All posts by tama

国家による犯罪が容認された社会~国家は何のために存在しているのか  

1)アメリカのトランプ大統領によるイラン軍指揮官殺害事件、中東和平案提示

先日、トランプ大統領が、イラク国内でイラン軍指揮官をドローンを使って爆殺したことを認めた。
この事件は、現代社会において、テロと国際法上の戦争行為との区別がつかなくなっていることを意味している。すなわち国家による戦争を、テロに対する正当な行為としている。
9.11後、ブッシュ大統領は、テロとの戦いを宣言した。それ以降のビンラディン殺害のための、アフガン侵攻、結果的に存在しなかった大量破壊兵器を理由としたイラン侵攻、そしてその後のイスラム国との戦い、そうした一連の流れの中で国家による戦争行為とテロ行為との区別がなくなっている。言い換えれば、国家とテロ組織との区別がつかなくなってしまっている。
先日カタールのアルジャジーラのニュースの中だったと思うが、ガザ地区に住む住民が、イスラエル軍は、24時間いつでもガザ地区を空爆できると語っている。
イスラエルは、パレスチナを国家として認めず、ヨルダン川西岸地区で入植地を拡大させる一方で、ガザ地区に対して国家としての軍事力を行使し続けている。
そうした中、トランプ大統領は、大統領選を控え、弾劾裁判中であることもあり、イスラエルとパレスチナに対して新たな中東和平提案を行った。しかしその内容は、パレスチナ国家を認める代わりにヨルダン川西岸地区の入植地をイスラエル領にすること、エルサレムを不分割のイスラエルの首都とすることなどとしており、パレスチナのアッバス議長は、エルサレムは売り物ではないと和平案を一蹴している。

2)日産事件でのゴーン被告のレバノンへの不法入国事件

私には、この事件は明らかに不可解としか思えない。
実際、どこまでの国家間、個人間の取引があったかは別にして、何らかの暗黙の了解が、日本、フランス、ゴーン被告の間であったとしか思えない。
かつて後に韓国大統領となった金大中氏が都内ホテルから韓国に拉致された事件があったが、あの事件も日本政府は、その事実を知っていた上で見逃し、容認していたといわれている。
今回の事件も元グリーンベレーが関与していたなどとされているが、私は、日本政府は黙認していたのではないかと思う。
黙認の最大の理由は、日本の司法、司法行政に対する国際的な批判の回避だと思う。未決拘留中での家族、弁護士含めた面会の制限、弁護士の立ち会わない取り調べ、自白の強要、未決拘留中の代用監獄制度などの不当性、又、今回の事件とは直接関係はないが、先進国の中では、一部のアメリカの州以外で廃止されている死刑制度などに対する国際的な批判である。
そして、もう一つは、そもそも今回のゴーン被告が日産から排除された日産とルノーとの間の主導権争い、それに関しては、私は間違いなく、日産という企業と、日本政府との連携があったと思う。
世界中で明らかになってきている資本主義社会の行き詰まり、限られたパイの奪い合いの中での権力闘争の一環に過ぎないと思っている。
そうした国際的な批判、裏事情などを総合的に勘案した上での判断ではなかったかと思う。裁判が継続された場合、長期化することは避けられず、森友加計学園問題、桜の会問題で明らかであるように、国内においてすら説明責任能力の欠如した現政権が国際社会の批判の中で、上記に挙げたゴーン被告や日本の司法制度に纏わる様々な問題に対して、世界が見守る裁判上でまともな反論ができるわけがない。
私には、アメリカのケツについてゆくしか能力のない現政権にとってゴーン被告を逃亡犯にした上で、すべての責任をゴーン被告に押し付けるのが得策と判断したとしか思えない。

3)郵政事業3社の社長の交代問題

高齢者に対する詐欺まがいの契約の押し付け、不法収益の責任を取って引責辞任した郵政事業3社の社長は、すべて民間出身者であったが、新たに任命された社長はすべて官僚出身である。
郵政民営化は、かつての小泉内閣が自民党をぶっ潰すと豪語し、全国の選挙区に刺客を送り込んだ劇場型選挙によって獲得した議席をもってなされたが、それは、その前のレーガン大統領、サッチャー首相、中曽根首相らが唱えた新自由主義路線が布石になっていたと思う。
金融の自由化などを柱とする政府の民間への関与の排除、規制緩和の流れの中で行われたものであったが、結果的に急速な正規雇用から派遣型雇用変更の流れを招き、非正規雇用の増大する中での派遣切り、それは、経済至上主義社会の確立を意味していたし、格差社会への急速な転換でもあったと思う。
そうした結果としての今回の官僚出身社長への交代劇は、結局、新自由主義路線、経済至上主義社会の行き詰まり以外の何者ではないし、高齢者含めた社会的弱者に対する国家的詐欺、弱肉強食社会に他ならない。

国家の存在意義が、国民の幸福追求のための手段であるとするならば、現在の日本社会、世界の流れは誤りである。

森友加計学園、海外に派遣した自衛隊の日報問題、桜の会問題などで明らかになった公文書の改ざん、隠匿、国会における虚偽答弁は、民主主義国家の否定であると同時に、もはや文字を発明し、文字によって歴史を残そうとした文明社会の否定以外の何者ではない。
近代文明の特徴である科学主義という点においても、科研によるスタップ細胞事件で論文の盗用、捏造が行われ自殺者まで出している。文書の正当性のない科学は、社会に何らの意味をもたらさない。
誰もが不信感を持つ社会、基本的な理念、信念のないうわべだけの薄っぺらい社会は、もはや国家の体をなしてはいない。

自然との関連でいえば、現在、世界中で問題となっている新型コロナウイルスが、ここまで問題となった理由は、グローバル化のために短時間で、数多くの人が世界中を行き来してウイルスを拡散させ、元来、風土病として扱われた疾患が、人間の責任によって世界的な問題を引き起こすようになったに過ぎない。裏返せば、コロナウイルスや自然に何ら責任はない。
そして最も重要な問題は、人間による環境破壊が、種の多様性を喪失させてきていることである。多くの生物は、行き場をなくしており、特に、宿主に寄生することでしか生きられないウイルスにとっては、致命的である。
今回問題となっているコロナウイルスも本来、人間以外の動物に寄生していたウイルスである。人間によって引き起こされている生物の多様性の喪失の中で、結果的に、彼らは、生き残るために仕方なく人間への寄生を、開始しているに過ぎない。言い換えれば、ウイルスという自然によるヒトという種の自然淘汰に他ならない。人間による自然破壊が加速度を増す中で、ウイルスという自然もその変異のスピードを上げるのも必然である。
多くの方から怒られることを覚悟して言えば、そうした中での感染治療対策、ワクチンなどの感染予防対策は、根本的には無意味なことであり、何らの解決をもたらすものではない。
何故ならば、ウイルスによるヒトへの侵害は、自然破壊し続ける人間を、淘汰しようとする試み、ウイルスが生き残ろうとする試みは、自然現象として正当なものであり、言い換えれば、人間が行っている感染治療、予防対策は、自然の一部である人間が、決して消すことのできない自らの影を一生懸命消そうとしている影踏みに他ならないからである。
私たちは、オーストラリアの森林火災や、東日本大震災、西日本豪雨災害と、今回のコロナウイルスを全く別なものと考えているが、自然を破壊する人間に対する自然による自然淘汰という点においては、まったく同じ現象である。

カジノ含むIRで問題となっている収賄罪、おバカな河合夫婦による公職選挙法事件、どちらも経済至上主義社会がもたらした申し子である。
特に、おバカな河合夫婦による公職選挙法事件では、公職選挙法の上限を超えた2倍の報酬の支払い、すなわち彼らが言う河合ルールに則た報酬の支払い、又、先日明らかにされた自民党本部からの1億5000万円もの選挙前の振り込み、これは他の一般の自民党議員の10倍もの選挙資金であるが、その原資の多くは、国民が負担している政党助成金、すなわち我々の税金である。
1億5000万円もの振り込みに関して、おバカな河合杏里氏は、国会内のぶら下がり記者取材に対して、受け取ったが違法ではないと語った。
私は、常々、おバカな安倍首相含めた与野党国会議員が、国会答弁の中でも、自慢げに違法ではないという言い方をする時、いつも思うのだが、そもそも彼ら国会議員が自慢げに言えるものなのかということである。
違法とは、法律に反することであり、法律とは狭義の意味では、国会で定立された法のことを指す。それは、誰が決めるのかと考えたとき、国会を構成している彼ら国会議員自らが決めたことである。間接的には国民が決めたことであるが、直接決めたのは彼ら自身なのだ。
間接的にしか関与していない国民が違法ではないと言うのならまだしも、自らが決めた国会議員が違法ではないという言い訳は通らない。彼らにとって、守って当たり前のことであり、疑われることすら許されないということが理解できていない大バカ者なのである。
そして疑われるだけではまだしも、検察に家宅捜索までされながら、おバカな河合夫婦は、関係者が迷惑でも何でもないと言っているにもかかわらず、捜査に支障が出るとして説明責任を放棄している。国会議員の最大の使命は、国民の権利、義務に関わる法律を作ることである。彼らが、違法でないという言い訳をしたいのであれば、法を作る側から、守る側に代わるべきである。すなわち、議員辞職するのが道理である。違法でないという言い訳をするおバカな彼らなどに立法能力は微塵のかけらもない。
ましてや、おバカな河合夫婦が問題となっている事件は、公職選挙法に関わる事件である。国会議員という国民の代表の正当性に関わる事件であり、違法性を超え、日本国憲法にも反している。

ロシアのプーチン大統領は、国民との直接対話の中で、強い大統領を中心とした政治が必要で、議会中心の政治手法は正しいとは思わないと述べていた。
その理由として挙げたのが、ロシアが、多民族国家であること。欧米の現在の政治の現状、すなわち、アメリカでいえば、民主党、共和党の相いれないまでになった対立、イギリスでいえば、EUをめぐる離脱賛成、反対での長期にわたる決めきれない政治空白、それらを例に挙げて述べている。

先日発表された世界終末時計は、20秒早まり、100秒になった。これは、1947年に刻まれだして最も短くなったことを意味している。
短くなった理由として、二つ挙げており、一つは、アメリカによる中距離核戦略撤廃条約からの離脱、イラン、北朝鮮の核兵器開発などによる核兵器の脅威の増大、そしてもう一つが、地球温暖化による自然破壊である。
 
近代がもたらした法の支配、市場経済、科学の発展、そのバランスは崩れ、市場経済の行き着いた先の経済至上主義が猛威を振るい、法の支配からお金による支配へ、人間にとって有益な科学の発展から核兵器、化学兵器、細菌兵器を生み出してしまっている。

そして最終的に人間の生存基盤たる自然破壊をもたらし、破壊された自然の中で、生き残った自然をも、観光資源として、売り出している。その結果として世界中から観光客が押し寄せ、その交通手段としての航空機により、地球温暖化に拍車をかけ、観光地として、数少ない自然も観光客の土足によって踏みにじられてゆく。
私たちは、自然破壊することによって、何とか生き残っている貴重な大自然を、経済至上主義社会の中で、その経済的価値を高めさせる中で、結果的には破壊するという自然破壊の悪循環を繰り返している。

国家の意思の決定方法に関して考えた時、先のプーチンの話は、ある意味で当たっていると思える。
確かに、ユーゴスラビア内戦、リビア内戦、アフガニスタン内戦、イエメン内線、シリア内戦等々、歴史を振り返った時、その中身がどうであれ、非民主的であったとしても、独裁者であったとしても、恐怖政治の中でも、国家としてある意味でまとまっていたかもしれない。

我が国においても、与野党が拮抗する中での、決めれない政治からの脱却の中で、現在の安倍政権が生まれたとも思える。おバカな安倍さんがよく言う決めれる政治である。
国際社会においても、最終的に発言力が大きいのは、軍事力のある軍事大国、経済力のある経済大国である。

力のあるものによる政治、しかし、それでは単なる歴史の繰り返しに過ぎない。

歴史を振り返ってみればいい。
現在の世界の覇権国家であるアメリカ自身も、元をたどればイギリスとの独立戦争を経て独立国家となったに過ぎない。その後、ヨーロッパ諸国、アメリカが、世界中に植民地を作り、我が国日本もそれに続いて、韓国、満州国を植民地化していった。そうした後に、第二次世界大戦後、植民地となっていた東南アジア諸国、アフリカ諸国は、独立を果たし、ソ連も冷戦の終結とともに崩壊し、多くの独立国家が作られた。

現在の世界は、いくつかの強国が、世界中の人々を支配していた時代を経てたどり着いた世界である。今や、多数の独立国家が世界を構成している。歴史を繰り返さないようにするため国際連合や、EUなどを作り、共存可能な社会を図ってきた。
しかし、経済至上主義の中で、空気や水などの自然や、石油などの天然資源も限界があり、残されたパイを巡って、人類にとって最終段階に入ってきている。

現状の世界は、歴史の経緯を忘れてしまい、各国、各民族、各宗派が、それぞれの主義主張を繰り返し、自国、自民族、自宗教中心主義へと向かっている。
自国、自民族、自宗教中心主義へ向かっているその要因は、何度も話しているが、経済至上主義による格差社会の中で、富ある者が、権力持つ者が、パイが小さくなっている中で、その富の拡大、維持を図ろうとしていることに尽きる。

私たちは、歴史を繰り返してはならない。
もし強い大統領が、強い国家が、すべての権力を持って、政治を行えば、うまくいっているのであれば、現在のような多くの独立国家が形成されることはなかったであろう。
今の私たちに必要なものは、全世界を束ねる覇権国家ではない。
今の私たちに必要なものは、世界を構成する一つ一つの国家自らが、全世界のために存在する国家となることである。
全体を個にするのではなく、個の中に全体を見出さなければならない。
個の確立以外、その術はない。

我々、人類の生存にとって必要なのは、覇権国家などではなく、他国を思いやれる国家である。
他国を思いやれる国家にとって必要なのは、経済至上主義国家ではなく、自然との共存を図れる、法の支配に基づいた民主主義的な国家である。
そしてそのような国家にとって必要なものは、個の中に全体を見ることのできる、自己を犠牲にしてでも他者を思いやることのできる人間である。

国家とは何のために存在するのか。
国家とは、世界中のすべての国々を、他国を思いやることができる国家へと自国を導き、すべての国民を他者を思いやることができる国民に導くための手段、媒体に過ぎない。

しかし、その媒体なくして、世界平和、人類の生存はあり得ない。

      2020年1月30日  文責  玉田 憲勲

現代社会は、瞳を閉じてしまっている~見えない、見ようとしない社会

アフガニスタンで、中村医師が銃弾に打たれて亡くなられた。
アフガニスタンといいう国は、帝国の墓場とも言われてきたように、その歴史は侵略との闘いの歴史である。古くは、ムガール帝国、大英帝国、モンゴル帝国、そして、近くでは、1978年、日米と中国との接近の中でなされた旧ソ連によるアフガニスタン侵攻、そして2001年9.11事件をきっかけとしてなされたアメリカによるアフガニスタン侵攻、そしてNATOとアフガニスタンとの闘いは、今現在も続いている。
そのような地で、中村医師は亡くなられた。

瞳は、心の窓といわれている。
私は、現代社会は、瞳が曇って見えない、心を閉ざした社会であると思う。瞳が曇り、心を閉ざしている原因は、私たち自身に刷り込まれた経済至上主義である。

私たち人間は、自然破壊をし続ける中で、数多くの種を絶滅させ、生物は、その多様性を失っている。そして私たち人間自身も、お互いを傷つけあい、そうした中で、ヒトという種内での多様性、又、文化の多様性をも失ってきている。

そして、その原因は、私たち自身にある。私たちは、心を閉ざし、瞳を曇らせ、その原因が見えていないか、たとえ見えていたとしても見えないふりをしている。

過去を、振り返ってみれば、第二次世界大戦前の、日本やドイツの国民の多くはある意味で情報が限られていたかもしれないし、それが原因で判断を誤ったのかもしれない。
しかし、情報があれば、より正しい判断、物事を見ることができるのかと考えたとき、私はそうではないと思う。現代の情報化時代、すべてが見えていると私たちは、錯覚をしている。
あの時代とは違うと、過信している。
私たち自身の瞳が濁り、心が閉ざされた中での情報は何の意味をなさない。

国内を見れば、先の桜を見る会問題、森友、加計学園問題、国外を見れば、ウイグル、チベット、ロヒンギャでの迫害、北朝鮮、香港、シリアなどをめぐる問題、様々な問題が存在している。それらの情報を、日本中で、多くの国民が、そして世界中でも多くの人々が、共有しており、その瞳にそれらが映っているはずであるが、心が閉ざされている限り何の意味もない。
如何に多くの情報があったとしても、その情報の氾濫の中で、自分自身が、自分の回り、最終的には自分自身しか見えなくなってしまっている現代社会において、人類は同じ過ちを必ず繰り返す。第二次世界大戦と同じ結果を招くだけである。

そうした中で、最も重要な問題は、人類が自然を破壊し地球環境を再生不能状態にしていることである。私たちは、将来の国民に対して、心を閉ざしてしまっている。

その主たる原因たる経済至上主義の中で、わが国日本は、経済発展し、一億総中流社会を作ってきたが、国内、国外でのパイは小さくなり多くの国民は、中流から脱落してその格差は広がってきている。他者を蹴落とし、生き残ろうとする社会、しかし、どこまで行っても、そこにいるのは、所詮、企業の駒でしかない存在、記号化された人間でしかない。

このことは、わが国に限ったことではない、イギリス総選挙が明らかにした問題、保守党が勢力を伸ばし過半数を獲得、一方で労働党が大幅に議席数を減らした。年明け早々にもEUからの独立問題が現実化してゆくが、北アイルランド問題、スコットランド独立党の躍進など、新たな問題を抱えている。この問題の特徴は、国内と、国外に対する一国中心主義に共通する問題である。すなわち国内的には自立を阻止し、国際的には自立を勝ち取ろうとする二面性である。
この二面性はトランプ大統領の一国中心主義以降、世界中で顕著になってきている問題であり、イギリスでも顕著になってきただけのことだ。中国での香港、ウイグル、チベットに対する弾圧、自立の阻止と他国に対する経済進出、アフリカ、アジア地域での自立に対する干渉という相対する二面性も同様な問題である。
インドでのカシミール問題、スペインでのカタルーニャ問題も同様な問題である。

経済至上主義がグローバル化する中で、一部の経済的勝者が一時的な生き残りをかけた戦いの結果、多くの国民は意図的に分断化され、迫害、弾圧されてしまっている。しかし、最終的にはっきりしていることは、結果として何も、そして誰も残らないということだ。私たちは間違えている。
私たちを待ち受けているもの、それは、勝者もいない世界である。

勝者もいない世界、言い換えれば、それは、私たち人類のいない世界である。
コップ25が閉幕したが世界がまとまることはなかった。
フィンランド、チェコは、原子力をクリーンなエネルギーに含める決議案に入らなかった。

この年末年始も世界中で多くの人々が海外旅行を計画しており、わが国においても過去最高の72万以上の人々が海外旅行すると思われる。移動するための航空機含めて、それらによって温室効果ガスは増大し、多くの小さな海洋諸島国はじめとする経済的弱者の人たちにそのしわ寄せは集中する。気候アパルトヘイト問題である。

経済至上主義がグローバル化する中で、一億中流社会が崩壊し、経済的な格差社会が生じているが、このことは、気候アパルトヘイトでも同様である。我が国においても阪神淡路大震災、東日本大震災、西日本豪雨災害など一部地域の自然災害、原発災害と考えているが、世界中のすべての地域でいつ起こってもおかしくない現実的な問題である。

コップ25では、気候アパルトヘイトによって迫害されている地域、諸国と経済大国すなわち経済至上主義に洗脳された迫害者との溝は埋まらなかった。

しかし、歴史は証明するであろう。今だもって南アフリカのアパルトヘイト問題は解決していないが、それらが過ちであったように、中流社会が崩壊したように、多くの世界中の人々が、環境破壊によって、その財産、生活、命を失った時、自らのこととして気づくのであろう。しかしその時では遅いのだ。

先日の国内のニュースで、男性国家公務員の育児休暇を一か月以上取ることが議論され、法制化の方向で検討されているようなことが報道されていたが、一方で、この年末年始も休暇を取ることすらままならないコンビニはじめとする中小零細企業の多数の労働者が存在している。

桜を見る会、森友加計学園、カジノを含むIR、東京オリンピック、センター試験などすべての問題はすべて共通している。

最終的な丁寧な議論はなされず、一部の者たちだけによる一部の者たちのためになされている忖度政治に他ならない。

忖度された結果が押し通されるのであれば、如何なる知識を得たり、如何なる学問をする必要性は何一つない。
今回のセンター試験における論文試験の導入問題は、一人一人の受験者の思考を問うものとしていたが、現代社会の中で、そもそも思考能力を問う必要性は存在していない。忖度政治の中では、思考する意味はないのだから

現代社会は、原因と、結果、そしてその過程がつながっていない社会である。
経済至上主義社会の中では、貨幣含めた経済的価値がすべてであり、経済的勝者にとっては、説明責任がいらない世界になってしまっている。一方で、経済的弱者は、その発言権を奪われている。コップ25での環境問題や国連総会での核兵器廃止問題で明らかであるように

説明責任のいらない社会においては、論理的思考や、知識など何の意味もなさない。
そしてその行くつく先は、経済的弱者はもとより、経済的勝者も生き残ることのできない世界である。

私たちは決して瞳を閉じてはならない。
決して心の窓を閉ざしてはならない。

  2019年12月30日  文責  玉田憲勲

政治とは治者と被治者の同一性を図ることである~おバカな国民から脱却せよ!

先日、ローマ教皇フランシスコ法王が来日された 
訪問した被爆地、広島、長崎で、彼は、核抑止力の否定、世界平和にとって核兵器は抑止力になり得ず、それを可能とするのは対話、相互信頼のみであると述べた。
ある識者によれば、それはキューバ危機の際、当時の教皇が述べた言葉でもあった。
       
その上で、彼が強調した核兵器保有自体の否定、核兵器禁止条約の締結は、その当然の帰結である

そうした中で、11月18日千葉で開催された世界最大の経済的利益のみを追求する武器見本市、それは、ローマ法王が世界唯一の被爆国である日本に求めた世界平和の使命の否定以外の何物でもない。
歴史を振り返れば、第二次世界大戦後に起きた朝鮮戦争、ベトナム戦争、ソ連によるアフガニスタン侵略、イランイラク戦争、湾岸戦争、カンボジア内戦、ソマリア内戦、中東戦争、イエメン内戦、シリア内戦などにおける米ソを中心とした武器供与の事実。
そして冷戦以降も、先進国は、安全保障に基づく抑止力を建前として、経済至上主義に起因する人類にとって何の意味も持たない武器輸出合戦を繰り広げている。

そうした中,この期に及んで、それらに参戦しようとする我が国日本国政府、それを許す国会、日本国民のその稚拙さ、無知さ、想像力の欠如、思考停止したそのおバカさ加減は、それこそ世界一の笑いものであり、恥以外の何物ではない。。

国内に目を向ければ、安倍総理主催の桜を見る会への地元有権者、反社会的勢力らに対する優先的招待、公金支出、そして河合杏里参議院国会議員の参議院選におけるウグイス嬢や地方議員買収疑惑、それらの直接的な金銭、利益の提供は、経済至上主義に洗脳され思考停止した無知な人間たちによる説明責任の否定、すなわち民主制の否定に他ならない。

そして、桜を見る会招待客名簿のシュレッダーによる廃棄処分(野党による国会質問と同時)は、森友加計学園問題における公文書の改ざん廃棄、海外派遣自衛隊の日報の廃棄と同様な事実である。
先日の身の丈発言で中止された英語の大学入学共通テストの民間機関導入問題に関してもその導入を決めた審議過程すら彼らは、情報開示拒否を貫いている。
これらはすべて説明責任の否定、すなわち民主制の否定であると同時に、明らかな国家的、組織的犯罪以外の何物ではない。

ここであえて述べておくが、政府による国会、国民への説明責任の否定が、何故、民主制の否定につながるかということであるが、何度も述べているように民主制とは、少数者が多数になりうる可能性である。そのために求められることは話し合い、討論であり、そしてその前提は多数者による説明責任である。説明責任の放棄されたところに民主制は存在しえず、そこにあるのは多数者による絶対的な専制政治だけである。例えば、中国のウイグル自治区におけるウイグル人に対する強制収容所での100万人以上にも及ぶ不当な逮捕、拘留、拷問、思想教育、洗脳は、ナチスによるユダヤ人大量虐殺と同様、説明責任なき専制政治、そして、その結果としての末路である。

政治問題化されているそれらの問題は予算の支出を伴うものでもある。言い換えれば、国民の税金の支出に関わる問題なのだ。そうした点で、彼らの行為は日本国憲法が保障する財政民主主義にも明らかに反している。

オーストラリアで収拾がつかなくなっている大規模森林火災、インドの大都市を覆う大気汚染、それらによる二酸化炭素を中心とする温室効果ガスの増加、結果としての地球温暖化は、イタリアベネチア、東南アジア諸国における海面上昇による浸水被害を引き起こしている。

中国で需要が高まっている飼い主が希望する同一遺伝子を持つクローン犬、ついにはサルのクローンまで人間は作り出してしまっている。ある研究者は、遺伝子操作を自然界における突然変異と同一視しているが、私は間違っていると思う。何故なら、そこに自然時間は存在していないのだから。

先日BBCニュースの中でだったと思うが、グローバル化の中、長距離を結ぶ旅客機の開発のため、長時間飛行に合わせて人間の体内リズムの調整を行うような報道がなされていた。我が国においても夜行列車が一部を除いて廃止され、徐々に自然時間は私たちの回りから消えてなくなり、作られた時間へと変わってしまっている。

今、世界では、国家、民族、宗教を超えて紛争が生じている。

アメリカがイスラエルによるヨルダン川西岸地区での入植活動を容認、又エルサレムへの大使館移転も行った。これは多数者、権力者による力による弾圧に他ならない。

イランでは政府による石油価格引き上げに対して国民は怒り、各地で集会、デモを行なっている。それに対して政府はインターネットを遮断し、死者まで出してしまっている。イラクでも反政府集会、デモが各地で起き多くの死傷者を出している。又、レバノン、ボリビア、ベネズエラなどでも反政府運動が沸き上がっている。香港においても、民主化を求めるデモ、集会が起きており、先日行われた香港区議会議員選挙において、民主派議員が三分の二にも及ぶ議席を獲得した。

これらは経済至上主義の下で生じた経済格差(1989年ベルリンの壁崩壊、2011年アラブの春もそうであったように)を原因としている。過去のブログでも述べたことであるが、現代の安全保障制度の実体は、経済的強者にとっての自らが獲得した価値に対する脅威の不存在に成り下がっている。言い換えれば、現代の安全保障制度は、経済的強者による経済的弱者への弾圧以外の何物ではない。

現在、世界中で起きている紛争は、経済格差が根底に横たわった国家や宗教、民族を超えた紛争である。そうした中で、国家を前提とした経済的強者のための集団的安全保障制度など何の意味もなさないばかりか、逆に、経済的格差に起因する国家、民族、宗教を超えた横断的な闘いを分断させる役割すら担っている。

世界中のすべての人の自己実現、自己統治を図るために必要なこと、それは政治が、治者と被治者との同一性を図るためになされること。そして人間が自然との同一性を図ること、それ以外の選択肢はあり得ない。

そして現在の混とんとした社会を引き起こしている最大の原因は、一人一人の国民に真の想像力がないからに他ならない。要するに、一人一人の国民がおバカなのだ。そして一人一人の国民をおバカにしている、その最大の要因が、おバカな政治屋、企業家、官僚、学者、研究者などの専門家にある。おバカな彼らが、国民を騙し、錯覚に陥らせているからに他ならない。現代社会の中で、私たちは幼小児時期からコマーシャルなどの情報の洪水を浴びて、欲望を喚起させられ、高等教育の中で経済至上主義的思考を叩き込まれ、拡大再生産を使命とする経済至上主義社会のみが正義であると刷り込まれる。その結果、経済至上主義から離脱すれば大変なことになるという恐怖心が国民に植え付けられ、おバカになった国民が、子供たちをおバカにする、おバカな国民の拡大再生産をし続けている。
しかし、実際はどうであろう、現在世界各地で年中実際に起こっている通信が途絶え、電気や水道などのライフラインも寸断された自然災害の中で、人々は助け合い、そして世界各地の戦場の焼け野原、瓦礫の中でも人間は頑張って生き延びてきている。
現代社会において、国家、民族、宗教それぞれのカテゴリーの中での問題解決は、最早、絶対にあり得ない。蓋し、その根源は、経済至上主義に起因した経済格差なのだから
そして科学の発達や、如何なる知識、如何なる政党などの組織をもってしても、経済格差から派生する諸問題を何一つ解決することは、決して不可能である。
唯一解決することができる術、それは、治者と被治者の同一性、人間と自然との同一性の理念であり、信念である。
最後にもう一度、言っておこう。
私たちは、おバカな国民から脱却せねばならない。
現在開かれているおバカな稚拙で、幼稚なくだらない答弁を繰り返している国会を見てもわかるであろう。
私たちは、これ以上、おバカな総理大臣や、おバカな国会議員、おバカな官僚たちを選んではならないし、許してはならない。
私たちに残された時間は少ないのだから

     2019年11月29日  文責  玉田 憲勲

君は、記号化を止めないのか

戦争、テロ、震災、難民、香港やレバノンなどでの民主化運動、ミャンマー、ウイグル、チベット、スーダン、シリア、アフガニスタン等々での記号化された人たち

先日、イギリスでトラックのコンテナの中から39人のベトナム人を中心とする移民の遺体が発見された。彼らを運んだ者たちも、そして彼らによって運ばれていた移民たち自身も貨幣によって記号化された人間に他ならない。

我が国に目を転じれば、この度の相次ぐ台風によって亡くなり、負傷し、家屋を失った人々、農作物や家畜などの生活の糧を失った多くの人々も記号化されてしまっている。

そうした中で、二人の大臣の二つの発言が問題となっている。
一つは、萩生田文科省大臣の「身の丈」発言である。それは、2020年から予定されている大学入学共通テストにおける英語の民間テストの経済格差による不平等に関する問題である。確かに経済的豊かな受験生は、試験費用のかかる民間テストの模擬試験を何度も受けられることが可能であろうし、受験地までの交通費用も経済的に恵まれない受験生にとっては不利になることが予測される。

もう一つは、河野防衛省大臣が、講演の中で行った雨男発言である。自分自身が雨男であるとした上で、今回の三つの台風による雨を引っかけたのである。

彼らは、経済格差によって苦しむ人たちや、今回の豪雨災害そのものはもちろん、それらによって被災された方々を記号化してしまっている。
そうした彼らに、現実に存在している経済的弱者や、被災者一人一人の苦しみが届くことは決してあり得ない。

貨幣とは、人々が物の交換性を高めるために、人々の生活を利するために作り出されたものである。それは、所詮単なる手段に他ならない。
現在、世界の億万長者の数に関して言えば、中国がアメリカを抜いて世界一に躍り出ており、日本はちなみにアメリカに次ぐ3番目に多い。又、我が国の企業の内部留保について言えば、500兆円に達しようとしている。
一方で、貧困層は増え続けており、人々の経済格差の拡大は、我が国において、そして世界中で進行している。

AI社会、それは人が対象を記号化し、そして自らをも記号化された社会にほかならず、それ自体が何の解決をもたらすものではない。
犯罪防止、抑止のための顔認証システムは、言論、出版、表現などの手段としての自由権を侵害し、人間にとっての核心である内心の自由をも侵害する。
そうした中で、現実的に日本国内では、名古屋での芸術祭での出展問題、又、映画祭での出品問題が生じており、海外でも香港においてデモ参加者へのマスク着用の禁止などの問題が生じている。

防災対策、自然災害予知、災害復旧廃棄物選別、各分野で最先端技術は進歩していると私たちは錯覚しているが、それらは、あくまでも人間が生存できる自然環境、地球環境を前提としている。その前提となる人間にとって検証困難なカオスな自然環境、地球環境に関しては、目に蓋をしたまま決して見ようとはしない。
それはまるで液状化現象が起きている土地の上に、液状化する現実には目をつむったままで、科学技術を駆使して一生懸命家を築こうとしているに等しい。

時は金なりという言葉が端的に物語っているが、現代社会における時間は、作られた時間である。効率よく利益を上げ、早く開発したものが高利益を上げる一方で、時間を買われたものたちは低賃金で、残業を強いられる。そしてそこで言う時間とは、所詮すべて記号化された時間に過ぎない。増え続ける派遣社員も記号化された人間に過ぎない
そうした中でも記号化し得ない自然時間は決して変わることなく、更なる記号化を推し進める人間社会を横目に見ながら、時を刻み続けている

AIによってもカオスなもの、カオスな現象への対応は困難であり、AIはどこまでいっても所詮、単なる手段にすぎない

大自然、人間を取り巻く環境はもとより人間含めた全ての生物もカオスな存在である。言語含めた文化、民族、宗教それらカオスなものに関わる問題を現代社会の経済至上主義、AI化という記号化の下で、解決することは不可能である。

私たちは何をすべきなのか
最も必要なことは、一人一人の人間、一個一個の生物、一つ一つの現象を自己投影し、自己のものとすることであり、それは一人一人の真の理性化である。

それらの前提は、一人一人の人間、一個一個の生物が、一つ一つの現象が記号化されないことであり、他者を記号化せず、自らも記号化されることのない生き方をすることである。

アメリカを中心とする国際社会は、今回のイスラム国指導者バグダディの殺害によってイスラム国の弱体化が進み、テロ抑止につながると合理的解釈している。

しかし、テロとは何なのか。 
個人、団体による自らの主義主張を通すための暴力的破壊行為であるとされるが、テロとは、所詮、カオスな行為である。民族、宗教、経済格差、国家体制などの違いなどをその要因として生じるカオスな行為である。

21世紀に入ってブッシュ大統領はテロとの戦いと称してアフガニスタン侵攻、イラク戦争に突入した。

今年に入ってからも世界中でいくつもの大きな収拾のつかない山火事が発生し、世界中でいくつのも洪水が発生している。我が国においても、今回の台風被害を考えればわかるが、ハザードマップの限界、ダムを含めた防災システムの限界を明らかにしている。
地震予知が不可能であるとしたように、アメリカの研究機関もパリ協定の基準が守られたとしても異常気象による被害人口は当初の予想を超えるとしているが、私は超えるというレベルのものではないと考えている。

人間は、すべてのものを、すべての事象を記号化してきたし、現在もその記号化の波は止まることをしらない。

カオスな世界において、記号化することに何の意味もない。
カオスな世界を前にして、記号化は無力である。

アメリカ、ロシア、中国、EU、日本など、そのうちのどの国が政治的、経済的、軍事的に超大国になろうと、記号化された社会であり続ける限り、現在、将来の世界中で生じるカオスな事象に対する答えを出すことは不可能である。

我が国においても、自民党が絶対多数を取ろうが、野党が多数を取ろうが、記号化された社会を変えない限り、カオスな事象に対する答えを出すことはあり得ない。

記号化された社会の末路は明確である。
カオスな事象に、間違いなく記号化された社会は、いとも簡単に飲み込まれてしまうであろう。

最後に、もう一度尋ねてみよう。
君は、記号化を止めないのか。

    
     2019年10月30日  文責  世界のたま
   

一人の少女は、学校より環境を選んだ~大人たちは、環境より経済を選んだ

毎日のように日本国内、国際社会で様々な出来事が起こっているが、何一つ心に残るものはない。そこにあるのは、空虚で、稚拙な事実だけである。

そんなくだらない出来事が連日報道される中、想像力を失った専門家と称する人々が、そして自分たちのことしか考えることのできない経営者たちが、未来を語る能力のない政治屋、元政治屋たちが、ネット、テレビなどを通じて稚拙な議論(彼ら自身は論理的思考に基づいた議論だと確信している)を展開している。

そうした中で、一人の少女が、想像力を失った大人たちによって与えられた学校へ行くことよりもっと大切なものがあると立ち上がった。そしてその輪は、瞬く間に、160か国以上の国々に広がり、立ち上がった少女はアメリカに渡った。そして、トランプ大統領に会って話す暇があるのなら環境破壊を食い止めるための集会に参加すると、トランプ大統領に会う意味はないと面会を拒絶した。

一方、どこかのおバカな総理大臣は、尻尾を振って、足元にすり寄り、能天気に御馳走を食べ、ゴルフをしている。

一人の少女と、おバカな総理大臣を筆頭とする上記にあげた多くの政治屋や、経営者、専門家たちと何が違うのか。

私は、近代以降、人間が他の生物と違って神から与えられた理性に基づいて行動するとしてきたその理性の変質にあると考えている。人間は理性に基づき、市場経済を発展させ資本主義社会を形成し、法による統治、立憲民主主義国家を形成してきた。

それは、脳における大脳皮質、特に前頭葉の発達に起因している。人間は、怒りや、自己を守る攻撃的防御などの本来生物が持つ脳幹部から幼小児期にセロトニン神経を伸ばし、前頭葉を含む大脳皮質を発達させている。それによって、前頭葉機能である合理的思考、短期記憶、空間認識機能、そして生物本来が持つ自己防御機能である怒りなどの本能のコントロールも行ってきた。

前頭葉機能の発達によって、人間は上記にあげた市場経済に基づく豊かな生活、医学の発達による疾病から身を守ることができるようになってきた。そして現代社会においても世界中でより一層の経済的、医学的専門性を追求し続けており、幼少期から英才教育を施そうとしている。我が国における小学校での英語教育の必須化などはその最たるものであろう。
私が述べる現代社会における理性の変質とは何かということであるが、その前に、本来、理性そのものがそもそも存在しているのかという問題がある。

かつてフロイトは、人間というものは、いかに理性的に行動しているとしても所詮は性衝動の抑制に起因する無意識によってコントロールされており、確立した自我などというものは存在し得ず、理性とは幻覚にすぎないと言っているが、私もある意味で当たっていると考えている。即ち、自己防御的行動や、子孫を残そうとする性衝動などは、本来、全ての生物が持っている本能的な機能である。脳幹部機能と言ってよいであろう。それは、様々な生物、人によりその強弱はあったとしても、全ての生物において無意識的に、反射的に表れるものだと思う。

しかし、私は、それがすべてかと言うと、そうではないと考える。それを調整する能力こそが、前頭葉機能であると考えている。

現代社会において、一般的に理性と言われているものは前頭葉機能として捉えられているのではないかと思う。私は、そうした考え方が間違っていると思う。

私は本来の理性とは、脳幹部、そして脳幹部から伸びたセロトニン神経を含めた大脳皮質全体が理性であると考える。変質した現代社会の理性は、前頭葉機能に限局しており、現代人は先に述べた様に、科学的合理的思考を鍛えること、そうした思考方法に基づく経済学的、政治学的、医学的専門性の発展こそが、理性的な社会形成に役立つものだと錯覚している。

即ち、現代社会における理性においては、本能的機能との関係性が欠落している。いわゆる頭でっかちの状態に他ならない。その結果現代人における理性は、非常にもろくなっている。何故ならば、本能的機能を有する脳幹部とのつながりが弱く、一見すると科学的、合理的な思考に基づいた行動であったとしても、本能的な生きる力と結びついていないがゆえに壊れやすい。結果として、現代人は、理性に基づいた行動をしているつもりでも世界中で、戦争や、テロ行為を繰り返し、自然災害を引き起こし、多くの人の命が失われている。そして全ての人類を破滅に追いやっている。

ところで、本能的な脳幹部は、本来深く自然と結びついている。それが過去のブログでも述べているような自然との共通感覚である。生物の生存は自然を前提としており、共通感覚無しに生物は、自然の中で生き抜くことは困難である。

現代人の変質した理性は、上記に述べた様に自然と密接につながっている本能的機能と乖離してしまっており、結果として自然との共通感覚も失ってしまっている。それが、今回の一人の少女が立ち上がざる負えなかった理由だと思う。

自然を破壊し続け、多種多様な生物、人類自らの生存基盤を破壊続ける現代社会

理性的とされる現代社会の大人たちへの断末魔の叫びに他ならない。
私たち人間は気付かなければならない。
現代人が理性としているものは本来の理性ではなく、変質した理性にすぎないことを
一人の少女の叫びは、全ての人間が持っている本能の叫びであることを
本来人間が持っている真の理性の叫びであることを
それは、人間を含めた大自然の断末魔の叫びでもあることを

理性という精神活動と物質との関連については、近代哲学の父と呼ばれたデカルトの有名な「我思うゆえに我あり」という言葉で代表される近代以降、物心二元論的考え方が主流になっている。
すなわち自然におびえ、全てを神に委ねていた人間は、自然から人間を切り離し、世界は何でできているのかという命題に対して、精神中心の観念論、物質中心の唯物論を捨て去った。
その後も様々な考え方が出ており、その中の一つに唯脳論という考え方もある。精神活動を脳の機能としてとらえる考え方であり、心臓と血流機能、肺と呼吸機能などと同様に精神活動を脳の機能として捉えるものだと思うが、私にはこの考え方には違和感を覚える。血流や、呼吸などは所詮、物理的な評価であり、それと精神活動は同じ尺度で評価することは困難であり、その思考は所詮、合理的思考に他ならず、合理的思考という制約の中での発想にすぎない。科学的ではあるが、物質的、有限的思考にすぎない。
結局、私は、精神活動と物質とは、先にも述べた様に、人間の本能的な部分である脳幹部と自然との共通感覚でつながった言わば、観念論と唯物論が合体したものではないかと思えてならない。本来の理性に近いものであろう。

今回の一人の少女の訴え、行動は、本来の人間の理性的思考、行動に合致している。少女の思考、行動は、現代社会に組み込まれている大人たちではなかなか理解できない。
何故ならば、少女の理性が本来の理性であるのに対して、大人たちの理性は、変質した理性だからである。
 少女の理性は、先にも述べた様に生きる力の源である脳幹部と強固にながっており、自然との共通感覚によって、自然ともしっかりつながっている。
一方、大人たちの理性は、脳幹部とのつながりが弱く、自然とのつながりが弱い。結果として、頭でっかちの思考になりやすい。核抑止論、経済至上主義の下での軍需産業の繁栄、アメリカ、ロシアによるサウジアラビア、トルコの国々へのミサイル輸出合戦、それらに加えて政治的な駆け引きがシリア、イエメン、ソマリア、アフガン等々で行われている。確かに、個々の問題に対して、経済的、政治的な合理的な思考からは、政治屋や専門家、経営者の考え方が一見、理性的であるとされるかもしれないが、しかし、それはどこまで行っても変質した理性にすぎない。大人たちの稚拙な理性の下では、自己中心的な自分が生き残ろうとする脳幹部と、合理的思考の問題点を抑止する機能が分離しているために働かず、結果的に多くの民間人の犠牲を出し、自然との共通感覚も欠如しているために際限のない自然破壊をし続け、自然による淘汰としての自然災害による多くの死者、被害者を出し続けている。

少女にとっては、大人たちが与える大人たちが理性とするものを教育する学校より、自分たちの生命のよりどころである自然との共通感覚が重要なのであるが、大人たちは、変質した理性を教育する学校を優先しようとする。大人たちの変質した理性を変えない限り、どこまで行っても平行線である。

最近日本国内で起きた問題を例に上げて考えてみよう。
新たに就任した小泉環境大臣が、福島を訪れ、30年先にも生きている自分が責任をもって政治に当たることができる政治家であるというようなことを述べたことに対して、橋本元府知事が、国民はポエムを聞きたいのではない現実に何をするのかが聞きたいのだと発言した。又、松井大阪市長は、大阪湾に福島でたまってきている放射能除去水を流すために引き受けてもよいなどと発言している。
 確かに橋本氏が述べているように、小泉氏の発言は何の意味もない稚拙な発言であるが、元々現在の自民党政権いや、日本政治、世界政治の中で、何の現実的な発言などできるわけがない。一方で、橋本氏や、松井氏が推し進めているカジノを含めたIR構想などは、海外からの多数の観光客を想定しており、移動手段として最も地球温暖化を推し進める飛行機の利用をさらに推し進める政策に他ならない。又、汚水水処理にしても大阪湾は、彼らのものではない世界にもつながっているのである。自然環境レベル以下であるとも述べているが、所詮、科学的、合理的思考の域を出ていない稚拙な考え方である。根元的な問題は、原発を、核をどうするかなのである。彼等も所詮、合理的思考という変質した理性に基づいたポエムにすぎない。
 又、ドイツの議会での党首発言が報道されていたが、その中でメルケル首相のエネルギー政策発言に対して、ある党首が、ドイツが環境保護オリンピックで優勝するかもしれないが後に続く国はいないと述べていたが、現在の世界中の理性的とされる人類の現実を如実に表していると思う。

 私は、現在の我が国、世界の政治的、経済的、ほか全ての分野でのリーダーたちでは今起こっている人類、多種多様な生物の危機を救うことは不可能であると思っている。
 私が今までなしてきた裁判を通じての様々な訴え、又、ブログや、国会議員選挙を通じての様々な訴え、おそらく多くの人々は、専門性のない、政治経験もない稚拙な、現実を見ていない絵空事と思われていると思う。

 しかし、私は思うのです。皆様に問いたいのです。
今、日本、世界で起きていること、将来起きるであろうこと、そしてそれらに対して日本で、世界で政治屋、グローバル企業経営者をはじめとする経営者、各専門家が行っていること、それらが真の意味で理性的なことだと思っているのですか。

 最後にもう一度言っておこう。
私たち人間は気付かなければならない。
現代人が理性としているものは本来の理性ではなく、変質した理性にすぎないことを
一人の少女の叫びは、全ての人間が持っている本能の叫びであることを
本来人間が持っている真の理性の叫びであることを
それは、人間を含めた大自然の断末魔の叫びでもあることを

    2019年9月23日   文責   世界のたま

多様性~私たち人類が生き残るための唯一の術である

私は、先月行われた参議院議員選挙期間中、そしてそれ以降も私たち人類にとって、今、そしてこの先、何が最も必要なことなのかを考えていた。

そうした中で、今、私が最も必要であると思うのは「多様性」である。「多様性」こそが、私たち人類が生き残るための唯一の術である。今までにもブログの中で、自然との共通感覚を大切にした自然との共存、他者との共存について述べてきたが、その中で最も重要な要素が「多様性」なのである。

現在、人類が生きている基盤、そして、生き続けるための基盤である大自然を考えてみてもわかることであるが、その多様性を失ったとき、人類含めたすべての生物は、存在し続けることは不可能である。何故なら、全ての生物は、あらゆる環境変化に応じて多様化する中で、その命を繋いできたのだから
多様化の停止、それは人類にとって死を意味している。蓋し、ヒトという種そのものも、多様化の中で生じた一つの種にすぎないのだから
そうした多様化を繰り返す大自然の中で、私たち人間は生活している。

現代社会における三つの要素、民主主義、国家主権、グローバル化についても考えてみた。

民主主義、特に現代立憲民主主主義に関して言えば、我が国において、そして世界中の国々においても、壊滅的危機的状況にある。その原因が何かと言えば、それは多様性の欠如に他ならないと思う。
私は、民主主義とは、少数者が多数者になりうる可能性であると考えている。そのための大前提は、社会における多様性である。多様性のないところにそもそも少数者も、多数者も存在し得ない。それらが存在しない社会、それはすなわち、思想、良心の自由の存在しない社会か、民主主義の存在しない社会かのどちらかである。しかし、どちらにしたところで多様性の存在しない社会に変わりはない。

上記のように、民主主義が衰退減弱する一方、世界中で国家主権は台頭している。アメリカにおけるアメリカファーストを筆頭に、中米関係、東南アジア各国の関係の中での中国、米ロ関係におけるロシア、EU離脱の中でのイギリス、EU領域内でのEU各国、日韓関係における日本と韓国、中東情勢の中でのイラン、イスラエルなど、世界中でみられている。

その要因は、国内においては、上記に述べた様に、国内政治における多様性の欠如に起因する民主主義の崩壊であり、国外においては、国際関係の中での国家間の多様性の欠如に他ならない。国際連合においては、特に常任理事国間での反目、核兵器禁止条約に関して言えば、核兵器保有国、そしてその傘に入っている日本をはじめとする国々の条約参加拒否、環境問題でのアメリカの京都議定書からの離脱に続いてのパリ協定からの離脱、イランの核問題におけるアメリカの核合意からの離脱、米ロ間でのINF全廃条約(中距離核兵器禁止条約)の失効等々、それらの要因は、国際関係における多様性の欠如に他ならない。
今回のフランスでのG7首脳会議でも開催前から首脳宣言は出さないとマクロン大統領は明言していたが、ロシアのサミット復帰も含めて紛糾し、サミットが始まって以来初めて首脳宣言は出されないこととなった。

グローバル化に関して言えば、1991年ソビエト連邦が崩壊し、特に1990年代以降、急速に広がったインターネットの普及とともに経済を中心としたグローバル化が起こったが、それは、第二次世界大戦後のアメリカを中心とした世界が形成されたように、東西冷戦で勝利したアメリカによる世界中のアメリカ化、それがグローバル化であったのだと思う。そうした意味でのグローバル化は、必然的に現代社会における世界各国の多様性の喪失につながってしまっている。

中国、ロシア、そしてイラン、EU各国とアメリカとの緊張状態は、アメリカファースト主義を公言するトランプ政権に起因すると考えやすいが、根底には、現代のグローバル化、即ち、多様性の否定そのものに原因があると思う。そういう意味において、中国、ロシア、イランなどの国々の言い分にも一理はある。但し、それらの国々における国内の多様性、民主主義に関して言えば欠如しているのも事実である。

そうした現代社会における三つの要素、全ての面で多様性が失われている現代社会においては、必然的に個々人の基本的人権など、特にその最たる人権とされる生命すらも最早風前の灯火となっている。

フランスでG7首脳会議が行われているが、その主要議題にアマゾンでの終わりの見えない大規模な森林火災が取り上げられている。アマゾンでは今年に入って7万か所以上で火災が発生しており、今現在も広大な原生林が火災によって失われている。地球温暖化の中で、アマゾン以外でもロシアを含めた世界各地で大規模な森林火災が生じており、そこで生活を営む人々を含めた多くの生物の生存が脅かされている。
特にアマゾンの熱帯雨林は、地球の酸素の20%を産出する一方で、多量の二酸化炭素を吸収する地球の肺である。酸素を産出するどころか、一酸化酸素や二酸化炭素を産出し続けている。火災によるその呼吸停止は、人類含めた地球上のあらゆる生物の生命の終焉を意味している。
又、海水温の上昇による温暖化によって、化学物質によって、放射能汚染によって、プラスチックの海洋投棄によるマイクロプラスチックなどの原因によっても、海洋生物のみならず、地球上全ての、人間を含めた多くの生物の生存が脅かされ、その多様性が失われている。このことは、国連も警鐘を鳴らし続けている。

先日ロシアで小型原子炉爆発事故があり、多くの人が犠牲になったが、ロシア政府は亡くなった方への弔いは、新型兵器開発を成し遂げることだと述べている。

香港では、中国への犯罪者引き渡し条例をきっかけに連日何万人ものデモが行われ、先日は一時期香港国際空港の機能が停止した。それに対して中国は軍隊を待機させ、天安門事件の再来が危惧されている。

日韓関係は、こじれにこじれて、貿易戦争、軍事情報協定破棄、そして竹島での韓国軍による軍事演習にまで至っている。

インドによるカシミール地方での自治権はく奪は、インド国内問題(カシミール自治区の住民の人権制限)を超えて、パキスタン、中国との国境の緊張を高めている。

南アフリカや北アイングランドにおいては、未だにアパルトヘイト、アイルランド紛争による壁が存在している。

アメリカによるINF全廃条約の失効に伴う海上中距離核弾頭の地上型へのミサイル実験、そしてルーマニアへの配備の合意は、かつてのキューバ危機の再来に他ならない。

アメリカ大統領によるデンマークの自治領であるグリーンランド購入の発言

ホルムズ海峡におけるアメリカの呼びかけによる有志連合へのイギリス、バーレーンについでのオーストラリアの参加表明

アメリカにおける宇宙軍の創設

先進国による産業廃棄物の東南アジア諸国などへの輸出

これら最近起きている一連の事象は全て国際政治における多様性の否定に他ならない。

国内政治においては、先の参議院議員選挙における個人の立候補を排除する政党中心の、特に多くの死票を生ずる多様性を否定する小選挙区制度、さらに、党首に強力な公認権を認める党内民主制の否定、それらは全て国内政治における民主制の否定、政治的多様性の否定に他ならない。

横浜市のカジノを含むIR誘致問題、大阪、和歌山、長崎に次いで横浜市長が誘致に名乗りを上げてきた。日本政府は3ヵ所を想定している。政府、地方とも堅実な財政政策をすることもなく安易な手段での税収入の確保、経済効果を狙った経済至上主義の権化に他ならない。

東京オリンピックが近づいているが、その誘致合戦、シンボルマークから会場建設まで、お金にまみれた経済至上主義の権化は、カジノを含むIRと同様に一時的な海外からの観光客含めた経済効果を狙っているが、民主主義の対極にある経済至上主義は、EUで問題となっている地球温暖化を移動手段として最も促進する航空機による移動をさらに促進するものである。

私は、オリンピックなどの世界の祭典は、経済的な発展がまだ途上にある国や、難民問題で行き詰まっている国、戦争によって破壊された国でおこなわれ、それらの国々の経済発展、政治的安定、それらの国々を介した世界平和のために行われるべきものだと考える。そもそも先進国と言われる国々が、産業廃棄物を押し付け、先進国の経済活動である軍需産業によって作られた兵器の使用による犠牲を出させている中で、それらの国々を押しのけ、裏金を出してまで選考委員を買収し、更なる利得を得ようとして開催すべきものではない。

私には、先進国首脳会議だとか、現在の先進国としている国々は、世界中で経済格差を生み出し、拡大し、環境破壊を推し進める詐欺集団国家としか思えない。恥を知るべきだと思う。

上記の事例で明らかなように国際的には、安全保障が問題となり、国内的には民主主義が問題となっている。そしてその根底には大自然の環境問題が横たわっている。

現在生じている国際的、国内的、そして大自然に関する諸問題において共通して言えることは、多様性の欠如に尽きる。そして、失われつつある多様性の確保のための手段として私たち一人一人が為さねばならないこと、それは、今まで何度も述べてきていることであるが、経済至上主義グローバル化の否定であり、経済至上主義国家の否定であり、所得格差の是正である。

そうした中で、私は、日本国憲法が、世界の憲法の中で、最も優れた憲法であると考えている。何故ならば、日本国憲法は、絶対的な相対性を持った憲法だからである。

日本国憲法は、日本国民に対して憲法を順守することを義務付けておらず、否定することすらをも許している。日本国憲法は、国民に対してその命すら投げ出しているのである。
そして戦争を放棄し、政党も規定していない。

私は、そんな日本国憲法が目指す国家、国民とは、絶対的な相対性を持った国家、国民であると思う。

それは絶対的な多様性のある国家、国民に他ならない。
私たち日本国民一人一人は、その日々の生活の中で、家庭生活、学校生活、仕事の上でも多様性を大切にして生活しなければならない。
そして、選挙における投票行為、裁判官の国民審査などの政治的行為においても、多様性という価値基準の中で考え、熟慮した上で判断しなければならない。
何度サミットを開こうが、各国間で首脳会談を重ねようが、何の意味もない。彼ら一人一人に、そして各国に、多様性がない限り、その解決はあり得ない。

各国が、多様性を持つためには、各国の国民一人一人が多様性を持たない限り、少なくとも多様性を持った代表者が選ばれない限り、国家が多様性を持つことは考えられない。

そのためには、国民一人一人が多様性を持った生き方をすること、それ以外の早道はない。そして何度も言うが、私たちに残された時間は少ない。大自然は、加速度的にその多様性を消失している

私たち日本国民は、絶対的な多様性を保障する憲法を有している唯一の国民である。
戦争放棄条文の改正や、政党の条文化、憲法擁護義務者としての国民の条文化など、多様性を否定する憲法改正は、愚の骨頂以外の何者でもない。

最後にもう一度言っておこう、私たち日本国民は、己を捨ててでも他者のために生きる絶対的な多様性のある人間であらねばならない。

    2019年8月26日   文責   世界のたま

選挙戦を終えて~裸の王様の王国

この度の参議院選挙において、私に貴重な一票を投じて下さった方々に、この場をお借りして改めて深く感謝し、お礼申し上げます。
国会に行くための議員を選ぶ今回の参議院議員選挙において、私は、国会に行かないという公約を持ってして立候補させていただき、私に票を投じて下さる方がたとえいなくても仕方ないと思って覚悟は致しておりました。
そして初めて街頭演説にも立たせていただきました。そうした中で、声をかけていただいた方もおられました。
私に票を投じて下さった方々の中には、私を御存じの方もおられたと思いますし、全く知らない直接面識のない方もおられたと思います。公約内容は抜きにして票を投じて下さった方、公約に関心をもって投じて下さった方、いずれにせよ貴重な一票を私に投じるために、投票所まで足を運んで下さり、誠にありがとうございました。
結果的には議席をとることはできませんでしたが、本当に心より感謝いたしております。

私は、現在の我が国は、裸の王様の王国であると思っています。
経済至上主義という衣を着た裸の王様の王国にすぎないと思っています。
経済至上主義という衣は、近代社会という色眼鏡をかけて見れば立派な衣を着ているように見えますが、近代以降の科学の特徴である木を見て森を見ない還元主義や物質中心主義という色眼鏡を外した時、人間は自然の中の一部にすぎないのだという現実、真実を目の当たりにした時、ただの裸であることに初めて気が付くのだと思う。

この広島選挙区でも繰り広げられた政党選挙、世界中でも行き詰まっており、現実から人々は目をそらしている。科学主義の持つ二項対立的思考から私たちは脱却しない限り、いつまでも何らその解決方法はない。アメリカの民主、共和の対立、イギリスでのEU独立、反対での対立等々、二項対立的思考からは最終的な解決は望めない。

私たちは気付かなければならない。
私たちが、世界中で日々起こっている自然災害と呼んでいるものは、実は自然によるヒトという種の自然淘汰にすぎない。
そして経済至上主義の下で、繰り広げられている経済格差の中での餓死や、虐待死、自殺者、又、軍需産業の繁栄の中で、世界中で起こっている紛争地域での戦死者すらも、全て、所詮、自然が為すヒトという種の自然淘汰にすぎないと思う。

選挙戦の中でも述べてきたことであるが、私たちに残された時間は少ない。
科学の発達の中で、人間の視野は狭まり、科学的な考え方の中でしか物事を考えられなくなってしまっている。真の意味での想像力を失ってしまっている。
それが、経済至上主義という色眼鏡を私たち人間にかけさせている。

私たちは、今、経済至上主義という色眼鏡を外さなければならない。
そうした時、我が国のみならず、先進国を中心とした世界中の国々が、裸の王様の王国にしかすぎないことに気付かされるであろう。

もう私たちには時間は残されてはいない。
人類が地球で生存できる時間はそんなにあるとは思えない。
インドや中国をはじめとして世界各国が月面着陸、月面での生活空間の建設に力を注ごうとしているが、たとえ、地球の自然環境が破壊された後の自然が回復してくれる間だけの一時的な避難基地として考えているのであれば、それは大きな間違いである。
どこで生活しようとも、人が集まる限り、人は自然との共通感覚を取り戻さない限り、人は真の自然との共存、他者との共存を図れる真の想像力を取り戻せない限り、同じことを繰り返すだけである。

私たちは、まず裸の王様の王国でしか生きていない現実に気付かなければならない。
私たちは、裸の王様であるということを述べる勇気を持たなければならない。

最後になりますが、もう一度、国会に行かないという私の公約を前にしても、投票所に赴き、貴重な一票、一票を投じて下さった方々に、感謝の意を述べさせていただき終わらせていただきます。
皆様方の御健康と、御多幸をお祈り申し上げます。
本当にありがとうございました。

   2019年7月22日   文責   世界のたま(玉田のりたか)

私の公約についてのご質問へのご返事(国会に行かないで何をするのか)

お返事、遅くなって誠に申し訳ございません。メールありがとうございました。
貴殿には、まず、国会に行かないことを、一応どうであれ受け止めて下さったことに感謝申し上げます。
本日も、街頭演説してまいりましたが、おそらくまずその点でブロックされてしまうのではないかと思っていますので、如何に説明しようとしても、国会に行かないのに何故立候補するのか? 歳費ももらわないのに、何故そこまで街頭演説をするのか?と思われていると思っていますので、
その上で、貴殿の質問は、ごもっともなことと思っております。その答えですが、まず、私が国会に行かないとした公約の下に、実際にそのようなことを、現実に行ったとすれば、まず、私が何をするかではなくて、他の国会議員が、与野党問わず、私の議席の否定、即ち、国会での除名決議の動きが、必ず巻き起こると想定しています。(今まで憲政史上、国会に行かない国会議員は憲法上も想定していない事態ですので)
そこのところを、街頭演説でも強調しているのですが、6年間の任期を守り続けると、たとえ当選したとしても、国会に行かないことを守り続けること自体、私は、大変なことだと思って覚悟しているのです。万が一、除名されたとしても再選挙に臨む覚悟も当然しております。
その上で、貴殿にも考えていただきたいのですが、この私の国会に行かないという公約を、私が決意して立候補を思い立ったのも、最近のブログでもあげている私が起こした国家賠償請求訴訟において、5月29日に下された最高裁の棄却判決があったからです。
私は、現在、主権者である国民に実質的な選挙権、被選挙権があるのかということに疑問を持っており、森友加計学園問題での、臨時国会開催拒否、説明責任なき冒頭解散、それに基づく選挙は、目隠しされた、耳を塞がれた状態での選挙であり、公職選挙法第一条に反するとしたのですが、裁判所は、安倍さん、麻生さん、佐川さんの証人申請も拒否し、公職選挙法第一条の解釈適用すら拒否しました。現在の三権の権力分立による国民の人権保障機能は、最早断たれているのだと、実感したのです。結局、日本国憲法上の唯一残された主権者たる国民の権力的契機である選挙権、被選挙権の行使しか道はなかったのです。
選挙制度とは、民主主義の根幹部分です。例えば、他の自由権が侵害されたとしても、選挙や、国会での討論など、民主制の過程で、その侵害を除去することは可能です。
しかし、選挙制度という民主制の過程そのものが、侵害された時、もはや国民の人権侵害は、民主制の過程では、回復が困難であり、それを回復するのは、日本憲法上、ありえず、憲法外での革命に近い回復方法しか残されていないのです。(当然、司法は無力です)
今回、与野党が増やした6議席のうち、2議席に関して言えば、埼玉などの人口密集地への議席配分で、最高裁の一票の格差判決に沿うものであり、私は否定しませんが、後の4議席、特に特定枠での2議席に関しては、現時点では,完全に、国民の代表性に反していると思わざるを得ないのです。
考えていただきたいのは、今回の私の行動は、国権の最高機関たる(私自身は、もはや内閣の省に成り下がっているとしか思えませんが)国会、国民の代表者である議決による選挙制度の変更を、実質的に否定する行動であり、そのこと自体が第一の目的である。ということなのです。選挙制度自体を、ゆがんだ政党政治のもとから国民の手に取り戻す行動であるということにほとんどすべての理由があるのです。
ですから、私自身、議席をいただき、それを守ることをすることだけでもほとんど今までの常識からすれば、不可能に近いことだとは思っているのです。それが当面の精一杯であると思うのです。
しかし、その上でのお話でしたら、私の行動によって、新たな年齢を問わず、特に若い方が、次々と声を上げて下さることの起爆剤となりたいとは思っております。
先の話ですが、現在の政権では弾き飛ばされている方々と、心に思っている方々はいるのですが、議席を得て、国民の後ろ盾があれば、そのような方々と、新たな国会の構築に励みたいと思っているのです。
貴殿への答えになってあるかどうかわかりませんが、今の私に言えるのはそこまでしかないのです。
今日も、福山、紙屋町、本通り、八丁堀、広島駅前で街頭演説をさせていただきました。
平日は仕事もあり、昼休憩を伸ばした時間しかありませんが、可能な限り街頭演説はさせていただこうかと考えております。なお、7/10は昼ではなく、仕事が17時までなので、それ以降、夕方にさせていただきます。

   2019年7月7日  文責   玉田のりたか

今後、日本が目指すべき国家(市民主義国家)

① 自然との共通感覚を取り戻す(贈与の気持ちを忘れない国家)

今の私たち人間は、近代以降の科学の発達、経済の発達の中で、かつて、他の動物をたちと同様に、自然を恐れたことを忘れ、驕り、いつの間にか、自然を見くびり、自然をコントロールでもできるかのように錯覚してきた。しかし、世界中で、年々増えつつづける自然災害の中で、今度は、自然と相対立してきている。そうした中、私は、この自然災害という言葉自体が、果たして適切な言葉なのか疑問を感じている。
この言葉は、自然が悪であるかのような表現に感じられる。誤解をしないでいただきたいのだが、人間中心的な考え方であると思う。人間自体も、自然を構成している一部にすぎないのだから、今の人間がしていることは、影踏みと同じで、一生懸命に自分自身の影を消そうとしているだけのような気がするのです。私たちは、自分の影であることを、きちんと認識して、共存してゆかなければならない。

すなわち、一人一人の人間が、自然の一部であること、一つ一つの生命が、自然から贈与されたものであることを自覚した社会に、作り替えてゆかなければならないと思う。
これは、私が目指す市民主義国家の基本的な理念であり、全ての事象の物差しとなる概念である。
具体的には、自然界には存在しない、自然界の中で処理することが困難な物質の排除、すなわち核エネルギーや致死性の高い化学物質、細菌、それら全ての用途を問わない使用の完全停止である。
原子力発電所の停止、廃炉、核燃料廃棄物処理の促進、生物化学兵器の廃棄、それらに代わる自然エネルギーを利用した電源開発の促進、電力消費の削減である。
地球温暖化防止対策として、温室効果ガス排出削減のための過剰な経済活動(生産、消費含めた)の停止、サンゴ礁含めた海洋資源保護のため、沖縄辺野古沖での埋め立てやプラスチックの海洋投棄などは即時中止以外の選択肢はない。
現実的な行動も不可欠であるが、根本的には、育児、教育の見直しに尽きると考える。自然との共通感覚を持ち続けるためには、脳育が不可欠である。
現代社会のような乳幼児期、学童期に十分な睡眠、外での遊びがなされていない生活リズムの中では、自然との共通感覚、贈与の感覚は育ちえない。如何に、学童期以降の教育、社会教育をもってしても取り戻すことは至難の業なのだから

② 経済至上主義の排除(「足る」を知る国家)

現代社会は、経済成長、拡大再生産が至上命題であると考えている。そのために、日々、コマーシャルを流し、消費を生み出し続け、本来必要としない過剰な生産を続けている。
しかし、考えて見ればわかることだが、その結果として何が起きているのかと言えば、一部の富あるものが更なる富を蓄積する格差社会以外の何者ではない。
トリクルダウンなどといった大企業が儲かれば、下請け企業が儲かり、社会全体の労働者の賃金が上がることなど、現代社会においては、完全なまやかしであり、儲かるのは、経営者、一部の社員、株主のみである。働き方改革法案の国会審議などを見てもわかるが、所詮、大多数の労働者は、企業のための調整弁にすぎない。いつでも切って捨てられる駒でしかない。
先日、セブンイレブン店主が、妻にも先立たれ、募集しても従業員が来ないため、24時間営業することが困難となり、深夜1時で閉めたところ、セブンイレブン本部から違約金1700万円請求されたということが報道されていた。その後、社会的な反響もあり、世論の非難を避け、企業イメージを保つために、表向きは改善しているように見せてきているが、現代社会の労働現場の縮図である。
恵方巻やバレンタイン、ホワイトデイそして携帯、スマホなどの相次ぐ機種切り替えなど過剰な消費を促すために、コマーシャルを流し、幼少児期から過剰消費を洗脳する現代社会
確かに24時間営業店があることで、私自身も含めて助かっている人も多いのも事実であるとは思う。
しかし、多量の生産、消費社会の中で、結果的に、多量の無駄な廃棄物を生じている。
確かに自由な市場経済を基本とする資本主義経済は、手段として人間の暮らしを豊かにしてきたが、経済成長自体が目的化され、現代社会の行き過ぎた経済至上主義は、環境破壊、格差社会を引き起こし、アメリカを中心としたグローバル化が加わり国家間の緊張をも高め、経済戦争を引き起こし、現実的に収拾がつかない状態の国際社会を招いている。
目指すべき市民主義国家においては、自然環境の回復、保護を大前提とした市場経済の下での、現在と方向性を変えた経済発展が求められる。
環境を保護する省エネ製品の開発販売促進、輸送によるエネルギー節約含めた地産地消、過剰余剰生産品などをシェアリングした経済難民などへの支援、労働環境におけるワークシェアリング
又、格差社会是正のためには、法人税、所得税、消費税、社会保障費用含めた税、社会保障制度全般での抜本的な変革も不可欠である。
市民主義国家とは、言わば「足る」を知る社会に他ならない。

③ 現代立憲民主主義の立て直し(選挙制度の見直し)

現在の我が国の政治状況は、もはや国家としての体をなしていない。
正確に言うなら現代立憲民主主義国家としての体をなしていない。体をなしていないことで何が悪いかと言えば、遅かれ早かれ、国民一人一人が自由に話し、自由に行動することができなくなり、命の保障すらない時代になるでしょう。世界を見渡せば、いたるところで現実的に生じてきている。
なぜそうなるかと言えば、様々な国民の基本的自由権は、憲法によって保障されているが、現在の我が国においては、その保障が困難になってきているからです。言い換えると国が憲法を守らなくなってきているということです。
現在の日本国憲法において、国に憲法を守らせるための仕組みとして定められているのは、日本国憲法の最高法規性や、公務員による憲法尊重擁護義務などの道義的条項を除けば、三権分立制度、裁判所による違憲立法審査権、国民による選挙権行使である。
しかし、この間の国会を見てもわかるように、行政内容の専門化、量の増大により、政府の権限は肥大化し、一方、選挙制度における政党中心選挙、小選挙区制、党首による立候補者の公認権独占などによって、国会議員はもはや政党に縛られ、結果的に国会議員は内閣総理大臣の下僕に成り下がっている。三権分立による権力間の抑制機能は完全に破綻している。
唯一残された裁判所による違憲立法審査権に関しても、私自身、選挙権、被選挙権侵害に対して最高裁に上告したが、棄却され、困難を極めているのが現実である。
最終的には、国民による選挙権行使のみが、唯一残された憲法を守る術である。
そのために、目指すべき市民主義国家においては、現在行われている政党中心の選挙制度を根本的に見直し、一人一人の国会議員が、国家的な重大事案について、徹底的に討論して、各自の判断、国会議員一人一人の責任において結論を導き出す国会に変革する必要がある。
現在の日本国憲法において、たとえ選挙区、比例代表で選ばれた国会議員であったとしても、一旦、国会議員に選ばれた以上、全国民の代表者として擬制されているのは、そのことを現憲法でも要請していることは明らかな事実である。

さらに、目指すべき市民主義国家における国会議員については、任期途中でも、問題があれば、国民による罷免権を認めるべきだと考える。そのためには憲法改正が必要であると思われるが、現実的に可能である。その場合は、選挙区以外の選挙区における罷免投票制度などが想定される。いずれにしても、現在の腐りきった与野党の国会議員、そして彼らから選出されたおバカな総理大臣はじめとするおバカな大臣達では、彼らを選んでいるおバカな私たちが救われないのは仕方ないとしても、現在、未来の子供たちを救うことは不可能である。
又、国会議員は、国家に直接かかわる重要な案件、すなわち、国家全体に関する財政、税務、防衛、社会保障のみを扱うべきで、ドイツで原発廃止に関して、原子力関係の専門家を除外した識者と国会議員のみで城に閉じこもって何日間も徹底討論したように、国会議員とは、国家そのものの存否、国民の安全に関わる基本的な案件に絞って徹底的に審議し、決定を為すべきである。
そのためには、目指すべき市民主義国家では、可能な限りの徹底的な地方分権を行い、国家機関とは別な地方代表組織などのもとで地方自治を行うべきであると考える。
そういった意味において、市民主義国家においては、政党はほぼ無用の長物となるであろう。

④ 社会保障制度の確立(安定財源の確保と、豊かな社会の構築)

目指すべき市民主義国家においては、生きる意味を考え直すことが不可欠である。
現代社会においては、臓器移植、遺伝子治療、ゲノム操作、医療の進歩などによって生命や死の意味が改めて問い直されている。
目指すべき市民主義国家においては、生まれ、成長する過程は別にして、死に関しては自然死を基本とすべきであると思う。特に、高齢者における延命含めた医療、介護行為は、尊厳死という観点からもう一度見つめなおす必要がある。
保険制度においても、医療と介護とは元来分けて考えることなどありえないはずであり、介護保険制度の流れも、最近では連携し、併せて考えてゆく方向になっており、正しい流れである。所詮、医療と介護とは、一人の人間の見かたの問題にすぎない。本来分けられないものであり、人生観なども含めて一体的に捉えなければならない。
そういった意味で考えた時、目指すべき市民主義国家における社会保障制度は、可能な限り、制度上も医療、介護含めた一本化された社会保障制度を目指すべきであり、その中身も、ケアプランを中心としたサービス支給だけでなく、現金支給も考えていくべきである。
実際に、医療、介護、臨終の現場を数多く経験すると分かることであるが、たとえ、お金のためであれ要医療、要介護者を介護者がみる動機になることは、私は一つの考え方であると思う。現金支給する分、公的な医療、介護支援は減ったとしても、そのお金で、家族一緒に旅行に行ったり、自由なサービス計画の下で生活する。たとえ結果的に余命が短くなったところで、それが本来の与えられた命であると私には思えてならない。確かに、支給した金を何に使うのかわからないなどの意見は出ることは十分承知しているが、それでも私はそうすべきであると思う。

目指すべき市民主義国家においては、現在我が国で行われている厚生年金基金の株式投資など、おバカなことなどは即刻禁止すべきである。経済至上主義に洗脳されたおバカな天下りを狙った官僚や、企業、投資家からの政治献金を狙ったおバカな政治家がしていることであるが、このようなおバカなことをする国家など考えられない。本来、厚生年金基金は、彼らのものではなく私たち国民自身が積み立てているものである。運用して利益上げなければ年金が支払えないなどとほざいているが、そもそも制度自身が破たんしているだけのことで、それをごまかし、先送りし、さらに傷口を広げている。市民主義国家においては、こんなおバカなことは即刻禁止し、税制度全体の中でもう一度社会保障制度を構築し直す必要が不可欠である。未来の子供たちのことを考えるとき、これらは待ったなしの緊急の課題である。
社会保障費の財源については、税の中で最も安定的な税である消費税を中心に財源を確保すべきであろう。そうした時、非課税制度は、財源収入を減らし、結局高額所得者に、有利であり、中小業者の導入負担も大きい。非課税制度を撤廃した上で、導入されるべきである。

⑤ 安全保障制度の見直し

従来から申し上げているが、現在の安全保障とは その対象は国家であると考えられているがそれは時代遅れの、若しくは偽装された考え方である。
アメリカがINF(中距離核戦力全廃)条約の破棄をロシアに通告したが、世界を見渡せば核兵器保有国は増え続け、ロシアにしても超音速の防御不能と豪語するミサイルの開発、中国にしてもINF条約をよそ眼に中距離核兵器を開発している。
おバカな日本も負けじとなのか、経済至上主義に基づくグローバル化したアメリカ経済のために、アメリカのグアム、ハワイを防衛するためイージス・アショアを6000億円もかけて配備しようとしている。又、自衛隊保有艦の空母化も検討している。
しかし冷静に考えて見たらいい、かつて幾度か戦争した、ドイツ、フランス、イギリスがお互いに戦争することが考えられるのか、ロシア、ドイツ、フランスが戦争することがあるのか、確かにイエメン、ソマリア、シリアなど自分たちの国土や国民に害のない他国を介した間接的な意味での戦闘はありうるかもしれないが、現代社会においてはあり得ない。何故ならば、あったとしたならば、その結果は、原発含めた核施設の破壊、核攻撃による世界中の放射能汚染、そして勝ち残った国家があるとしてもその先も所詮は戦争の連鎖で、どこまで行っても殺し合いの世界でしかない。歴史が繰り返せる環境が残ったとして、果たしてそんな世界で生き続けたい人間がいるのだろうか。私自身は、戦い続けてそんな世界で生き残る意味はないと考える。
現代人が、近代以降の理性に基づく行動が正しかったと信じているのであれば、自分が生きるために、どんな人間をも殺してでも生き抜く社会は、人類の進化で言えば、自己防衛のみの本能である脳幹部中心の生物から前頭葉を発達させ、自己防衛本能を制御し、思慮分別のある合理的思考ができるようになったその進化の過程の逆行であり人類にとって退化以外の何者ではない。
そう考えた時に、現在の、国家間の兵器開発合戦は何なのか。私には、所詮、経済至上主義の下での輸出産業としての経済的利益追求以外の意味はないと思う。紛争国に売りつけ消費する。周辺国にはその脅威を植え付け、近代兵器を売りつける。他国の人間が悲しもうが、死のうが知ったことではない。自分たちが経済的に豊かになればよい。ただそれだけのことに思えてならない。
私には、結局、国際政治学で言う安全保障の定義が、既得した価値への脅威の不存在であるとするならば、現在の安全保障とは、現代社会における私腹を肥やした権力者、経済至上主義の下で資産を築き上げた人たちのための脅威の不存在ではないかと考える。
これは、国家自身の問題でもなく、政治体制の問題でもなく、民族や宗教、国境の問題でもないと思う。それらは所詮、利用されている対象でしかない。
結局、現代社会における真の意味での安全保障の対象は、個人であると思う。つまりそれは、現代社会で権力や、富を築き上げ、築き上げようとする個人に他ならない。
そうした意味で、目指すべき市民主義国家における安全保障政策の根本的な課題が何かと考えた時、格差社会是正しかないと考える。
私たちは、真の安全保障とは何なのかを真剣に考え直し、核兵器廃止条約締結拒否や、日米安保条約、行政協定に基づく基地使用、航空領域制限、費用負担継続については、根本から考え直すべきである。
目指すべき市民主義国家を考えた時、安全保障政策の柱として第一に、格差社会是正を掲げ、まず日本国内から、あらゆるNGO、NPO,国際機関を通じた格差是正のための医療、教育、生活支援を行い、世界に発信してゆくことしかないと私は確信している。

2019年7月5日  文責  玉田のりたか

私の選挙公約

G20でもわかるように、今、世界は揺れている。
グローバル企業と、国家主権の台頭の中で、米中はじめとする経済戦争、そして、実際の戦闘も、世界各地で起きています。
何がこれらを解決できるのか!
私は、それは、民主主義以外ありえないと思う。逆に言えば、世界中で、民主主義が、失われているからこそ、それらの問題が生じているのです。
先日、安倍さんが、イランに行きましたが、何の意味もなかった、そればかりでなく、タンカーが爆破されてしまった。
いったい、何故なのか。
それは、彼の言葉は、薄っぺらで、相手の心に響くことはない。
彼には、確固たる信念がない。特に、民主主義に裏打ちされた信念がないからに他ならない。
私は、現在の、混とんとした日本、そして、世界にとって最も必要なものは、グローバル経済でもなく、国家主権でもない、民主主義に、他ならない、と確信しています
今、日本が、そして、世界が、最も必要としているもの、それは、民主主義なのです。

今、ここに、私の公約を、はっきりと、申し上げておきたい。

私の公約は、ただ一つ、皆様方の、一票一票によって、今から説明する、私たち国民が、与野党による、選挙制度改革によって、奪われた議席を、民主主義を、必ず取り戻すこと私の任期中6年間、国会には行かず、一円の公費もいただかないこと
そして、任期中6年間、皆様方から頂いた議席を、守り続けること
そのことを、皆様方の前で、お誓い申し上げます。
そして、この公約は、皆様方の一票と、私の信念さえあれば、必ず、100%成し遂げることができるのです。
今、私の信念は、ここにあります。
あと必要なのは、あなた方、有権者の皆様の、一票一票、それだけなのです。

私が、任期中、国会に行かない、という公約を聞かれて、100人中のおそらく100人が、国民、有権者をバカにしているのか、と、お思いになると思う。
しかし、私は、この公約を、真面目に、真剣に、考えた上で、こうやって立候補させていただいているのです。
国会議員選挙とは、確かに、国会に行く議員を、選ぶことですが、それは、国会が、まともな国会であることを、前提とします。残念ながら、私は、今の国会は、まともではないと思う。

与党は、忖度政治の中、ほぼヤクザ社会と変わらない。何か問題があれば、下が責任を取り、上は、ぬくぬくとしている。彼らが作った、組織犯罪処罰法によれば、彼らは、とっくに処罰されているはずである。
一方、野党はと言えば、党利党略の野合を繰り返しているだけである。
彼らが、今回の参議院選挙から、選挙制度改革によって増やした議席は、不当な議席です。
現在の国会に巣づく病巣は深い。それを治すには、もはや切開し、膿を取り出すしかない。
私が、国民のメスとなって、彼らが増やした無効である議席を、無効と宣言するしかない。
私は、今回の、私の公約によって、与野党が、為し得なかった、彼らの公約であった、国会議員の定数の削減による公費の削減、彼らが、私たち国民から奪った議席の奪還、民主主義の回復、すなわち、民主主義のくさびを、国会に、打ち込みたいのです。

もし、私が、バカにしているものがあるとすれば、それは、あなた方、国民、有権者ではなく、現在の国会であり、現在の、与野党含めた国会議員です。
私は、現在の、我が国の国会、そして、国会議員を、日本国民として、主権者として、怒りをもって、恥じる。
そして、それに気づいたものが、たとえ、政党や、組織がなくても、たとえ馬鹿な奴だと思われたとしても、たとえ、たった一人であったとしても、立ち上がらなければならない。

日本国憲法の第一文には、日本国民は、正当な選挙によって、選ばれた代表者、を通じて、行動すると謳われています。

すなわち、我が国が、民主主義国家であることが、謳われているのです。
そして、日本国憲法第一文で謳われていることは、これが、我が国、日本の基本的国家理念である、ということを示しています。

私は、皆様に問いたい、現在の我が国に、民主主義はあるのか?
民主主義とは、少数者が、多数者になりうる可能性である、と私は考えます。
そのために必要なものは何か、それは、嘘偽りのない資料、答弁、すなわち、説明責任、そして、少数者のための発言の場の確保です。

果たして、それが、現在の我が国にあるのか?

森友、加計学園問題、障害者雇用問題、イージスアシュアに関する住民説明会、そこにあるのは、黒塗りの資料、改ざんされた資料、水増しされた答弁、それらしかない!
 
そこに、少数意見を聞き入れる、丁寧な話し合いがあるのか?
そこにあるのは、答弁拒否、強行採決、臨時国会開催拒否、解散権行使による脅ししかない!
 
今の、我が国の国会に、もはや民主主義は存在していない!

そして、民主主義にとって、もう一つの大切なもの、それは、国民の代表者である国会議員が、真に、国民の代表者であるのか、その正当性です。言い換えれば、国民の代表を選ぶ、選挙制度の正当性です。

今回の参議院選挙は、新たな選挙制度の下で行われています。
そして、その選挙制度改革は、あの西日本、豪雨災害のさなか、この地、広島で、幾人もの尊い命が失われ、捜索されているさなか、与野党の国会議員によって、どさくさに紛れて作られました

与野党国会議員、彼らが、今回の、選挙制度改革を、国民の不幸のさなか、そのどさくさに紛れてしか、作れなかった、その理由

それは、年金減額、消費税増税など、国民に負担を強いる以上、国会議員自らも身を切る、国会議員定数を、削減するとした、国民との約束を破り、6議席も増やしたからに、他ならない。
そして、そのうち2議席は、国民が反対する、どんな人でも、政党が、国会議員にできる制度を導入したからに他ならない。
いいですか、国民には負担を強いる一方、自分たちは、6議席も増やし、制度自体も、好きなように、作り変えているのです。
これを、あなた方は、許せるのですか。

まさに国会議員の、国会議員による、国会議員のための、選挙制度改革に他ならない。

現在の与野党、国会議員に、少数者、弱者への思いやり、いたわりの気持ちは微塵もない。
彼らが、考えているのは、自分たちの議席、だけである。

私は、この選挙を通じて、彼らが、私たち国民から奪った議席を、常識を、そして、民主主義を、取り戻したいのです。
私は、この参議院選挙で、国会に、民主主義のくさびを、打ち込みたいのです。

今回の選挙で、野党が言う、年金2000万円問題など、全く争点ではありません。
彼らは、ごまかしている。嘘をついて、私たち国民を、だましているのです。
私たちは、騙されてはいけない。
今回の選挙で、与野党の国会議員が、国民から奪おうとしているもの、それは、年金や、消費税ではなく、国会議員を選ぶ選挙権であり、私たち国民の自由なのです。

年金2000万円問題について言えば、これらの社会保障制度改革は、2012年から、三党合意の下で、抜本的制度改革を行ってきたのであり、与野党すべての国会議員に、その責任があります。決して、与党だけの責任ではないのです。
確かに、報告書の受け取りを拒否し、内容を改ざんする与党が、まともな年金改革をすることはできません。
しかし、批判のみしかできない野党も、そんなちんけな政党に、年金改革などできやしない。
野党は、年金問題をエサに、自分たちの議席を増やそうとしているだけにすぎない。

今回の選挙戦での争点は、年金2000万円問題ではなく、与野党が行った、今回の選挙から実施されている、選挙制度改革なのです。

いいですか、皆さん、皆さんが毎日、安心して、自由に生活できるのは、国から侵害されないための、日本国憲法があるからです。

私たちが、自由に生活できる権利も、年金を受け取れる権利も、すべて、日本国憲法によって保障されているのです。

日本国憲法には、3つの原則があります。皆さんも学校で習ったことがあると思う。
一つは、先程も述べた基本的人権の尊重、自由権です。もう一つは、民主主義、そして最後の一つが平和主義です。

安倍政権下、私たちは、今までに、組織犯罪処罰法改正によって、国民の自由権を奪われました。そして、特定秘密保護法によって、国民の知る権利、すなわち民主主義も奪われました。

政府がよく出す、黒塗りの文書、森友加計学園問題での公文書の改ざん、最近では、イージスアシュアの、現地もろくろく調査しないままでの住民説明会、麻生副総理の報告書受け取り拒否、などなど、それらは、私たち国民の知る権利を妨害する、即ち、民主主義の否定以外の何者でもない。

そして最後は、集団的自衛権の容認によって、国民の平和的生存権が奪われました。

安倍政権は、言わば、憲法の、3つの原則を奪った、人権侵害内閣に他ならない。

今回の選挙制度改革によって、彼ら、与野党国会議員は、民主政治における柱である、すなわち、選挙制度にまで、グルになって、手を付けてきたのです。

いいですか、選挙制度とは、国民が、国民の代表者である、国会議員を選ぶことです。
国会議員は、内閣総理大臣を選びます。そして内閣総理大臣は、最高裁判所の裁判官を選ぶのです。
実際に、安倍さんは、加計学園監事をしていたお友達を、最高裁判所裁判官に任命している。

忖度政治の中で、国会も、内閣も、裁判所も、私たち、国民を守ってくれるものは、もはや、何もない。
そのことは、昨年、7月31日、大島衆議院議長が、民主政治の危機を、国民に訴えていることからも明らかである。

いいですか、私たちの自由は、この選挙制度改革によって、風前の灯火、であることに気が付かなければならない。
年金制度も、確かに大事ですが、その前に、もっと大事なもの、それが選挙制度なのです。
何故ならば、年金制度を作るのは、選挙によって選ばれた国会議員、なのだから
今回の、年金2000万円問題で、明らになったように、現在の、与野党国会議員では、結局何もできない。彼らは、私たち国民のことを、何一つ考えてはいないのです。

皆さん、選挙制度が、侵害されている今、与党を支持する人、野党を支持する人、投票を棄権する人、その区別には、何の意味もありません。
そこには、「国民」しか、いないのだから

しかし、民主主義を守るには、所詮、制度では、限界があります。
国会議員、一人一人が、個の中に全体を見れる、国会議員に生まれ変わらなければならない。
そして、私たち国民自身も、個の中に全体を見れる、国民に生まれ変わらなければならない。

今回の選挙は、与党と野党の戦いではなく、国民と国会議員との戦いです。
いいですか、国民と、国会議員との戦いにおいて、与党も、野党も、へったくれもない。そんなもの、ただのクソです。
私たちは、国民として団結しなければならない。ましてや、棄権など、いいですか、棄権など、もってのほかです。

最後になりますが、私は、常に、皆様方、国民と共にありたい。
障害者雇用問題で、水増しされた、障害者の方々と、共にありたい。
そして、財務省による公文書改ざんで、事情聴取の翌日、非業の死を遂げられた、近畿財務局の職員と、共にありたい。
彼が最後に、家族に残したとされる「常識が壊れてしまった」この言葉は重い。
私は、常識を取り戻すため、そして与野党が、国民から奪った自由を取り戻すため、選挙戦を戦いぬきます。

有権者の皆さん、数におごる与党、野合を繰り返すだけの野党、私たち国民から選挙権を奪う彼らに、ノーを、突きつけるための一票を、ぜひ、私に下さい。
今の与野党国会議員、彼らでは、日本、そして世界を、変えることは、決してできない。
そして、私たちに、残された時間も、少ないのです。

   2019年7月4日  文責  玉田のりたか