一人の少女は、学校より環境を選んだ~大人たちは、環境より経済を選んだ

毎日のように日本国内、国際社会で様々な出来事が起こっているが、何一つ心に残るものはない。そこにあるのは、空虚で、稚拙な事実だけである。

そんなくだらない出来事が連日報道される中、想像力を失った専門家と称する人々が、そして自分たちのことしか考えることのできない経営者たちが、未来を語る能力のない政治屋、元政治屋たちが、ネット、テレビなどを通じて稚拙な議論(彼ら自身は論理的思考に基づいた議論だと確信している)を展開している。

そうした中で、一人の少女が、想像力を失った大人たちによって与えられた学校へ行くことよりもっと大切なものがあると立ち上がった。そしてその輪は、瞬く間に、160か国以上の国々に広がり、立ち上がった少女はアメリカに渡った。そして、トランプ大統領に会って話す暇があるのなら環境破壊を食い止めるための集会に参加すると、トランプ大統領に会う意味はないと面会を拒絶した。

一方、どこかのおバカな総理大臣は、尻尾を振って、足元にすり寄り、能天気に御馳走を食べ、ゴルフをしている。

一人の少女と、おバカな総理大臣を筆頭とする上記にあげた多くの政治屋や、経営者、専門家たちと何が違うのか。

私は、近代以降、人間が他の生物と違って神から与えられた理性に基づいて行動するとしてきたその理性の変質にあると考えている。人間は理性に基づき、市場経済を発展させ資本主義社会を形成し、法による統治、立憲民主主義国家を形成してきた。

それは、脳における大脳皮質、特に前頭葉の発達に起因している。人間は、怒りや、自己を守る攻撃的防御などの本来生物が持つ脳幹部から幼小児期にセロトニン神経を伸ばし、前頭葉を含む大脳皮質を発達させている。それによって、前頭葉機能である合理的思考、短期記憶、空間認識機能、そして生物本来が持つ自己防御機能である怒りなどの本能のコントロールも行ってきた。

前頭葉機能の発達によって、人間は上記にあげた市場経済に基づく豊かな生活、医学の発達による疾病から身を守ることができるようになってきた。そして現代社会においても世界中でより一層の経済的、医学的専門性を追求し続けており、幼少期から英才教育を施そうとしている。我が国における小学校での英語教育の必須化などはその最たるものであろう。
私が述べる現代社会における理性の変質とは何かということであるが、その前に、本来、理性そのものがそもそも存在しているのかという問題がある。

かつてフロイトは、人間というものは、いかに理性的に行動しているとしても所詮は性衝動の抑制に起因する無意識によってコントロールされており、確立した自我などというものは存在し得ず、理性とは幻覚にすぎないと言っているが、私もある意味で当たっていると考えている。即ち、自己防御的行動や、子孫を残そうとする性衝動などは、本来、全ての生物が持っている本能的な機能である。脳幹部機能と言ってよいであろう。それは、様々な生物、人によりその強弱はあったとしても、全ての生物において無意識的に、反射的に表れるものだと思う。

しかし、私は、それがすべてかと言うと、そうではないと考える。それを調整する能力こそが、前頭葉機能であると考えている。

現代社会において、一般的に理性と言われているものは前頭葉機能として捉えられているのではないかと思う。私は、そうした考え方が間違っていると思う。

私は本来の理性とは、脳幹部、そして脳幹部から伸びたセロトニン神経を含めた大脳皮質全体が理性であると考える。変質した現代社会の理性は、前頭葉機能に限局しており、現代人は先に述べた様に、科学的合理的思考を鍛えること、そうした思考方法に基づく経済学的、政治学的、医学的専門性の発展こそが、理性的な社会形成に役立つものだと錯覚している。

即ち、現代社会における理性においては、本能的機能との関係性が欠落している。いわゆる頭でっかちの状態に他ならない。その結果現代人における理性は、非常にもろくなっている。何故ならば、本能的機能を有する脳幹部とのつながりが弱く、一見すると科学的、合理的な思考に基づいた行動であったとしても、本能的な生きる力と結びついていないがゆえに壊れやすい。結果として、現代人は、理性に基づいた行動をしているつもりでも世界中で、戦争や、テロ行為を繰り返し、自然災害を引き起こし、多くの人の命が失われている。そして全ての人類を破滅に追いやっている。

ところで、本能的な脳幹部は、本来深く自然と結びついている。それが過去のブログでも述べているような自然との共通感覚である。生物の生存は自然を前提としており、共通感覚無しに生物は、自然の中で生き抜くことは困難である。

現代人の変質した理性は、上記に述べた様に自然と密接につながっている本能的機能と乖離してしまっており、結果として自然との共通感覚も失ってしまっている。それが、今回の一人の少女が立ち上がざる負えなかった理由だと思う。

自然を破壊し続け、多種多様な生物、人類自らの生存基盤を破壊続ける現代社会

理性的とされる現代社会の大人たちへの断末魔の叫びに他ならない。
私たち人間は気付かなければならない。
現代人が理性としているものは本来の理性ではなく、変質した理性にすぎないことを
一人の少女の叫びは、全ての人間が持っている本能の叫びであることを
本来人間が持っている真の理性の叫びであることを
それは、人間を含めた大自然の断末魔の叫びでもあることを

理性という精神活動と物質との関連については、近代哲学の父と呼ばれたデカルトの有名な「我思うゆえに我あり」という言葉で代表される近代以降、物心二元論的考え方が主流になっている。
すなわち自然におびえ、全てを神に委ねていた人間は、自然から人間を切り離し、世界は何でできているのかという命題に対して、精神中心の観念論、物質中心の唯物論を捨て去った。
その後も様々な考え方が出ており、その中の一つに唯脳論という考え方もある。精神活動を脳の機能としてとらえる考え方であり、心臓と血流機能、肺と呼吸機能などと同様に精神活動を脳の機能として捉えるものだと思うが、私にはこの考え方には違和感を覚える。血流や、呼吸などは所詮、物理的な評価であり、それと精神活動は同じ尺度で評価することは困難であり、その思考は所詮、合理的思考に他ならず、合理的思考という制約の中での発想にすぎない。科学的ではあるが、物質的、有限的思考にすぎない。
結局、私は、精神活動と物質とは、先にも述べた様に、人間の本能的な部分である脳幹部と自然との共通感覚でつながった言わば、観念論と唯物論が合体したものではないかと思えてならない。本来の理性に近いものであろう。

今回の一人の少女の訴え、行動は、本来の人間の理性的思考、行動に合致している。少女の思考、行動は、現代社会に組み込まれている大人たちではなかなか理解できない。
何故ならば、少女の理性が本来の理性であるのに対して、大人たちの理性は、変質した理性だからである。
 少女の理性は、先にも述べた様に生きる力の源である脳幹部と強固にながっており、自然との共通感覚によって、自然ともしっかりつながっている。
一方、大人たちの理性は、脳幹部とのつながりが弱く、自然とのつながりが弱い。結果として、頭でっかちの思考になりやすい。核抑止論、経済至上主義の下での軍需産業の繁栄、アメリカ、ロシアによるサウジアラビア、トルコの国々へのミサイル輸出合戦、それらに加えて政治的な駆け引きがシリア、イエメン、ソマリア、アフガン等々で行われている。確かに、個々の問題に対して、経済的、政治的な合理的な思考からは、政治屋や専門家、経営者の考え方が一見、理性的であるとされるかもしれないが、しかし、それはどこまで行っても変質した理性にすぎない。大人たちの稚拙な理性の下では、自己中心的な自分が生き残ろうとする脳幹部と、合理的思考の問題点を抑止する機能が分離しているために働かず、結果的に多くの民間人の犠牲を出し、自然との共通感覚も欠如しているために際限のない自然破壊をし続け、自然による淘汰としての自然災害による多くの死者、被害者を出し続けている。

少女にとっては、大人たちが与える大人たちが理性とするものを教育する学校より、自分たちの生命のよりどころである自然との共通感覚が重要なのであるが、大人たちは、変質した理性を教育する学校を優先しようとする。大人たちの変質した理性を変えない限り、どこまで行っても平行線である。

最近日本国内で起きた問題を例に上げて考えてみよう。
新たに就任した小泉環境大臣が、福島を訪れ、30年先にも生きている自分が責任をもって政治に当たることができる政治家であるというようなことを述べたことに対して、橋本元府知事が、国民はポエムを聞きたいのではない現実に何をするのかが聞きたいのだと発言した。又、松井大阪市長は、大阪湾に福島でたまってきている放射能除去水を流すために引き受けてもよいなどと発言している。
 確かに橋本氏が述べているように、小泉氏の発言は何の意味もない稚拙な発言であるが、元々現在の自民党政権いや、日本政治、世界政治の中で、何の現実的な発言などできるわけがない。一方で、橋本氏や、松井氏が推し進めているカジノを含めたIR構想などは、海外からの多数の観光客を想定しており、移動手段として最も地球温暖化を推し進める飛行機の利用をさらに推し進める政策に他ならない。又、汚水水処理にしても大阪湾は、彼らのものではない世界にもつながっているのである。自然環境レベル以下であるとも述べているが、所詮、科学的、合理的思考の域を出ていない稚拙な考え方である。根元的な問題は、原発を、核をどうするかなのである。彼等も所詮、合理的思考という変質した理性に基づいたポエムにすぎない。
 又、ドイツの議会での党首発言が報道されていたが、その中でメルケル首相のエネルギー政策発言に対して、ある党首が、ドイツが環境保護オリンピックで優勝するかもしれないが後に続く国はいないと述べていたが、現在の世界中の理性的とされる人類の現実を如実に表していると思う。

 私は、現在の我が国、世界の政治的、経済的、ほか全ての分野でのリーダーたちでは今起こっている人類、多種多様な生物の危機を救うことは不可能であると思っている。
 私が今までなしてきた裁判を通じての様々な訴え、又、ブログや、国会議員選挙を通じての様々な訴え、おそらく多くの人々は、専門性のない、政治経験もない稚拙な、現実を見ていない絵空事と思われていると思う。

 しかし、私は思うのです。皆様に問いたいのです。
今、日本、世界で起きていること、将来起きるであろうこと、そしてそれらに対して日本で、世界で政治屋、グローバル企業経営者をはじめとする経営者、各専門家が行っていること、それらが真の意味で理性的なことだと思っているのですか。

 最後にもう一度言っておこう。
私たち人間は気付かなければならない。
現代人が理性としているものは本来の理性ではなく、変質した理性にすぎないことを
一人の少女の叫びは、全ての人間が持っている本能の叫びであることを
本来人間が持っている真の理性の叫びであることを
それは、人間を含めた大自然の断末魔の叫びでもあることを

    2019年9月23日   文責   世界のたま

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