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劉暁波氏の死と共謀罪施行(他者との共存の否定)

H29年7月11日共謀罪が施行され、その二日後の7月13日劉暁波氏の死亡が伝えられた。

この二つの出来事は今の世界を取り巻く状況を如実に表している。

劉暁波氏の生前語っていたモットーである私たちには敵はいないという言葉。彼はこの言葉の中にどんな意味を込めたのであろう。彼は、彼自身を11年の長きにわたる長期拘留させた裁判官すらも、彼を拘留する刑務官すらも恨んではいけない、一生懸命に仕事をしている人間に過ぎないと語っていた。

こうして彼の死を、彼の残した言葉を考えたとき、名前は忘れてしまったが、戦時中に日本軍の捕虜となり終戦まで日本国内の収容所で過酷な環境の中で生き延び、アメリカへ帰国したのちに戦後すぐに来日し、日本中を回り、布教、心の安らぎを説いた一人の牧師を思い浮かべる。

劉暁波氏にしても、その牧師にしても、どんなに過酷な状態に貶められようと、彼らにとって、彼らを貶めた人たちは彼らの敵ではないのだ。彼らの敵は、全ての人間の心に潜んでいる彼ら自身の心の中にもある排他的な自己中心主義なのだと思う。

それは絶対的多数の下でも少数者の存在を否定しない民主主義に通じる心だと思う。習近平国家主席の下での中国は、自らの国家体制を否定する存在を認めず肝臓がん末期に至っている彼の唯一の最後の望みであったとされる自由で民主的国家での死すらも許さなかった。

劉暁波氏にとって、自由や民主主義とは生きてゆく上での空気のようなものなのであろう。最後に胸いっぱいに自由や民主主義を吸い込みたかったのだと私には思えてならない。

人間は生きているうちに空気の存在をあって当たり前なものとして忘れてしまいやすいのだと思う。今、世界中で、そのあって当たり前の存在である自由や民主主義が音もたてずに崩れていっている。

我が国においても組織犯罪処罰法の改正という形で共謀罪として監視社会、密告社会が始まっている。テロの防止という名目で国民の内心の自由が失われようとしている。ちょうどそれは刑務所という国家機関によって監視され生命的な安全は保障されているが、表現の自由、行動の自由が制限された塀に囲まれた社会に似ていると思う。

表現の自由、行動の自由の制限は必然的に民主主義を破壊する。手段としての民主制を失ったとき、人が人であるための核たる内心の自由も失ってしまう。内心の自由を失った人間はもはや人格のないただの器にすぎない。

私がこのブログを立ち上げ、日本国憲法の順守、自然との共存にこだわっているのは、現在ある日本国憲法が世界を取り巻く経済至上主義の下で生じている格差社会、そしてそれによって引き起こされている国家主権の脅威、民族紛争をはじめとする各地でのテロを含めた戦争、難民問題、そして私たち人類の存在基盤たる地球環境の破壊、その前兆としての自然災害、それらすべての問題に対する答え、即ち、人類にとっての指針を示しているからに他ならない。

私が現在存在する日本国憲法が人類にとっての指針であるとするのは、日本国憲法が絶対的に相対的であるからである。絶対的に相対的であることによって、自らを否定するものに対してすらも、その存在を許容しているのである。

このことは劉暁波氏が、私たちには敵はいないと言ったそのものである。

現在の非民主的な他者との共存を否定している政権である安倍政権は日本国憲法の改正、特に憲法9条の改正をしようとしているが、そのことは、日本国憲法が絶対的に相対的であることを放棄するものであり、人類の指針としての規範としての存在の否定である。

私たち日本国民、特に制憲権力を有する主権者として決して許してはならないことだと思う。

同時に内心の自由の制限につながる共謀罪に関してはその執行は決して許されてはならない、蓋し、それを認めることは日本国憲法が絶対的に相対的であることを否定することに他ならないからである。

私自身、組織犯罪処罰法の改正議決無効、その執行停止については、現在、広島地方裁判所に訴訟提起しており、残念ながら即時の執行停止の仮処分請求に関しては広島地方裁判所で棄却決定され、現在、広島高等裁判所に即時抗告しているが、7月11日の施行日までに判断が出されず、施行されてしまい現在、広島高裁においてその決定は保留中であるが、一刻も早い司法府の適切な判断を望んでいる。地裁への訴状や、高裁への即時抗告申立書の中でも書いているが、現在の政治状況の中、我が国の現代立憲民主主義制度において、司法府が最後に残された唯一の砦なのだから

劉暁波氏もそうなのだが、私自身も何故、民主制の崩壊や、他者との共存の否定にこだわり、敏感に反応するのかと考えたとき、おそらく自然との共通感覚のせいではないかと思う。

先日も九州で甚大な被害をもたらした自然災害、これらは毎年のように世界中いたるところで1年を通じて発生しており、その規模や被害も大きくなっている。昨日世界中で報道された南極大陸での史上最大の三重県ほどの大きさを有する氷塊の大陸からのかい離は、世界中で生じている異常気象そのものであり、経済至上主義の下で、アメリカのパリ協定からの脱退含めた環境破壊、地球温暖化への流れは、自然との共通感覚を失った人類のエゴであり、遅かれ早かれその結果は人類含めた生物の存在の否定という答えを導き出すであろう。

一見、自然との共通感覚と現代立憲民主主義は全く交わることのない関係ない事柄のことのように思われるが、私にとっては私たち人類が生存する上での不可欠の両輪であり、これら二つは原理的に深くつながっている。
 
最後になるが、劉暁波氏を失い、共謀罪が施行された今、私が思うことは、世界中、日本中の人々の一人でも多くの人が自然との共通感覚を取り戻し、現代立憲民主主義の下で、人々が自由に自己実現、自己統治ができる社会に向けて思考を停止することなく思考し続けることこそが大切なことであると思う。

経済至上主義の下で、国家主権が強調される世界において、法の支配の重要性を考えたとき、司法府の果たす役割は限りなく大きなものであり、その持つ意味は今後さらに大きなものとなってゆくであろう。

劉暁波氏のご冥福を心よりお祈り申し上げる。そしてあなたの死を、私たちは決して無駄にはしません。

  平成29年7月14日   文責   世界のたま

都議選と民主主義制度について(立憲民主主義の破綻)

先日7月2日に都議選が行われ、都民ファーストの圧勝、自民の大敗という結果に終わった。
今回の一連の流れの中で私自身が思うことを伝えておこうと思う。
今回の選挙結果自体については多くの方々が述べられているように国政の影響が色濃く表れていたと思う。というより国政の在り様への批判そのものであったと思う。

選挙結果以上に、そのことを最も象徴していたのが安倍首相が最終日に秋葉原で行った街頭演説であろう。何度もニュースで流されていたので知らない国民はほとんどいないであろう。

安倍首相が演説する中で大衆の中から辞めろ、帰れコールが沸き起こり安倍首相の演説がかき消されていた。

都議選というより安倍首相、政権への民衆の怒り以外の何物ではない。

何故こういったことが生じたのかを考えた時、私には何度もブログの中で今までも述べてきたことだが、我が国の現代立憲民主主義の破綻を垣間見ているようでならない。悲しい民衆の叫びに見えて仕方ない。

確かに選挙結果として多くの国民はある意味で溜飲を下げ、自民党の都連の幹部の辞職、安倍首相含めた政権幹部の反省の弁などがみられ、多くの人が今後の政権運営への影響は避けられないなどとの発言をした。

しかし、私には一連の流れの中で何一つ解決されたとは思えない。ただ単に我が国に起こっている現実を突きつけられたにすぎないとしか思えない。

それは我が国における現代立憲民主主義の破綻という事実であり、その限りない深さである。

本来、都議選もそうであるが地方選挙は、そこに住む人達にとって直接に関わる様々な教育、福祉、経済について考える場である。4年に一回の大切な住民の意思表示の場であり、住民自治という地方自治にとって最も大切な権利行使そのものである。

その大切な機会が、森友学園問題、加計学園問題、稲田防衛大臣の発言問題、下村都連会長の加計献金疑惑、豊田議員暴言問題というレベルの低い稚拙な国政問題のために、失われてしまった。本来なら東京都民にとって大切な日常生活に直結する様々な問題について判断する機会であったはずなのに

せめてもの救いは小池都知事が語っていた都議会の議決過程の透明化だとは思われるが、一方では中央と一緒で都議会による執行権者たる都知事へのチェック機能が機能するのかという問題も生じているのは事実である。

先にも述べたが今回の都議選の過程、結果の中で私が感じた我が国における現代立憲民主主義の破綻であるが、秋葉原での安倍首相の演説と、その大衆の一部から沸き上がった辞めろ、帰れコールの中に凝縮されている。

たとえそれらの辞めろ、帰れコールが前もって計画された人たちによるものだとしても、その意味において何ら変わるものではない。

それは民主主義にとって核となる説明責任の欠如なのである。説明責任のないところに民主主義は存在しえない。このことは経済至上主義の中で起こっている経済格差における説明責任がいらない世界と対極にある。経済至上主義の中では基本的に説明責任は不要だ。経済力のある者の発言がすべてである。そこには善悪の判断は存在しない。

説明責任の欠如は、経済至上主義を唱える安倍首相を筆頭とする現在の政界をはじめ、財界、教育界含めた社会全体にはびこっているし、日本のみならず世界中でこの現象は生じている。トランプ政権下でのアメリカも同様であり、トランプ氏が多用しているツイッターでの投稿は説明責任が不要の典型例である。

そういった彼らに特徴的なのがマスコミとのやり取りの拒否、マスコミ批判である。

彼らは立憲民主主義、代表民主制という概念を理解しておらず、というより彼らの思考の中にはそういった概念がもともと存在しておらず、永久に存在することもないのだと思う。だから彼らにそういった概念をもって理解を求めること自体が無理なのではないかとも思う。

彼らにとって正義とは自己が望むことを得られることであり、その対象の多くが富や名誉そして権力なのだと思う。他者との共存や、贈与の感覚はありえないのだと思う。

秋葉原での安倍首相が、辞めろ、帰れコールをあげる国民への「こんな人たち」という切り捨てた発言は如実にそのことを表している。彼にとって自分の望む考えに賛同するお友達のみが国民であり主権者なのだ。それ以外の自分の対極にある存在と共存しようとは思っていない。彼にとってシュプレヒコールをあげる人たちは国民でも主権者でもない「こんな人たち」にすぎないのだと思う。

私は今回の都議選を振り返った時、ただ単に安倍政権の驕りであるとか、国民の怒りが鉄槌を下したとかというレベルの問題ではないと思う。

小池さん率いる都民ファーストが大勝したところで、日本社会にとって何らの変化も生じていないのだから

私たち主権者である国民が今回の都議選で学ばなければならないこと、確認しなければならないこと、気付かなければならないこと、それは日本社会のみならず、経済至上主義の世界中で起きている現代立憲民主主義の崩壊の事実である。現代社会はその淵に立っているということである。

都民ファーストが何議席とろうが、自民党が、公明党が、共産党が何議席とろうが、安倍政権がどうなろうが基本的にはどうでもよいことだと思う。最も大切なことは私たち主権者が現在ある日本国憲法を制定した動機、思いに心を馳せることだと思う。

日本国憲法の条文に反して野党が要求する臨時国会を拒否する政府、政権与党は究極の説明責任を放棄しており、そのことは日本国憲法が立脚する立憲民主主義の否定である。内心の自由を含む基本的人権を守るための手段としての立憲民主主義の否定は、必然的に日本国憲法の目的である主権者たる国民の基本的人権への侵害を引き起こす。

その典型例が先日強行採決された組織犯罪処罰法の改正である。それによる私たち主権者の内心の自由への侵害は、おそらく間違いなく手続きたる立憲民主主義制度の更なる侵害を引き起こし、結果として日本国憲法が保障する他の様々な基本的人権への侵害を許してしまうであろう。

私たち主権者たる国民は、自己実現や自己統治といった私たちが日本国憲法を制定した目的そのものを失ってしまうであろう。

私たち主権者は、内心の自由への侵害をほんのわずかでも許してはならない。
内心の自由さえあれば、すべての他の基本的人権を失ったとしても手段としての立憲民主主義制度を通じて失った基本的人権を取り戻すことが可能なのだから

     平成29年7月4日   文責  世界のたま