月別アーカイブ: 2016年8月

貨幣、経済という麻薬による消費中毒社会(3)(解毒とそこからの脱出)

麻薬中毒患者になり果てたおバカな政治屋、官僚、企業家と消費中毒患者となり果てた主権者たる国民、そんな現実の中でどうやってこの消費中毒社会を解毒して、そこから脱出して、人類の滅亡の危機を乗り越えてゆけばいいのだろう。

この問いに対しては果たして人類の滅亡がそんなに悪いことなのか?という問題もある。地球環境にとって、人類以外の生物にとって、人類ほど不要な存在はないであろう。そういった意味で危機を乗り越える必要はないという考えも私自身否定はできない。

このまま何もしなければ勝手に、自然災害、飢餓、疫病、戦争、放射能汚染などで人類の滅亡は間違いなく成就されることであろう。

ただ一方で、私自身含めて教育、社会の中で植え付けられた近代以降の人間中心主義という考え方を否定する考え方にたどり着くことができるならば、人類が存在する意味はあるとも思える。

結局、人類の危機を私たちが乗り越えることができるとするならば、そのこと自体、人類が生き残る価値があったという証左なのだから

冒頭の問いであるが、前々回のブログ(1)で書いたが消費中毒社会の結末、そして前回のブログ(2)で書いた消費社会中毒の原因、それらの結末と原因をしっかりと認識することが大前提であるが、その上で私たちがどうすべきなのか私自身の考えを述べておこうと思う。

大きく分けて政治、経済、教育について述べておく。その中での順番であるが、すべて関連性があり、基本的に分けて考えることは不可能なことであり、どれが重要というものではない。全てが一つなのだから。ただその中で源流として経済から述べなければならないと思う。

経済関連についてであるが、まず貨幣、経済はそれ自体全く何ら価値があるものではなく、私たち主権者たる国民の生存を確保するうえでの単なる手段にすぎず、それ以下でも、それ以上のものではない、決してそれらを目的としてはならないという価値観を共有しなければならない。そして経済成長は、私たちが豊かに暮らしてゆくうえで全く必要がないものであること、手段としての貨幣、経済がありさえすればよいこと、それがすべての大前提であり、この前提を抜きに考えることはできない。

その大前提のもとで現在の社会を見直してみることから始めるべきだと思う。
そうしたとき、私たちが最も価値を置かなければならないのは、手段としての貨幣、経済を取り除けば、空間としての自然の豊かさ、時間としての自分が自分自身のために生きる時間、そして物質的な物ではなく精神的な人間関係であることに気づかされる。

それらを、大切に守ってゆくためには何が必要であるかと考えたとき、自然の豊かさのためには地球温暖化、大気、海洋汚染、砂漠化を防がなければならない、そのためにはエネルギー消費の削減が不可欠である。まずは、不必要な経済成長はやめて、過剰な生産、消費をやめることである。現実的に我が国日本を考えても多量の食料が廃棄処分されている現実は誰もが知っていることである。

政策的には現在進められているグローバリゼーションという考え方は消費エネルギーから考えたとき非効率であり、ローカリゼーションへの政策転換が不可欠である。なるべく小さな規模、組織内での物流にすることで莫大な物資の輸送のための消費エネルギーの削減が可能となる。24時間営業なども考え直すことで過剰な消費の抑制につながると思われる。

前回のブログでも述べたが、消費中毒社会を強化させる媒体としてのコマーシャル、宣伝についても過剰消費があって初めて成り立つものであり、過剰消費を様々な形で無くしてゆく中で必然的に消退してゆくであろう。

過剰消費がなくなる中で産業構造も変化してゆくことになるであろう。自然エネルギーを中心とする産業構造への変革、特にローカリゼーションの中で輸送の媒体としての地球温暖化の大きな要因である自動車産業を縮小してゆくことは変革の中心となるであろう。

労働環境についても個々人が経済という呪縛から精神的にも肉体的にも開放されて自分自身の時間を持てるような社会を目指すべきであろう。産業構造のローカリゼーションの中で人々の人としての新たなつながりも出てくるであろう。

政治的には、私自身が、ブログや、訴訟や、選挙活動の中で訴えてきたし、今もこうやって訴え続けているのではあるが、私たち主権者が失ってしまった立憲民主主義を取り戻すことが可能になるであろう。

貨幣、経済が目的化され、特に1980年代以降、経済至上主義、新自由主義の中で、企業がロビー活動、特に政治献金を通じて、政治的影響力を増し、国権の最高機関たる議会への影響力を行使して、有利な税制度、経済政策を推し進めてきている。2000年代に入ってもアメリカの連邦裁判所判決において、無制限の企業献金を認める判決が下されるなど、その勢いは止まることはない。

わが国においても多数を背景に、政党助成金と引き換えに一度は禁止した企業による政治献金の再開、それにとどまらず、議員による企業からの賄賂としか言いようのない裏金の授受、特にTPP交渉担当の甘利元大臣の金銭の授受など、企業により議会制民主主義が捻じ曲げられ、言わば乗っ取られているともいえるであろう。貨幣、経済が手段化される中で、本来の議会制民主主義の回復も可能となってくるであろう。

政治構造的にも、ローカリゼーション産業構造の中で、中央集権国家から、地方分権国家への転換が図られなければならない、現在中央政府、中央議会が有する様々な権力も可能な限り地方へ分権化し、国防、外交以外は基本的に地方へ権限移譲して、中央はその全体調整役に回ることになるであろう。

地方分権化することで、憲法上は、全国民の奉仕者である国家議員が現実的には出身地方や選出元の団体にいかに予算を持ってくるかに終始している現状を打破して、真の意味での立憲民主主義に基づいた国家のための、主権者のための国政を行うことができるであろう。

地方から見たときには地方分権により、地域の自然、環境に基づいた政治、経済、教育政策を行うことができ、政治責任論的にも現在の権限あって責任なしと言ったおバカな政治屋、官僚政治から脱却することが可能となるであろう。

教育についても、貨幣、経済を目的とする産業、政治構造の変革、地方分権化の中で、真にその一人一人の能力にあった教育環境の提供され、その教育目標、子供たちの能力評価指標も貨幣、経済からの呪縛が解かれて様々な評価指標が取り入れられてゆくであろう。

自然環境の回復の中で、自然とともに共生することの大切さ、ローカリゼーション化の中で人と人とのつながり絆の大切さ、譲り合い、助け合いの心の回復が教育の中で育まれてゆくのだと思う。

そして、そうした教育を受けた子供たちの心の回復が、地方から、日本全国へ、そして世界の人々の心の回復を成し遂げ、世界のすべての人たちが自然の中で共生できる社会へとつながってゆくことができるのだと私は確信している。

  平成28年8月31日   文責  世界のたま

貨幣、経済という麻薬による消費中毒社会(2)(貨幣、経済に本質的な価値はない)

安倍首相をはじめとするおバカな政治屋たちや、おバカな黒田日銀総裁が盛んに推し進めているアベノミクス、GDP600兆円目標、消費者物価指数3%目標、そのために国民に対してさらなる消費拡大を訴えているが、まともではない。

私たち主権者たる国民は、彼らが重症な麻薬中毒患者であることをしっかり認識して、私たち自身が麻薬中毒化することを防がなければならないし、中毒患者に対しては、その解毒が図られなければならない。

前回のブログで述べたように、貨幣、経済は人間が手段として発明したものであり、それら自身に本質的な価値はないのです。人間が社会生活をしてゆく上で、単なる手段として必要なだけなのです。

近代以降、人間中心主義の中で、資本主義が発明され、その過程の中で、手段の目的化が起こり、貨幣、経済そのものが目的化され、貨幣、経済そのものに価値があると人々に錯覚させるすり替えがなされたのです。

当然その中で、富の集中が起こってくる。より多くの貨幣を持つものが、より多くの物を得ることができるのだから。

他方で、多くの人々にとって社会生活するうえで、生きてゆくために手段としてのある程度の貨幣が必要であり、そうした中で必然的に貨幣を所有する量により人間の主従関係が形成されるようになり、それが現代でいう所得格差、貧富の差である。

それでは、元々、単なる手段でしかなかった貨幣、経済を目的にすり替えるため、現代にいたるまでその強化が何によってなされてきたかであるが、それは教育に他ならないと思う。

私は、現代の目的化された貨幣、経済を前提とした学校教育が、それらの手段の目的化の強化の元凶であると思っている。貧富の差は、お金がなければ塾や、専門学校や、大学などの教育を受けられない格差を生んでおり、その教育の格差は、最終的に現在の経済社会の中での貧富の差に直結している。

学校教育の中では、戦後の高度成長により現在の経済大国となった技術大国日本を称賛し、その過程の中で起こる公害問題も技術で乗り越えてきたことを称賛し、所得格差の問題も、問題として触れることはあっても、それらの元凶が、現代の目的化された貨幣、経済にあるということには言及されることはなく、あくまでも現在の目的化された経済を前提に、その中での是正を、どうしてゆくかという社会福祉政策にすり替えられている。

そうした中で、現在の目的化された貨幣、経済社会に何の疑問を持たない従順な人間の再生産が行われてきたのだと思う。

そして、貨幣、経済という麻薬によって、あるものは数多くの無駄な公共事業という麻薬、またあるものは補助金という麻薬、そしてあるものは減税といった麻薬、日銀による異次元の金融緩和という麻薬、数多くの様々な麻薬によって消費が促され、国民は消費中毒に陥る。

国民が消費中毒から目覚めないために、貨幣、経済至上主義という麻薬が切れないように、それらを支えているのがコマーシャル、すなわち企業の宣伝活動である。

テレビ、ネット、看板など様々な媒体を通じて新たな新商品や割引商品を宣伝し、消費を促し、国民の消費中毒症状の強化を24時間、365日図っている。結果的に必要のない過剰の生産、消費を起こさせる。

教育によって、貨幣、経済を目的化した、経済成長する社会こそが、豊かな社会であり、その経済成長を支えるための新たな技術開発、新薬開発、商品開発ができる人間、それらを多量に売りさばける人間が優秀な人間であるという観念を植え付け、広告、コマーシャルによってそれらを消費することの欲求を洗脳する。いわゆる大量生産、大量消費社会を作り上げているのである。

その結果として、自然破壊による地球の温暖化、海面上昇を引き起こし、多量のエネルギー消費による廃棄する場所のない多量の放射能廃棄物を生み出し、将来人間にとってどんな影響を起こすかもわからない遺伝子組み換え食品を多くの子供たちが食べさせられ続けている。寿命とは何なのかも考えないまま破綻しかあり得ない医療、介護保険制度を、医療、介護従事者、製薬メーカーのために、政治的、経済的観点からのみ延々と続けている。出す必要もない医療、介護廃棄物によって地球環境を加速度的に汚染し続けている。

金融、財政政策においても、株価、消費者物価、GDPなどそれ自体何の価値もない経済指標を目的として、将来の国民につけを回して赤字国債を発行し、金融緩和政策を実行し、国民の将来の生活の基金である厚生年金基金を法律改正までしてその投資可能割合を引き上げ、株式投資に使い、結果として今年3カ月だけでも5兆円以上の損失を出している。年金基金を株式に変えることは実際問題として株価が下がるため売ることはきわめて難しくなり、損失以上に年金として給付できなくなってしまうことはバカでもわかることなのに。

これらはすべて貨幣、経済という手段を目的化しているがために起こっている事象である。

貨幣、経済という麻薬により中毒患者になってしまっている安倍総理を筆頭とするおバカな政治屋たち、黒田日銀総裁を筆頭とするおバカな官僚たち、そして、経済至上主義、消費こそが美徳とする消費中毒患者になれはててしまっているおバカな私たち主権者たる国民

私たちは気が付かねばならない

貨幣、経済とは単なる手段であって、決して目的ではないのだということを
貨幣、経済自体には何の価値もないことを

私たち主権者にとって、生きるための手段としての貨幣、経済があればいいのであって、経済成長自体は全く必要のないものであることを

あくなき経済成長、消費社会の向こうには、人類の滅亡しかないことを

   平成28年8月30日   文責   世界のたま

貨幣、経済という麻薬による消費中毒社会(1)(その先に待ち受けているもの)

全国的に猛暑日の続く今までにない暑い夏、8月が終わろうとしている。
今月も世界を見渡してみても明るい話題はない。シリアでは相変わらずロシア、アメリカなどの国々が爆撃を続けて数多くの子供たちがその犠牲になっている。トルコでもテロ事件が相次ぎ、イタリアでは地震による数多くの犠牲者が亡くなられ、その数は増え続けている。

私がこのブログを立ち上げ、立憲民主主義に反する日本国政府、議会を司法に訴え続け、参政権を行使して、国民に訴えたのも、私たち人類の生存の危機がもうそこまで来ており、時間が残り少ないからであるが、世界でも同様に考えている有識者たちの予想では、人類の終焉が2060年頃であるとする予測、英国王立天文学者である「最後の世紀」の著者は、人類が21世紀を生き残る確率は二分の一であるとしている。生態学者である「ガイアの逆襲」の著者はその中で、文明の生存するチャンスはほとんどないとしている。

2060年ごろまでに人類の終焉が来るという予想に関しては私自身、どうかと思ってはいたが、実際のところ最近ではあながちないわけではないと感じている。

2年前、このブログを立ち上げたときに書いた冒頭の主権者への提言の中からずっと言い続けていることであるが、人類の滅亡への道を突き進んでいる原因は、手段の目的化である。

近代以降、人々は貨幣を媒介とした交易を盛んにして経済社会を作りあげてきた。その中で人々はより便利なものを開発して、より多くの物質的な富を蓄積しようとしてきた。特に資本主義社会においては企業の利益が最優先され、アダムスミスが言うように、企業の利益が上がることで万民が最終的に豊かになるという、今でいうトリクルダウンが信じられてきた。

人間社会の中で物のやり取りを含めた交流は不可欠であり、そういった意味で経済活動は手段としては不可欠なものであったが、貨幣含めた経済活動そのものが目的化されてしまい、企業利益を上げることが社会的な善とされ、自然は破壊された上、生き残った生物、環境そのものもその希少性ゆえに重宝がられ、その希少性そのものを、経済活動の中で利用するという世の中のすべての物を金銭的な尺度でしか評価しない社会になっている。

貨幣、経済そのものは、手段として人間が作り出したものであり、どこまでいっても本質的には目的にはなりえない。

一部のものによる富の蓄積、その更なる蓄積のために、貨幣、経済が目的化されてしまっている。一方で人々が生活し生きてゆくためにも最低限度の手段としての貨幣、経済は不可欠なものであり、結果的に目的化した人たちによる手段として生きる人々に対する支配、所得格差、貧富の差が生じる。

それでは富あるものが幸福であるかというと、彼らが幸福と錯覚しているものは所詮、それ自体は全く価値のない単なる貨幣、経済の蓄積である。それらを価値あるものとし続けるためには貨幣、経済の目的化が不可欠なのです。貨幣、経済が本質的に何の価値もないものと認識されれば自分たちの優越性が消失してしまうのだから。

そういった意味で富あるものも、貨幣、経済という麻薬に毒された重度の中毒患者でありそれらに利用されているGDP、株式相場というそれ自体意味のない空虚なものに踊らされおバカな国民に更なる消費を促すおバカな安倍総理を筆頭とするおバカな政治屋、おバカな日銀の黒田総裁も重症な中毒患者である。

そして私たち主権者たる国民も、かけがえのない自然という空間、そして本来は自分自身のために使うべきかけがえのない時間と引き換えに、家や、車や、洋服、食べ物、貴金属というエサにつられて彼らと同様に、結局、貨幣、経済という麻薬に毒され、消費中毒患者への道を歩み続けている。

そして、貨幣、経済という麻薬に毒された多数を占める消費中毒社会が向かう行き先に待っているもの、それは、人類の終焉であり、文明の消失である。

    平成28年8月29日   文責  世界のたま