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日本社会、政治の衰退~暗黒の時代を迎えて思うこと

私は最近、生きてゆくことにものすごい息苦しさを感じる
これはおそらく私だけの思いではないとは思う
そしてそのことは、毎日世界中から発信されるニュースを見ていて、日本社会の中で生きている私だけに限らず、世界中のあらゆる人々が同じことを感じているのではないかと思う

日本社会の中で最近起きたことで言えばテロ等準備罪、いわゆる共謀罪が内閣において先日、閣議決定されたことが挙げられる。今回共謀罪が閣議決定されたことは世界でのシリア問題、世界中で多発するテロ事件、国際条約批准問題、そしてそれらの流れの中で東京オリンピックにおけるテロ対策が理由とされているが、それらの理由付けは特定秘密保護法、安保関連法が強行採決された際に私たち国民が見せつけられた光景、デジャブーにすぎない。何の理由にもならない所詮私たちおバカな国民をだますための詭弁にすぎない。

したがってその先に待っているのは間違いなく国会における議論ではなく強行採決でしかない。

私は物事を見るとき立体的に見なければ物事の本質を見誤ってしまうと思っている。今回の共謀罪を考えてみた時、先程にあげた特定秘密保護法、安保関連法とリンクさせて立体的にとらえてみると我が国がどういう方向へ向かおうとしているのか、おバカな現在の日本の指導者たちが何をしようとしているのかがはっきりとみえてくる。

私たちおバカな国民も見慣れて慣らされてしまった官僚たちが開示する黒塗りの文書、記憶にない、破棄してしまっているという聞き飽きた文言の数々

これら一連の立法により国家、すなわち政府、官僚組織は自分たちが知られてはまずい国家機関の内部情報に関しては徹底的に秘密にし、一方では主権者たる国民に関する情報は徹底的に国家が把握する。その中で対世界においては国家(中央政府、官僚組織のための国家)の生き残りをかけて国民を総動員させることが可能になる。

今回の共謀罪はその総仕上げにすぎないと私は思っている。

戦後、我が国は世界でも前例のない経済発展をして経済的に豊かな国を作り上げてきた。そして精神面においても戦前の国家統制の中での不自由な社会から解放されて、思想、良心の自由などの内心の自由はもとより、表現の自由を手にして我々はそれらを満喫してきた。

おバカな主権者となり果ててしまった現代社会の思考停止した私たち国民は、それらの若くして命を国家のためになげうった先人たちの思いも忘れ、先人たちが獲得してくれた表現の自由という外堀が埋められ、いよいよ内心の自由という内堀がまさに埋められようとしていることに気付きもしないで自らや家族、友人たちの生活のことだけを考えている。私が主権者たる国民をおバカと言っている所以、思考停止していると言っている所以だ。

表現の自由、そして内心の自由をも失った私たち国民の先に待っているのは国家のために最終的にその存在の源泉たる命さえもささげなければならないという事実だけだというのに

今回の共謀罪について、私が思うところを述べておこうと思う。
そもそも刑罰法規とは国家権力によって人権の中でも最も重要度の高い人の生命、身体に対する侵害がなされるという最も人権への侵害度の高い部類のものである。したがって日本国憲法のもとでは罪刑法定主義と一般的には言われているが、国会の法律によらなけらば刑罰を科すことはできないとされている。

ところでそんな刑罰法規を人は何故作る必要があるのだろう。

刑罰法規には目的が二つあり一つは私たち国民を犯罪から守るという法益保護という目的、そしてもう一つが意外と知られていないのだけれども私たち国民の人権の保護のためです。
どういうことかといえば、私たち国民はどんな行為が犯罪となってしまい、国家権力によって逮捕され、刑罰を処せられるのかがわからない限り、どんな行動も安心して何一つできないと思う。そうでなければいつ何時息を吸っても逮捕されるかもわからないのだから。そういった意味で先程述べた罪刑法定主義が憲法で定められているのです。

それでは刑罰法規が法律で決められていればそれで私たち国民は予想外のことで逮捕されたり、刑罰を受けることがないのでしょうか? 実はそれだけでは安心できません。

何故でしょう。たとえ刑罰法規が法律で決められたとしても問題は刑罰法規の中身なのです。皆さんも日常生活の中で考えて見ればわかるのですが、中身があいまいであればあるほど何が規制されているのかわからず、結局私たちは何を守れば逮捕されないですむのかがわからなくなってしまうからです。

そのように刑罰法規にとって、二つの機能、すなわち犯罪者から私たち国民の生命や財産を守るという観点からと、不当逮捕などの国家から私たちの生命や財産を守るという観点からの二つのバランスが重要なのです。

そこで現在のわが国の刑罰法規を考えて見ましょう。我が国においては犯罪行為として処罰される行為は基本的には単独で基本的な犯罪行為、例を挙げれば殺人であればそれに該当する行為をして人を殺してしまった場合に処罰されることになっています。しかしそれでは処罰範囲が限定されて刑罰法規の目的たる犯罪の抑止に限界があるため処罰範囲を徐々に拡張して、単独でなくても主犯と一緒に殺人を犯した共犯も処罰できるように、そして一部の犯罪ではその予備行為、準備行為、未遂行為をしただけでも処罰されるようになっています。これらは結果が重大で、結果が起きてからでは取返しがつかないものについて法律により定められています。

そこで今回の共謀罪(刑罰法規に該当する犯罪行為に直接関わらなくても相談、話しただけでも犯罪とされる)ですが、それを法律という形で決めてしまって(成文化)よいのでしょうか?

結論から申し上げます。決して私たちはそれを認めては駄目です。

たしかに犯罪が広域化、組織化される中で犯罪の実行者よりも、黒幕がその影響力、資金力をもっており、黒幕こそが実際の実行者以上に非難されるべきケースがあり、判例上も共謀共同正犯理論が認められ、罰せられる例はあります。

しかしそもそも共謀したという事実、実際は証明が難しく証拠も残りにくいものです。実際に逮捕する方も難しいし、共謀したとされて誤認逮捕された場合を考えても相談したかどうかのレベルでそれらを否定することも捜査機関などを持っていない個人にとって不可能に近い。そして一番怖いのが誤認ではなく意図的に逮捕されたケースである。

元々の基本的な犯罪行為の処罰範囲を拡げた共犯(殺人という実行行為を実際に一緒に行う)をさらに拡張させた共謀というものを刑罰法規の中に成文化することは刑罰法規の二つの機能のバランスを崩してしまい、今までの刑罰の基本概念を根底から覆しかねないことだと私は思う。

共謀罪を成文化することの更なる危惧は今までの判例上の概念で止まっているのとは違って、成文化されたがゆえにその条文を使って更なる処罰範囲の拡張が間違いなく行われてしまうということです。例えば共謀罪を共謀したなどとなればもはやどこまでが犯罪なのかわからなくなるし、本当にそういった行為をしたことの立証、しなかったことの立証はほぼ不可能になってくるであろう。結果的に罪刑法定主義は有名無実化してしまうであろう。

国民からの誤認逮捕に対する立証は困難になる一方、共謀罪が成文化されたがゆえに捜査機関による国民の監視システムの強化が図られることは間違いのないことである。
先日、捜査機関が令状をとらないで行ったGPSを取り付けた捜査を最高裁判所は違法であるとしたが、その判決において、その根拠となる法律がないためとされ、法律があれば可能な可能性を残している。

共謀罪が成文化された日本社会が監視社会となることは間違いないと私は思う。

戦前も隣組制度の下、国民が隣近所を監視し合ったが、近代版隣組制度になってしまうであろう。

冒頭で述べたように、特定秘密保護法などを含め、この間国会で明らかになったように、自衛隊での文書の組織的隠ぺい、森友学園問題での官僚による文書の廃棄(おそらく隠ぺいであろうが)それらの政府、官僚による公的な情報の隠ぺいが国会という国権の最高機関の場においても平気でなされている。

国家機関による公的情報の隠ぺいと共謀罪の成文化による監視社会の強化が合体したとき、おそらく私たち主権者たる国民の人権を守ることは個人ではもちろん、司法をもってしても不可能になってしまうであろう。

共謀罪が成文化された社会の中で、人は何のために生きるのであろう
私には、与えられた自由の中で息をしているだけの存在としか思えない

   平成29年3月30日   文責   世界のたま

森友学園化(幼稚化、おバカ化)からの脱却 

今日は春分の日で天気も良く本来であればゆっくりしたいところであるが、たまたま当番医に当たり仕事ではあった。しかし患者さんもまばらのため先日のブログの後編部分である幼稚化、おバカ化した現代社会からの脱却についてお話しておこうと思う。

森友学園問題では学園長の国会証人喚問が決まり、豊洲市場問題では、昨日百条委員会において東京都元副知事の喚問が行われ、今日の午後には石原元都知事の喚問が予定されている。昨日の東京都百条委員会での副知事の証人喚問もそうであったが、ほとんど何の意味もない。このことは今日の午後開かれるであろう元都知事の証人喚問もそうであろうし、森友学園長の国会証人喚問もそうであろう。これらは過去幾度となく繰り返されてきた単なる政治ショーにすぎない。デジャブーにすぎないのです。

前回のブログで述べたように私たち社会はいつまで幼稚で稚拙な社会であり続けるのか。いつまで私たち国民は思考停止し続けるのか。

私は現在の日本社会、国際社会をみていて一番に感じることは今の現代社会は一見、物があふれ、物質的には豊かで便利な社会であるように思えるけれど、精神的には所詮、何の核心もなく、うわべだけの薄っぺらな社会であると思う。

核心のない薄っぺらな社会であるがゆえに、他者との共存も否定し、結果としてどこまで行っても格差社会しか作ることはできないし、民族紛争や、テロなどのない他者との共存が前提である平和な社会をつくることは不可能である。

例えば南スーダンからの撤退を政府は決めたが、その理由としての情勢悪化は否定している。私は情勢悪化が理由であるかどうかとか、日誌を自衛隊内部、防衛庁で隠したうえで防衛官僚、防衛大臣が虚偽の国会答弁を行ったとかなどの森友学園化した政府、国会議員の幼稚で稚拙なことを今更とやかく言うつもりはない。

蓋し、もはや南スーダンの情勢悪化は事実であり、そして日誌の隠匿も紛れもない事実なのだから。

今の日本社会は戦前の大本営発表と同じで、明らかに事実と異なることを事実として発表することが許される社会でありその点で何ら変わってはいない。それが許されているのは特定秘密保護法などによる情報公開の制限と、国民の無関心、すなわち国民の思考停止にあると私は考える。

ただ大本営発表と違うのはインターネット、各種メディアを通じて事実がある程度はわかってしまうからに他ならない。 

誰が見てもわかる虚偽事実自体も確かに問題であり、それについて虚偽であるかどうかを国会その他で議論し、メディアもそれについて盛んに取り上げることも多少の意味がないわけではないがもはや客観的な事実が明らかである以上、そんな稚拙でおバカな議論に時間を費やすことなどにほとんど意味はない。

何故、彼らが大本営発表をし続けるのか、そうした薄っぺらな行動しかできないのかと言えば、彼らには核心がないからだ。

例えば一歩譲って、私自身が安保関連法改正を是として状況を判断し覚悟のうえで南スーダンへの自衛隊派遣を国際協力のために行ったのであるとするならば、たとえ自衛隊員に死者が出たとしても撤退はしないであろう。

何も私は自衛隊員の命を軽んじているわけではない。国際紛争の場に赴いて他国の国民のために物事を行うことは決してたやすいことではない。命を懸けてしなければ難しいことだと思う。そこまでの覚悟をもってでしか為しえることではないと思う。
そういった意味で今の政権与党、官僚、防衛庁幹部、そして野党すらも私には核心を持っている人たちは皆無であると思う。

大本営発表当時の中央組織と同様に、所詮は頑丈に作った防空壕の中でぬくぬくと嘘の発表をし続けることしかできないのだと思う。戦地に赴いて命を懸けて国際貢献の陣頭指揮を執る者など一人もいない。口先だけの薄っぺらな者たちだけだ。

国際的非難を浴びても伊勢神宮には参拝するけれど全国戦没者慰霊祭には参加しない行動など核心を持っていない薄っぺらな人格そのものだ。

今の政府与党、官僚、野党政治家も含めておそらく本当の意味で核心をもって国家国民のために命を懸けている人はほぼ皆無であると思う。

薄っぺらな核心を持たない人たちが口先だけで道徳観の道の字も持たない人たちが如何に子供の道徳教育や、国旗掲揚、国歌斉唱を推し進めようとしても、その形式的なうわべだけの化けの皮はすぐはがれてしまい真の愛国心など育ちはしない。

核心を持たない者たちから国民は何一つ感じ、そして伝わるものはないであろう。

森友学園化した社会から脱却するために私たちは何をなすべきであろう。言い換えれば何をなさねばならないのであろう。

私からの答えは私たち国民一人一人が核心を持つことである。
それではその核心とは何なのであろう。
私にとってその核心とは、他者との共存を図る自然との共通感覚を持った熱い心であり、
そしてその核心に反するものに対してはそれを拒絶する熱い心である。

国内政治において言えば、まず第一に国会議員たるもの、現在の与野党の国会議員のように稚拙な違法性レベルの責任を問題化するのではなく、道徳的レベルでの責任を問題化して、それに対して責任をとるレベルに国会議員としてのレベルを早急に高める必要があるのだが、そのためには日本国民、主権者が自分自身は別にしても、そういった国会議員を選ぶという意識改革をしなければならない。

しかし残念ながら過去のブログで書いたように今の日本の主権者ではなかなか難しい部分であることも事実であり、現実的には司法が、道徳的判断は現実問題として困難であるとしても、憲法レベル、法律レベルでの的確な判断をもってその是正を図り、当面時間稼ぎするしかないかとは思っている。

具体的な国内政策においては、財政、経済、社会保障、防衛など、先にあげた核心をもって考えれば自ずと答えは導き出される。

財政政策においては際限のない金融緩和、公共事業、減税政策を続け、そうした中で国の借金は1000兆円を超え、赤字国債発行するも、もはや引受先もなくなり中央銀行たる日銀が300兆円を超える国債を抱え込み更なる国債を引き受けようとしている。もはや財政ファイナンス、ヘリコプターマネーとしか思えない状況である。また、年金基金や日銀の株式購入で表面的な株価を押し上げる詐欺同然の国家政策。

私からすればこれらのバカげたおバカ政策(おバカでないというのであればどうやって1000兆円以上の借金を毎年の赤字会計の中で返してゆくのかはっきり具体的に日銀総裁なり、国会議員、官僚が説明できるはずだが誰一人としてできる人はいない)をもうこれ以上続けることはやめ、抜本的な累進課税制度、相続税、法人税などの消費税含めた税制度の所得の再分配機能を重点に置いた見直し、地方分権化の促進の中で財政規律の健全化を進めること以外の核心は存在しない。現在のわが国の財政政策は戦争末期の特攻作戦以外の何者ではないとしか私には思えない。

経済政策においても原子力や、遺伝子操作含めた科学技術偏重政策は、自然との共通感覚という観点からは核心と真逆な方向での政策でありその先に未来はない。現実的に東芝問題がそうだったように。そうではなく自然エネルギーを使った自然との共存政策こそが核心である。地球温暖化に対してもコマーシャルや経済至上主義政策の中での無駄な消費を進めることは決して核心ではなく、私たち人類にとってその存在すらも否定する真逆の政策であることに私たちは気付かなければならない。

社会保障政策についても不自然な延命は核心ではありえない。人の命とは何なのか、生きるとはどういうことなのかをもう一度振り返り、考え直すことが最も重要なことだと思う。
その上で、医療、年金、介護それぞれを一つ一つもう一度一から考え直さなければならない。今までのわが国の社会保障政策の一番の問題はそこにあるのだと思う。核心のないまま、ただ単に適当な予算予測の中で帳尻だけ合わせているので、百年安心プランなどのように、くだらない数年も持たないプランになってしまうのだと思う。そうした中で、現在フィンランドにおいて期間限定で試行されているような国民一律の現金給付も一つの考え方だとも思う。

防衛政策においても核心のないままうわべだけの愛国心を語っている今の政権与党のようないい加減な気持ちでの日米安保体制を基軸とした政策は根本的に見直すべきであると思う。今回の南スーダンがそうであるようにしっぽ巻いて帰るようなみじめなことを続けることは国際的な恥以外何者ではない。私は本質的に防衛とは他者を信じてはいけないと思う。いろんな考え方の人がいるとは思うが、最終的に国家としてその最大公約数をとるとすれば、他国を信じないというしかない。そうした前提で我が国は我が国の主権者自身が最終的にすべての世界を敵に回しても守り抜く覚悟とそのための方策が何かを一から考え直さないといけないと思う。多くの専門家はアメリカの傘抜きでありえないと言うが、私はそうは思わない。現にベトナムがそうであったように、如何に大国アメリカでも不可能なことはある。(確かに中国や、ソ連などの後ろ盾はあったにしてもだ。)結局言えることは主権者たる国民一人一人が核心を持っているかどうかにかかっているのだと思う。

森友学園化した社会から私たちが脱却するために何が必要なのかと問われたならば
私は答えるであろう
それは主権者たる私たち一人一人が核心を持つことである。
ただしこのブログの中でも述べているがそれはたやすいことではない
当面、イギリスがそうであるように、フランスがそうであるように、アメリカがそうであるように、韓国がそうであるように、立憲民主主義制度が危機を迎えている時

その是正を図ることができるのは司法である
そしてそれは、裁判官一人一人の良心に他ならないと私は思う

  平成29年3月20日  文責  世界のたま

森友学園化した日本社会(幼稚化した日本社会)

昔から子は親の鏡だというが、私には現在の日本社会、政治的指導者、経済的指導者、そして私たち国民自身も森友学園化(幼稚化、幼児化)しているとしか思えない。

そして森友学園化した日本社会は、とりもなおさず国際社会の縮図であり、現在、世界中で起きている事象は、国際社会の幼稚化、幼児化の結果として起きているに過ぎないと思う。

国有地払い下げで問題となっているというより、学園長の辞任、小学校設置申請の取り下げ、国有地の買戻しで幕引きを図り、過去の問題として忘れ去らせようとしている一連の森友学園問題に関する社会的、政治的流れは、私にそのことを強く考えさせた。

森本学園に関していえば、大きく4つの問題があると思う。
第一に国有地払い下げ問題である。何故 あれだけの値引きがいとも簡単に行われたのか。隣接地の地方自治体への国有地売却との誰もが見てもわかる歴然とした差はなぜ生じたのか。第二に国有地売却そのもの、および小学校設置許可に関わる国会議員、府議会議員、大臣、府知事、各委員、政党とのかかわり合いの問題、第三に設置許可を求めた学園理事が既存の幼稚園で行っており、設置予定の小学校でも行おうとした一貫した幼児教育にかかわる問題、そして第四に首相たる安倍氏との関わり、名誉学園長たる首相夫人の問題である。

私はこれらの一つ一つについて語り、説明するつもりはない。正直言って全くくだらない幼稚なレベルの話である。多くの国民は、幼稚園児たちが教育勅語を覚えさせられ、唱和させられる光景、運動会での中国、朝鮮に対する非難、安保法制、安倍政権に対する称賛を交えた選手宣誓をさせられる園児たちの光景をテレビのニュースを通じて目撃したと思うがこれがまともな大の大人がすることなのか唖然とするばかりである。あまりにも稚拙でレベルの低い人間がさせることとしか誰が見ても思えない。

国会での森友学園に関する国会議員からの追求、それに答える安倍氏、官僚たち、そして府知事、一部の国会議員、県会議員の会見、それらの光景は、幼稚園児たちのおままごとの延長としか私には映らない。それらの光景を見ていて私にはどちらが園児たちなのか全くわからない。国会そのものが森友学園化しているのだ。国会議員たちが使う常套句である違法性はないという言葉。今回も盛んにそれが使われているが、彼らは違法性の前に常識的に物事を判断することができないのか。

現在の我が国では、違法性のレベルでしか物事を考えることのできない幼稚な人たちが国会や、内閣や、地方議会、地方行政府を運営しているのか。幼稚園レベルの園児たちに一生懸命何の理解もできないまま教育勅語、他国に対する偏見を持った事柄を唱和させ、政権与党を称賛させ、それを教育と考え、おままごとごっこをさせている低次元の学園長を立派な教育者と持ち上げ、喜んで講演し、名誉学園長を引き受け、そんなおバカな女性が国際舞台で日本国の首相夫人として紹介されている現実。あまりにも悲しく、恥ずかしく、哀れな現実である。

昨年末の臨時国会の召集決議という憲法上の要請にも関わらず、海外への税金を使った旅行に同伴し、数多くの税金で賄われているスタッフを置いていながら、公人ではなく私人であると言い切るおバカで幼稚な安倍夫妻、国税を使わせていただいている感謝の気持ちのひとかけらもない、裏返すと、彼らは何も理解できない、何の反対意見も言えない幼稚園児たちに、教育勅語を唱和させ、自らの政権、政策を称賛されることくらいしかできない、人間的に成長しきっていない、なんら精神的には幼稚園児と変わらないのだと思う。

私には森友学園問題が、現在の日本の政治、一般社会の幼児化、幼稚化を象徴しているとしか思えないのです。国会、内閣の役割とは何なのか、彼らの役割は違法性レベルの判断を求められているのではなく、違法性以前の、その前提たる法律そのものの定立、国家の基本法たる憲法の改正の発議する能力が求められているのである。森友学園問題を通じてはっきりしたことは、彼らの思考能力は本当に幼稚で、日本国憲法が要請する能力などとても持ち合わせてはいない。そしてその幼稚さ、幼児性は年を追うごとにひどくなってきているように私には思える。

私は問いたい、こんな幼稚なおままごとに対して補助金を使い、こんなくだらない常識的に善悪がはっきりしている事柄について国会で審議、答弁し続ける。いつまで私たちはこんな幼稚で稚拙な社会であり続けるのですか。

先日3月11日で東北大震災から6年目を迎えた。多くの被災者が未だに仮設住宅住まいでそこでの生活は過酷である。そして廃炉への道は険しく、全くめどが立っていない。放射能汚染物質は増え続け、凍土による汚染された地下水の封じ込めも失敗しており、というより、私には、最初から原理的に理論上ではうまくいっても現実的には不可能であったことをある程度分かっていながらやっているとしか思えない。震災以降の政府、東電、原子力関係機関がしていることは何もわからないままに適当にやっては、放射能漏れ情報、労働者含めた被爆情報を隠蔽しているのではないかとしか思えない。私は彼らが真剣に真摯な反省の上に立って処理を行っているとは思えない。もしそうだとすれば、解決が困難なまま先がまったく見えない中で原子炉の再稼働、新たな原発の輸出など考えることは常識的にはあり得ないのだから。

廃炉等の費用に関しても当初の2兆円が8兆円になり20兆円になりで際限なく増え続けており、挙句にその費用を電気料金という形で国民から徴収しようとしている。その一方で東電役員の報酬は一時期800万円程度に減らしたが、震災前の1500万円近くまでこっそり増やし、東電社員の給与も800万円台に戻してきている。

森友学園化は、東北震災だけではなく、豊洲市場問題、東京オリンピック問題でも同じことが言える。それらにおける基本的な問題構造は全く同様である。

そこには科学に対する盲信、人間中心主義、他者との共存の否定しか存在していない。他者に対する思いやりなどひとかけらもない。それは森友学園化そのものである。表面だけ見れば綺麗で立派だが、地下に汚染物は放置され、地上の建物、組織の中で暗躍する人たちの心も地下に埋もれた汚染物以上にに汚れきっている。

そしてそれらを取り巻く人々、多くの国民の心もまた思考停止しているのである。

森友学園化が私たちに教えてくれたこと
最終的に物質的豊かさは何を私たちにもたらすのか

それは、精神的豊かさとの引き換えにすぎないということなのだと思う。

  平成29年3月15日   文責   世界のたま