あなたには自然の断末魔の雄叫びが聞こえないのですか

200人以上の死者を出した中四国を中心とした豪雨災害、今だもって行方不明者の捜索が行われており、被害にあった人々の復興への道は遠く長い
そうした中、国会では、カジノ法案、働き方改革法案、参議院議員定数増加法案などが、国民の多数が反対する中、何の信念も、意思も持たない多数の国会議員によって淡々と可決された。

多くの死者、被災者を出した今回の豪雨災害であるが、様々な報道がなされる中で、その原因としてたまたま複合的な誘因が重なって生じた数十年にあるかないかの自然災害であるかのような見解もあるが、私は誤った見解であると思う。
そう考えるまともな人も多いいのではないかと思う。

過去のブログの中でも何度も述べているように、今回の自然災害も含めて世界中で起きている現象、無数の森林火災、中国での大洪水、北極で融解した巨大な氷塊による洪水被害、それらはすべて偶然いくつかの現象が重なったためにたまたま生じているものではない。必然的に生じたものであり、今後、世界中で、毎年、毎月、毎日その頻度と、程度を増して私たち人類を含めた生物に襲い掛かってきている。

そうした中、数多くの自然災害を報じるニュースを聞いていて、私は疑問に思うことがある。それは、果たして上記に述べた自然災害とは本当に自然災害なのだろうかという単純な疑問である。

自然災害という言葉を考えた時、当然それが意味するところは、自然による災害である。しかし、それは、あくまでも人間から見た、人間目線での評価にすぎない。果たしてそれが正しいのかと問われたなら、私は、間違っていると思う。
誤解を恐れずに言えば、過去のブログでも述べたように、自然災害とは、人間の驕りに対する警鐘に他ならない。しかし、人間を含めた自然界全体としての自然から見た時、それは、自然による自然界の治癒に他ならない。

自然界の治癒とは、生態系バランスの修復であり、結果として、人間、すなわち、ヒトという種の保存のための修復過程でもある。
したがって、自然災害とは、一見すると、人間にとって災難としかとらえられないが、その考え方は、人間の驕りに過ぎない。事実は、自然による人間を含めたすべての生物の生存を図るための修復過程であり、その実態は、人間による災害、すなわち人間災害に他ならないと思う。

人間災害の主たるものは、経済至上主義による温暖化であり、海洋汚染であり、森林破壊であり、砂漠化であり、オゾン層の破壊である。

誤解をしないでいただきたいのは、人間災害によって亡くなられ、被災された方々は、あくまで被災者であって、社会的に保障されなければならない。しかし、その原因を作り出しているのは私たち人間であり、近代、現代社会であるという厳然たる事実があるということである。

自然災害を人間災害ととらえた時、冒頭に述べた今回の災害が起こる中、そして被災者がその苦しみの真っただ中にある中での、美味しい料理と、お酒に溺れた酒宴、死刑囚の死刑執行ショーの開催、何の生産性のない手段としての貨幣を目的化した究極にすぎないカジノ法案の可決、労働や企業の意味をはき違えた過労死遺族の感情を逆なでする働き方改革法案の可決、最高裁による一票の格差違憲状態判決を無視した与野党の都合のためだけの参議院議員定数増加法案の可決、それらすべては、一部の少数者を利するためだけに行われた人間災害以外の何者でもない。おバカな首相や、大臣、国会議員たちは、新たな自然災害を引き起こしているのが、おバカな自分たち自身だということに気付いてもいやしない。

そこには、被災者等の少数者、労働者、貧困にあえぐ社会的弱者への配慮は微塵もない。そこにあるのは、社会的強者の驕りであり、他者との共存の否定であり、すなわち自然との共存の否定でしかない。

そうした中で自然は、より強固で、大きな自然の修復を要求され、実際に、人間が自然災害とするその頻度、程度、大きさも増してきている。砂防ダム、防波堤などで人間はそれを押しとどめようとするが、それらの原材料となるコンクリートはじめ、より便利な日常生活を求めて経済活動を活発化させ、商品や社会そのもの、そして人間すらも記号化させることによって、人間は拡大再生産をし続けている。それらによって、温暖化、自然破壊はとどまることなく進み、より甚大な自然災害へとつながってゆく。

人はこれらを異常気象、自然災害と呼ぶが、私には、異常なのは私たち人間であり、災害なのは私たち自身に他ならないとしか思えない。

異常気象、自然災害という形で、自然は私たち人間を含めた自然界を修復しようとしているが、その修復にも限界がある。
私にはその限界点をもはや超えようとしているとしか思えない。

私が、広島地裁に提起した国家賠償請求訴訟に関して言えば、6/26に敗訴したが、原判決は、日本国憲法、公職選挙法に反しており、7/3に広島高裁に控訴した。
控訴状の結語の中でも述べたことでもあるが、私は、司法の役割とは、形式的には、具体的争訟性のある事件に対する法律の解釈適用にあるとは思うが(原判決はそれすら回避している)、その本質は、統治と人権とのバランスを図ることにあると思う。そして、私が、広島高裁に控訴した本質的な理由は、現在の日本政治において、その統治と人権がそのバランスを崩し、その揺り戻しが困難になっているからに他ならない。

それは、自然が、その揺り戻しが困難になっていることに対する警鐘でもある。
今、私はあなた方一人一人に問いたいのです。
あなたには自然の断末魔の雄叫びが聞こえないのですか

     平成30年7月21日  文責  世界のたま

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