものではない。

よく様々な危機的状況があるたびにそれらに対しての対策が考えられ、備えがなされるが、社会全体がグローバル化の流れの中で、それらを考えてゆくことは元々、無理な話なのです。

社会全体での地域性の崩壊の原因は言うまでもなく、経済でのグローバル化である。

経済でのグローバル化が図れる中で人口は移動し、小規模事業者、それが農業、漁業、畜産、林業、商業、工業など何であれ、崩壊し、チェーン店化された事業者、大規模事業者にとってかわられる。

経済でのグローバル化は政治的、行政的、社会的グローバリゼーションを引き起こす。

経済的グローバル化は世界中で今や南側諸国、北側諸国を問わず、地域性を破壊し、地球規模での破滅への道へとその流れを推し進めている。

今、私たちが来るべき予測不能な危機的状況を前にして、私たちの、子供、孫、そして私たち人類の、生き物の未来が存在することを保障したいのであれば、何をしなければならないのか。

それは経済のグローバル化を止めることであり

今生きている私たちが、今しなければ何の意味もないのです。

  平成28年4月30日  文責  世界のたま  

安保関連法の施行を迎えて

今、私はあと40分もすれば安保関連法が施行されることを考えながらこの文章を書いている。この文章を書き終えたときにはすでに施行されているであろう。

 安保関連法については憲法違反であることが明らかであり、そのことについては現在広島高裁に控訴しており、もう35分もすればいったんは施行されはしても、その執行停止が認められることを切に願っているが、それとは別な意味で私たちはまづ現在世界各地で起こっている紛争について理解しなければならない。

 たしかに世界各地で現在紛争が生じており、多くの人たちが傷つけ合い、多くの子供たちがその犠牲になっている。

 それらに対して先進国と呼ばれる国々が対処しようとしていることは事実であるが、そもそもそれらの多くの紛争の原因を作ったのは先進国と呼ばれている国々であり、その理由も彼らの覇権争い、石油をはじめとする資源争いの結果である。

 かつてアメリカのブッシュ大統領が悪の枢軸と語った、イラン、イラク、北朝鮮で言えば、そもそもイランに対してはその石油資源を狙ってイギリスが、そしてアメリカが軍事支援してイランを軍事大国化したのはアメリカ自身である。その後、イランイラク戦争で今度はイラクのフセイン大統領を軍事的支援し、軍事大国化したのもアメリカであり、そのイラクを9.11後、実際には存在しなった大量破壊兵器を有するとしてイラク戦争を起こし、フセイン大統領を殺害したのもアメリカであり、それを支援したのが我が国日本を含めた先進国である。また日本が植民地化していた朝鮮半島において戦後、南北で争った朝鮮戦争を引き起こしたのもその後ろ盾であったソ連、中国、そして西側先進国の覇権争いである。

 今も泥沼化しているアフガニスタンを見てみよう。そもそも冷戦時代、アフガニスタンに介入したのがソ連である。それに対して戦ったビンラディンを軍事的に支援したのがアメリカである。その後9.11を起こしたとしてかつては軍事支援していたビンラディンを引き渡すようにアフガニスタンに介入したのもアメリカであり、最終的にアフガニスタンではなくパキスタンに潜んでいたビンラディンを殺害したのもアメリカである。

 次にパレスチナ問題を見てみよう。そもそもパレスチナの地に住んでいたのはヘブライ王国の時代には確かにユダヤの人たちであったが、その後パレスチナの人たちが生活をされていたのも事実である。イギリスの統治下の元、オスマントルコとの戦いの中でイギリスがその戦いを有利にするためにアラブ人にはアラブ国家を、ユダヤ人にはユダヤ国家の建国を双方と約束したため、その中で紛争が生じてしまい、イギリスが匙を投げた中、国連も解決できず、ユダヤ人のロビー活動によりアメリカの後押しの中で1948年にイスラエルが建国され、その結果として今日までパレスチナ問題が続いている。

 インドシナ半島を見てみよう。戦後インドシナでは多くの国が独立し、その中にベトナム、カンボジアもあった。ベトナム、カンボジアもインドシナ戦争を経てフランスから独立を果たしたが、ベトナムではソ連、中国とアメリカの覇権争いの中でベトナム戦争が生じ、その覇権争いはカンボジアにもおよび、結果としてポルポト政権を生んでしまい、中国の文化大革命の影響もある中、3年間で100万とも300万ともいわれる人々が殺害されている。
 
 1960年代アフリカでも多くの国家が独立を果たしたが先進国が植民地化した際に引いた国境線によりそこに住む民族が分断されたこともあって独立後も多くの地域で内戦が今現在も続いている。

 日本を顧みてみても戦後、短期間のうちに高度成長を成し遂げ今日の経済大国となれたのも日本国民の努力もあったが、朝鮮戦争、ベトナム戦争におけるアメリカ軍を介した特需が大きな起爆剤となったのも疑う余地のない事実である。他国民の多大な戦死者を含む被害の中で私たちは現在の恵まれた生活を手に入れたのである。

 私は、地中海を死を覚悟して渡る小さな子供たち、国境線で足止めされて金網越しに泣く子供たち、シリア、パレスチナの爆破された建物の中で震える子供たち、アフリカの飢餓の中で骨のむき出しになったやせ細った子供たち、彼らを見るたびに、彼らの犠牲の中で私たちの生活があることを悲しく思う。

 私たちが今なさねばならないことが何なのか、それは決して武器を手にして私たち自身を守ることではなく、己を捨ててでも他者を受け入れる、理解しようとする気持ちであり、行動であると思う。

 歴史に目を閉ざすものは現在、未来に対しても盲目である。そのことを痛感する。

   平成28年3月29日    文責   世界のたま

   

ピエロになること

前回のブログの最後に私自身がピエロになることについて触れたが、先日といっても3日前のことであるが、来るべき在宅療養社会についての30分程度の講演を依頼され、医療、介護、福祉、行政関係者200人程度の研修会で話をさせていただいた。

来るべき在宅療養社会は現在の在宅療養社会と全く違って本当に厳しくなること、その中で最も支えになるものはコミュニティしかないこと、その二点を伝えたかった。

うまく伝えることは出来なかったかもしれないが、可能な限りのことは自分なりにしたつもりである。

壇上の上で思ったのだがピエロになることは自分という存在を完全に消して無になることだと思った。いわゆる無心になることに近いものだ。

また先日、広島地方裁判所から、私が地裁に提訴していた安保関連法の国会議決の無効、その執行停止請求に対して棄却判決が特別送達された。

判決内容については納得いけるものでは決してなかったが3人の裁判官がある意味で丁寧に棄却理由を述べていただいたとは思う。

しかし私がこの裁判で司法というより一人一人の裁判官に問うているものは何なのか、それは裁判官の使命であり、さらに言えば、日本国憲法上における一人一人の裁判官の使命とは何なのかである。

そして私が訴えている訴訟における私自身の立場についての充分な考慮がなされていない点において大きな誤りが原審にあると思われ、広島高等裁判所に控訴させていただいた。

この間、特定秘密保護法については最高裁まで上告し棄却されたが、今回の裁判では、私自身、より無になって訴訟行為に及んでいると思っている。

控訴に関しても、より純粋なピエロになって臨んでいるつもりだ。

徹底した無になることによりそこに自ずから真理への道が開かれると思うし、そう信じている。ピエロに徹することで初めて真空状態が作り出され、そのブラックホールの中にすべての事象が自然に引き込まれるのだと思う。

現在、私は、在宅医療、介護を通じて多くのことを学ばしていただいている。その中で、もっと私自身ピエロになりきらなければならないし、残された時間がないのです。

訴訟においてもそうであり続けなければならない。

ただ、それだけではおそらく何も変わらないことも覚悟せねばならないであろう。

さらなるピエロとしの在り方を考えているが、一段と厳しいものとなるであろう。

        平成28年2月28日     文責    世界のたま

無に耐える

人は何もなさないということに対しては実に脆い。
人は何かをしていなければおれない生物だ。
何かをすることで人は充実感を得て、それを進歩と呼んできた。
しかしその結果が今の現実なのだ。
その結果を前にしても人は止めることができない。否、止めようとしないのだ。

何度も話しているように私は日本国憲法が大好きだ。
これも何度も話していることだがその中でも幸福追求権が大好きである。
私が日本国憲法を好きなのは個人としての人権を保障しているからではなく、前文、および本文で書かれているように将来の国民に保証しているからだ。
将来の国民に、すなわち子孫に幸福追求権を保障しているのです。

裏返してみると私たちは子孫に対する幸福追求権を保障する責務を負っているのです。

ブログの中で幾度も資本主義に対する限界、経済優先社会からの脱却を訴えてきたがそのために何を私たちはすべきなのか、それらが可能なのか、ずっと自問自答してきました。

このことも何度もお話してきましたが、個の中に全体がある、結局そこに尽きることがわかってきました。

個、すなわちコミュニテイー、小さな共同体にその答えがあるのです。

そういった意味で現在の世界の潮流である国家主権的な考えや、TPP含めたグローバリゼーションは今までの古い価値観の中での遺物でしかなく、その先に待っているのは破滅しかない。

消費を抑えた、環境の改善を中心にした世界への転換を図らなければならない。

いつまでも、経済成長、株価、GDPなど古臭い指標の中で、一喜一憂している愚かな政治屋や莫大な広告費用をかけて商品を売り込み続ける大企業の経営者、それらに携わる愚かな人々を目の当たりにしたとき、彼らは先のことなど何一つ考えてはいない。

TPP交渉の担当大臣を見れば子供でも分かる。そこにいるのは担当大臣ではなくただの欲深い愚かな心の寂しい人間だ。
ただ、それらの人たちに踊らされているとはいえ、それらを選出してそれらの者のために大切な時間と環境を提供している愚かな自分たちであることも私たちは認識し、先にあげた消費を抑えた、環境中心の世界へ導くためには私たちは何をしないかとなければということを真剣に考えなければならない。

いつまでも欲深い政治屋や大企業の奴隷で居続けるのか、しかしこの先に待ち受けているものはもはや奴隷ではなく、政治屋、大企業含めた私たちすべての死しかない。

資本主義という手段としてはその素晴らしさを利用しながら世界の転換を図っていきませんか?

その答えはコミュニティにあり、最終的にはあなた方一人ひとりの個の中にその答えは存在しているのです。

今の日本含めた世界の潮流に対して、最も私たちがすべきことは無に耐えることなのだと思う。

私自身、現在、裁判やブログで訴え続けているが、私がピエロになることで何かが変わるのであればピエロにでもなろうと思う。

未来の人のためになるのであれば。

    2016年1月31日    文責  世界のたま

私たちが向かわされているところ

私が幼少だったころのことを考えることがあるが、世の中が確信的だった気がする。私自身が自己に閉じこもる性格であったこともあるかもしれないし、今の時代のようにネットやスマートフォンなどの情報伝達機器がなかったこともあるかもしれない。

無数の情報の中で選択肢を迷うことが多くなったからかもしれない。

しかしながら、その一番の大きな原因は自分自身の中にある不安ではないかと思う。果たして自分自身すらも自己に決定権があるのか、利己的な遺伝子でいう自分自身は単なる器でしかないのか。

ただどうであれ、私の遺伝子はおそらく身の危険を感じて叫んでいることには間違いはないと思う。そして、こうやってブログを書いて、訴訟を起こしているのは自分自身であること。自分自身で決定していることも間違いのないことであろう。たとえ無数の遺伝子たちが大騒ぎを起こしているに突き動かされていることが動機であったとしても。

彼らというか私の遺伝子たちがなぜ大騒ぎをしているのであろうかということを考えたとき、遺伝子という自然に突き当たる。

間違いなく自然が私を突き動かせているのだと思う。

自然が身の危険を感じている。自然がイエローカードを私たちの現代社会に対して突きつけているのだと思う。

それは私のブログの中でも何回か取り上げたことであるが自然の再認識に他ならない。遺伝子にとって、科学という名を借りた自分たちの自己否定につながる遺伝子操作はもちろんのこと、彼らが存在するために不可欠な自然環境に対する恐怖感であろう。

人間がたまたまだと思うが道具を見出したように、資本主義という道具を見出してしまった。

資本主義という道具は一見便利なものではあったが、現代社会において、これも何度かブログの中で訴えていることではあるが、私たちは手段を目的とはき違えてしまっている。というより手段としての道具を使っているうちに道具に取り込まれ本来の目的を失ってしまっているのだと思う。

先に私が述べた不安はそこからくるものなのだと思う。

よくロボット、コンピューターに人間が支配されてしまうなどと言われることがあるが、私から言わせてもらうと現実的には道具に人間が支配されるという点ではすでに資本主義という道具に人間は支配されている。

資本主義というと格差問題などが昨今取り上げられているし、現実的に全世界共通で格差は加速度的に拡大しており私自身、大きな社会問題であるとは思う。しかし、それを考えるうえで間違えてはいけないのが貧しいものが善で、資産家、権力を持っている政治家、官僚が悪と思いがちでるが、貧しき者も、富ある資産家も、権力を持つ者たちもすべてが資本主義という道具の中でこき使われている一つの道具、奴隷に過ぎないということだ。

確かに資本主義という道具は私たち人間にとって手段としては必要であったと思うしそれを利用してゆくことは間違いではないと思う。

ただ手段はあくまで手段に過ぎないのであって、目的とはなりえない。それを間違えたとき何が起こるのかということは現代社会が証明しようとしていることに他ならないし、現実的に世界中でいろんな形で生じている。

今から間に合うのか、私にはわからないが、ただ言えることは、もはや後戻りができないところに来ていることは間違いのないことである。

私たちが向かわされているところはどこなのか、せめて私たちが向かおうとしているのがどこなのかであってほしいと思う。たとえそれがどこであろうとも。

             2015年12月31日   文責   世界のたま

今、私がなすべきこと

しばらくの間、いろんなことを考えていました。

二ヶ月前の9月18日に最高裁第一小法廷から特定秘密保護法の立法無効確認、執行停止訴訟に対する棄却判決の送付があり、その深夜、9月19日に安保関連法案の強行採決がなされました。

棄却されたことについては残念としか言いようがないが、自分なりに最高裁まで上告した上での第一小法廷裁判官5名による連名での棄却判決であり、後悔はしていないが、ただ一点、広島高裁棄却後、上告受理申し立てで初めて請求理由をしっかり書き込んだので、広島地裁の段階からもっとしっかりと書き込むべきであったと思うし、法律家ではないため、法的観点からの論理構成が十分できなかったのは事実であった。

ただ、私が、我が国の立憲民主主義の崩壊に対して、憲法保障機関としての司法が、司法積極主義により、日本国憲法の基本原理たる、人権、民主、平和を守るべきであると訴訟を提起した考え方はいささかも間違っていないし、たとえ過去に判例がないとしても、いかなる政治的、経済的な損害があろうと、国際的な信用がなくなることがあったとしても、司法は違憲判断を示すべきである。

最高裁が第189回国会での安保関連法の強行議決の前日に棄却判決を送付したことについて、たまたまなのか意味があるのか知らないが、10月1日に第189回国会における安保関連法の国会議決無効、および安倍内閣による執行停止を求めて広島地裁に提訴させていただきました。

安保関連法についてはその審議母体である違憲国会たる第189回国会自体の問題に加えて、安保関連法で侵害される国民の平和的生存権侵害の問題、審議過程の審議、議決権の逸脱、立法事実不存在問題など、数多くの問題をはらんでいる。今回の訴状ではその一つ一つを法的観点から、過去の判例もしっかり交え、その上で事実関係を丁寧に訴状に盛り込んだつもりです。

 日本国憲法を守り、立憲民主主義を守ることが、人権、平和を守るための不可欠の条件であると私は信じているし、これを放置することがどんな結果を招くのかそれは過去の歴史が証明しているし、今回、私がそれを許すとするなら、その結果は歴史が明らかにするとは思うが、それは、歴史が存在していればだが。

 私が世界のたまを立ち上げてから言い続けていることであるが個の中に全体が存在しているのであり、我が国が国民の人権を守ることが世界の人々の人権を守ることであり、本当の意味での日本の平和を守ることが世界の平和を守ることなのです。決して、一国平和主義なのではないのです。多くの人々がそこを勘違いしているのであるが。

 私が沈黙している間に、日本国内では安保法案の可決以外にも、沖縄辺野古問題で、政府による沖縄県への代執行訴訟、臨時国会開催せずなど様々な問題が生じているし、世界を見渡せばフランスでのテロ、ロシアによるシリア空爆、ロシア機テロ、難民の締め出しなど新たな問題が生じてきている。

 この期に及んで世界の首脳クラスが集まって安全保障について議論しているが、すべて時代遅れの発想の中でしかない。

 フランス大統領がベルサイユ宮殿で上下両議員を集めての戦争状態の宣言、国歌斉唱をみるとちょうどブッシュ大統領が9.11のあと上下両議員を集めてのテロに対する先制攻撃の宣言そのもので、そのあとのアフガン、イラク戦争の結果は誰もが知っている通りだ。今回のフランスのシリアの爆撃の結果がどうなるのか、それもはっきりしている。

 現在の国際政治の主流であるリアリストが考える勢力均衡や覇権体制は安全保障制度の前提として国家を基本として考えている。現代社会の中で問題となっている安全保障の対象はテロ組織、民族によるテロ行為、内戦である。

 それらに対して世界の首脳は相変わらず国家間の安全保障政策を持ち込もうとしているのです。それでは何の解決にもならないことは先にあげたブッシュ大統領が行った愚行で明らかである。

 それを解決できるのは決して国家間における安全保障政策ではない。

そんな中、こんなちっぽけな私に何ができるのか問い続けてきたが、自分の信じることを訴え続けること、それしかないと思う。

 今回の訴えに関していえば、過去の最高裁判例からすれば考えられないことかもしれないが、必ず認められるとわたしは確信している。

 先の安全保障に関していえば国家ではなく個でしかありえない。私の訴訟も、そのための訴訟なのです。

  
    2015年11月18日   文責  世界のたま

 

 

沈黙という言語

ずいぶん前の話になるが、医学部受験の2次試験の論文問題で、「沈黙の言語」について論じろという課題が出されたことを思い出した。
あの時もものすごくおもしろく、いい課題だなと思いながら書かせていただいた。
今、「沈黙」と言う言語の意味をつくづく思い知らされる。

   2015年10月31日     文責  世界のたま   

プライドをなくしてしまった国家、日本

アメリカ議会での演説、戦後70年談話など世界に向けて安倍さんは言葉を発した。

 

彼にとってはプライドをかけた一世一代の演説、談話だったかもしれないが、あれほど日本という国家、国民にとって恥ずべきプライドをなくした出来事もなかったかと思う。

 

両演説、談話を通じて言えることは、戦後のアメリカ占領政策が未だに、そのまま続いており、日本という独立国家は存在しておらず、アメリカの属国、もしくはアメリカの一つの州に成り下がったというか、好んでならしていただいてると言わんばかりの宣言であった。

 

安倍さんはじめ、それを取り巻く人々は、さかんに日本国憲法が押し付けられた憲法だと言っているが、現実に存在している国家、日本国、並びに日本国民を、アメリカにそのままそっくり差し出している自分たちの愚かさは棚に上げている。

 

日本国領土、領空でありながら立ち入りが許されない、裁判権すら制限されている現実、どこに主権があるのか、国家としての、国民としてのプライドがあるのであろうか。

 

プライドとは何かを考えることがある。

 

よく人はプライドが傷つけられたとか言うことがあるが、多くの場合、本当の意味でのプライドではないことが多い。

 

プライドではなく世間体、社会的評価のことが多いいのだ。

 

私は思うのだが、本当の意味でのプライドとは世間から外部から傷つけられることはないものだと思う。言い換えれば、傷つけることがそもそも不可能なものなのです。

 

たとえば、かつてアウシュビッツにおいて人権をはく奪されたユダヤの人達にとって私は彼らのプライドは決して傷つけられることはなかったと思う。彼らにとってのプライドは彼ら自身の中にだけあり、死の淵まで決して傷つけられることなく存在していたと思うし、そのプライドの中で死を迎えたと思う。

 

本当の意味でのプライドとは他者が害することはできないものだ。もし、プライドが傷つけられることがあるとすれば、それができるのは、己自身でしかないのだ。

今回の演説、談話にしても、己自身の自己実現、自己統治という自主独立の思いは全く見られず、終始、過去に縛られ、そこから抜け出ることもできず、そこにあるのは、他者への追従、盲従だけだ。

 

主権者への提言の中でも述べたことだが、個の中に全体があると思う。国家を構成する主権者である国民一人一人の中にこそ世界全体があるのです。

 

人が生まれつき持っている本来のプライドとは、個の自己実現、自己統治そのものなのです。国民一人一人が、個のプライドを大切にするということは、個の中にある全体を大切にすることにおいてのみ実現できることなのです。

 

積極的平和主義とは、個の自己実現、自己統治が実現可能な世界を築くことなのです。そのためには個の中にある全体、言い換えれば、他者の自己実現、自己統治を図ることだと思う。

 

我が国、日本が、今なさねばならないこと、それは見せかけの平和を演じることではない。たとえば、オリンピックとは、本来、平和の祭典である。積極的平和主義を掲げるのであれば、本来のオリンピックの意味を世界に問い直す機会として使うべきであるが、日本の偽政治者たちは、ただの経済効果を生み出す道具としてしかみていない。

 

その結果として、競技場、ロゴマーク、ドーピング問題、様々な稚拙な事柄が、必然的に起きており、そのことは、現在の我が国が、見せかけの平和主義、民主主義国家でしかないことを証明している。そのことは、これらオリンピックを含む現在の政治を推し進めている偽政者たちが、それぞれ個の中に個しか見ていない裏返しでもある。

 

私は今、誰一人責任を取ることもなく無理やり押し進められている東京オリンピックは、もしするのであれば既存の施設を利用して、これ以上くだらない意味のないこ時間とお金を使うことはやめてそのお金を難民問題など他の用途に使うべきではないかと思う。

 

国民一人一人が個の中に全体を見ることができる社会、それこそが立憲民主主義に根ざした国家であり、プライドのある国家なのである。

 

2015年9月8日  文責  世界のたま           sign

現在の日本政治とナチス政治

特定秘密保護法の議決以降の日本政治の流れを見ているとふとナチスがかつて行っていた政治手法を思い浮かべてしまう。

 

かつてヒットラーが政権を握るため何度も議会の解散を繰り返し、ある意味では国民の選挙疲れの中で多数を勝ち取っていった。

 

昨年度の衆議院解散も結局、安保法含めた国民の反発を見据えて、最高裁での違憲状態の是正判決をも無視し、2年という任期もありながらさらなる4年という任期を得るため行ったのだということは明白である。

 

結局、今回の安保問題もそうであるが、多数の民意を無視した違憲な法律を強行議決するために、違憲状態での選挙を強行するという立憲民主主義のかけらもないナチスが政権を取った過程に酷似してきている。

 

国民のあきらめの中でそれらの政治工程を淡々としてゆくというその核心のない軽薄な政治行為も非常に似通っている。

 

地方に目をやっても莫大な費用をかけて行った、都構想の住民投票結果を、真摯に受け止めることもなく、まだ投票から間がないのにもかかわらず、性懲りもなく自分たちの主張が通るまでごり押ししようとする軽薄な政治行為をし続ける姑息な政治屋もいる。

 

彼らに共通しているのは自分たちの主張が通れば民意であり、民主主義だと叫び、少数者を無視する。彼らには正々堂々と国民と向き合う気持ちはない。

 

国民の反対が予想されれば憲法改正ということから逃げ、法制局長の首を変え、憲法判例解釈を勝手にして、憲法解釈の変更という姑息な手段をとる。

 

政党を私物化して、民意を欺き、姑息な手段で自らの政治的欲望の実現を図る。

 

彼らにとって少数者に対する思いやりは存在しない。

 

立憲民主主義を理解できないものに何一つできることはないことを、彼らは学ぶであろう。

 

2015年9月3日  文責  世界             sign