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国家機関(国会、内閣、司法)へ告ぐ、日本国憲法を順守せよ!

 前回のブログを書いて以降、世界中で、日本国内においても新たな様々な出来事が起きたが、加速度的に人間社会の時間軸のスピードは速まっている。それは決していわゆる進歩だとか、発達だとかいうものではなく、歴史の巻き返しである。何故、人間は自然の時間軸の中で生き続けることができないのだろう。

何故人間は破壊、殺戮を繰り返すことでしか自然の時間軸に戻ることができないのであろうか。しかし、それができるのも自然の時間軸が存在すればの話で、自然の時間軸を失った時、人間の時間軸など存在のしようがないことを、私たち人間は忘れてしまっている。否、忘れてしまっているのではない。多くの人間は自然に対する共通感覚を失ってしまっているのだ。そして、たとえ自然との共通感覚を持っている人間がいたとしても、経済至上主義の中で他者との共存を否定し、現在を生きる自分自身のことだけを考え、将来の人たちのことに思いをはせることなどしようともしないのだ。

つくづく人間の愚かさを感じる。

我が国は、現代立憲民主主義国家である。即ち、国家統治の側面で言えば、立法府である国会も、行政府である内閣も、司法府である裁判所も、すべての国家機関は日本国憲法に基づいてのみその権力を行使できる。裏返せば、日本国憲法に反したすべての国家行為は、日本国憲法98条第一項「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」に反し無効である。

主権者たる国民の基本的人権の側面で言えば、我が国が現代立憲民主主義国家であるということは、国家を前提としない前国家的権利である思想、良心の自由、表現の自由などは法律の留保なく、人が人であるというだけで無条件に認められているということを意味する。日本国憲法第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」第21条「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」

戦前の日本も明治憲法の下で、立憲民主主義国家ではあったが、そこでの思想、良心、表現の自由は、法律の留保があり、法律をもってすれば、それらの基本的人権は簡単に制限を加えることが可能であった。そこが現代立憲民主主義憲法である日本国憲法との根本的な違いである。

そして最も重要なことは、現在の日本国憲法が、自主憲法であれ、他国によって与えられた憲法であれ、その起源に関わらず、我が国が現代立憲民主主義国家である以上は、すべての国家機関は現在存在する日本国憲法に反した国家行為することはできず、反してなされたすべての国家行為は無効である。そして主権者たる国民の思想、良心、表現の自由は絶対的に保障され、国家機関がそれらに対して制限を加えることも一切許されないということである。

今、日本で起きていることに関していえば、森友学園、加計学園問題がある。それぞれにおバカな安倍夫妻のおバカな公私混同した稚拙な権力の乱用問題はあるが、私がこれらに共通して最も重要で看過できない問題だと思うのは、主権者たる国民の絶対的な人権たる表現の自由への侵害である。このことは最終的に個々の国民にとっての思想、良心の自由への侵害に通じるものである。

森友問題では、おバカな安倍さんにとって都合がよいと判断された籠池理事長の国会での証人喚問は認め、重要な森友問題当事者であるおバカな安倍さんのおバカな妻に関しては私人であるという理由で証人喚問拒否を行っている。籠池さんもおバカではあるが私人であることに変わりはないのだから筋が通らない。

加計学園問題では先日、元文科省事務次官である前川氏が総理の御意向メモは事実であり、行政がゆがめられたとの記者会見を行った。

これらの二つの事件に対して、私たち主権者がおバカなりに考えておかなければならないこと、おバカであるがゆえに絶対に抑えておかないといけないことが私は二つあると思っている。

一つは私たち主権者が失ってはならない知る権利への国家機関による侵害が行われているということである。知る権利というのは言い換えれば、情報を得る権利のことである。私たちが物事を考えてゆくうえで何が最も必要であるかを考えた時、それは情報である。正確な情報がなければ物事を正しく判断できない。かつての共産主義国家がそうであったように、戦前の日本がそうであったように、大本営発表を信じた主権者たる国民が最後にどういう結末を迎えなければならなかったを考えれば誰でもわかることである。

森友学園問題では籠池氏の個人的な虚偽申請問題などを敢えてクローズアップして、私的な人格問題にすり替え、おバカな安倍首相、文科省、大阪府、維新の会、安倍昭恵夫人の公的問題から、国民の目をそらそうとある意味で情報操作、主権者たる国民の知る権利への侵害が図られている。

加計学園問題では元文科省事務次官の前川喜平氏が総理の御意向メモが存在していたことを記者会見で述べたが、そういった行動をとる可能性を察知した政権側がその前に前川氏の事務次官当時の出会い系サービス業への通い問題を彼らの御用新聞である読売新聞にリークしたことは、全国紙に一律に掲載されたことを考えればおそらく間違いのないことであろう。菅官房長官が記者会見で必死にこの前川氏の出会い系問題がいかがなものかと取り上げていたが、その表情、仕草を見れば、政権側が必死に加計問題を、前川氏の私的問題にすり替えようとしていること、裏返せば、政権側がおバカな安倍さんのおバカな長年の稚拙な人間関係でしかない加計氏のために便宜を図ったことをくしくも証明する形となってしまっている。前川氏自身もここまで記者会見するのであれば、敢えて教育と貧困問題の調査などと言い訳などせずに、ただエッチしたかったのだと言えばよかったことだと思うが、そこがエリートたるゆえんなのであろう。

もう一度言っておくが、ここで重要なことは、加計学園にしても、森友学園にしても、籠池氏や、前川氏の人格問題にすり替えようと政権側は意図しているが、国家機関による情報操作、主権者たる私たち国民の知る権利、表現の自由、思想、良心の自由への権利侵害が行われているということだ。

私は、これらの事件を考えた時、西山記者事件を思い出す。沖縄返還時に日本政府と、アメリカ政府の間で交わされた密約を西山記者が暴露した事件であるが、事件当時、その内容の真偽より、西山記者がその情報を入手した手段、すなわち情を通じての国家機密の漏えいが裁判所という国家機関においては問題視された。後にその密約の存在は明らかになったが、今回の二つの事件は国民の知る権利への国家機関による侵害という点で非常に共通している。

もう一点、私たちおバカな国民がこれらの事件を通して考えなければならないことは、今現在、国会で審議されている共謀罪についてである。このことは私たちすべての主権者が真剣に考えなければならないことなのです。国民一人一人が、その所属する政党、宗教、企業に関わらず、すべての国民が許してはならない法律だということです。

共謀罪については衆議院で強行採決され、現在参議院でアリバイ的な審議がされている。多少の修正がなされ、その適用範囲が狭められているが、個々の刑罰法規に関する改正ではなく、犯罪行為全般に対する総則的な改正であることに変わりはない。

先日書いたブログの中でもお話したことであるが、現在までに確立してきた刑罰法規の持つ私たちの生命、身体を含めた法益の保護と、国家によって不当な逮捕、処罰をされない自由の保護、その二つのバランスを大きく崩してしまうものだ。

主体が違法な団体であるとか、準備行為がなされることが条件であるとか、様々な処罰条件が設けられているというが、歴史を振り返ってみた時、実際の現実世界の中では拡大解釈されることは火を見るより明らかなことである。

また、元裁判官や元検事の方がおっしゃられていたが、令状を要するとされているが現実的には令状を出す捜査機関の判断が優先され、裁判官はそれを基本的には認めざる負えないと言われ、全く人権侵害への歯止めにはならないされる。実際にそうであろうと私も思う。

素人でも考えてみればわかるが怪しげな人、政権にとって都合の悪い人をメール等含めてでっち上げ、共謀の疑いがあるとして令状を作成し、逮捕した後自供を作り上げることは共謀という外見からは見ることができない内心を犯罪の構成要件にすることでいとも簡単にできてしまうことなのです。そして共謀者と思われたくないためにおそらく罪に陥れられた人に対する証言を多くの人たちが拒否し、距離を置こうとするであろう。誰一人として如何に長年の友人であったとしても署名活動などして擁護することは不可能になってくるであろう。

今回の二つの事件は国民の表現の自由、知る権利に対する国家機関に対する侵害であり、このことは、共謀罪という内心の自由への国家機関からの侵害に直結していることなのです。

表現の自由、内心の自由などの人が人として生きてゆくために不可欠な権利である最も大切にしなければならない国家が存在する前からの前国家的な権利である精神的自由権を私たち主権者は命を懸けて守らなければならない。

精神的自由権を失ったとき、国家機関による制限を受けた時、自由な政治活動は許されず立憲民主主義は崩壊し、一部の権力者のために人は闘い、多くの人たちの尊い命が失われてしまうであろう。

確かに先日イギリスで起きたテロ含めて世界中で起きているテロを恐れ、そのためには共謀罪が必要で、犯罪を未然に防ぐという政府の理論は一見正論に思える。

しかしながら、表現、内心、言論、集会、結社の自由に対する国家機関による制限は、最終的には民主主義社会を崩壊させ、テロ以上の何万という人々の犠牲を出してしまうことは明白な事実であり、そのことは歴史が証明している。日本の歴史を振り返っただけでも日露戦争以降、勝利を称える報道によって各新聞社は部数を伸ばし、満州事変後、戦争に対する異議を唱えていた大手の新聞社はほぼすべてが戦争賛美に変わってしまった。大阪朝日や大阪日日などはある程度抵抗したが、新聞不買運動の中でその方針を変え、賛美に回ってしまった。平民新聞などの最後まで戦争に異議を唱えた新聞社は弾圧の中、廃刊に追い込まれてしまった。そんな言論統制の中で、何百万という日本国民の尊い命は失われ、戦争責任者である人たちは生き残り、おバカな安倍さんの祖父もその一人であった。

所詮、権力者は国民のことなど考えてはいないのである。今の安倍政権もそうであり、麻生副総理のナチスを真似ればいいという発言、ある自民党議員のマスコミをだまらせるには広告を出さないようにすればよいという発言、それらの発言は彼らの本音であり、今回の二つの国民の知る権利への侵害がなされたことはたまたまではなく必然であり、それらはこれから私たちおバカな国民へ降りかかってくるもっと大きな事件の序章に過ぎない。

テロ自身についても私たちは恐れるのではなくその起こる原因を考えなければならない。前から何度もお話ししていることだけれど、その原因の多くは経済至上主義による格差社会、贈与の否定、他者との共存の否定にあると私は考えている。

そしてテロから身を守ると宣伝されている共謀罪が先にも話したように、所詮は主権者たる国民の内心、表現の自由を侵害し、結果として政治活動は制限され、民主主義は崩壊し、時の国家権力の維持を図り、そして森友学園や、加計学園含めた、時の政権を維持し、支持するお友達のみを優遇する社会、すなわち更なる格差社会の形成が行われ、その結果としてテロは減ることはなく一般社会に広がってゆくであろう。

もう一度言っておきます。私たち主権者たる現在の国民はおバカであるけれど、これだけは決してしてはならないこと

私たち主権者は決して思考停止してはならない。

最後に一言、国家機関に告ぐ、日本国憲法を順守せよ!
日本国憲法は、私たち主権者のものである。国家機関は黙ってそれに従え!

   平成29年5月29日   文責   世界のたま

憲法とは(憲法を失った国家、日本)

今年の憲法記念日以降、様々なことが日本国内、世界で起きているが、そんな中で私が思うことは、我が国が実質的な意味での憲法を失ってしまったということだ。

そもそも私たちは何故、憲法記念日という日を作って祝日にしてきたのであろう。今年の憲法記念日にも様々な集会が全国で開かれて、安倍さんも元首相の中曽根さんと一緒になって憲法改正、日本人による憲法を作ろうと持論を述べられていた。そんなことであれば、彼らは何故、今まで憲法記念日などといって現在の日本国憲法を祝す祝日として国旗を掲げ続けてきたのか。私には彼らの言動が全く理解できない。

私がここまで言うのは、彼らが現職の内閣総理大臣であり、内閣総理大臣経験者であるからだ。

現在の日本国憲法第99条では、内閣総理大臣やその他の大臣、国会議員、その他の公務員には憲法尊重義務が課せられている。彼らが行っていることは本来、現憲法に違反した違憲行為である。

彼らは言うであろう。一個人としての発言である。日本国憲法において各個人には思想、良心の自由が保障されていると。若しくは憲法99条は倫理的な意味しか持たない法律的な規定ではないと。

果たしてそうであろうか。そもそも憲法とは国家の基本法である。国家の基本法とは主権者である国民の基本的人権を守るための国家の統治機構、その制約、および保障されるべき人権を規定したものである。

言わば、憲法とは一人一人の人間がその自由、平等を守るために、長い年月、そして多くの代償を払いながら獲得し、たどり着いた人類の英知である。

私に言わせれば、確かに内閣総理大臣や国会議員や公務員は憲法的には主権者でもあるが、他方99条によって憲法に反する言動に関して制限される権力側の人間である。それ故、もし彼らのそういった言動が憲法上許されるとするならば国会という公の場での憲法改正の手続きにおいての発議という形でしかあり得ないはずである。それが現在の日本国憲法の要請である。

それができないというのであれば、あくまでも主権者としての自由な発言を望むのであれば、99条の関与しない内閣総理大臣を辞職して単なる主権者という立場に帰して発言すべきことである。

彼らが主張している99条は倫理的規範であり、法律的な意味での強制的な規範でないという言い分に関して言えば、同じようなことが憲法の基本書などにも多く書かれているようにも思うが、そもそも憲法とは何なのを考えてみるべきだと思う。

日本国憲法はきちんとした前文から始まり各条文が収められた憲法典という成文憲法の形をとっているが、世界で見るとイギリスのように憲法典を持たない不文憲法国家もある。それではイギリスが立憲民主主義国家ではないのか、主権者の権利は憲法上、保障されていないのかと言えばそうではない。逆に言えばイギリスは人権発祥の地でもある。他方で形式的な憲法典を持っていても国民の基本的人権が保障されていない国家もある。

私が言いたいのは、そもそも憲法にとって重要なことは文章になっているかどうかではないということだ。文章という形になっているだとか、文章になっていた場合にその順番だとか、本文ではなく前文であるだとか、その形式はどうでもいいということだ。

現実の法律の世界の中ではよく日本国憲法前文は具体的な裁判規範ではなく、各条項を適応する上での解釈基準であるなどと言われることがあるが、憲法というものを考えるとき本当に大切なのは法意であると思う。本文であるとか、前文であるとか、条項の順番であるとかは本当の意味ではそれほどの意味を持たないと私は思うのです。

本来の意味での憲法記念日とは憲法典という、形式的な部分について語るのではなく、憲法とは何なのか、主権者にとって憲法の存在意義、人類が憲法という規範を持つに至ったその過程を再認識することに意味があるのではないかと私は思う。

主権者ではなく権力者が憲法改正を持ち出すとき、憲法典としての憲法の条文の改正にこだわるとき、それは主権者の基本的人権への制限がなされる時だと私は思う。

憲法とは、憲法典として成文化されていようが、不文化の状態であろうが、その形式に意味があるのではなく、権力から主権者の基本的人権を守る核心そのものに意味がるのだと私は思う。

違憲状態の国会議員によって選出された違憲状態の内閣総理大臣が日本国憲法99条に反した憲法改正の違憲行為を平然と行い、それがまかり通ってしまう現在の日本という国家にはもはや立憲民主主義的な意味での憲法は存在していない。たとえ形式的な意味での憲法典が存在していたとしても何の意味を持たない。そしてそれらを改正しようがすまいがそれ自体もまた何の意味も持たないのである。

そうした実質的な意味での憲法を失った国家がどういった末路をたどるのか、それもまた何度も歴史が証明してきたことだと思うし、そして同様に証明するであろう。

  平成29年5月12日   文責   世界のたま