Monthly Archives: 9月 2015

プライドをなくしてしまった国家、日本

アメリカ議会での演説、戦後70年談話など世界に向けて安倍さんは言葉を発した。

 

彼にとってはプライドをかけた一世一代の演説、談話だったかもしれないが、あれほど日本という国家、国民にとって恥ずべきプライドをなくした出来事もなかったかと思う。

 

両演説、談話を通じて言えることは、戦後のアメリカ占領政策が未だに、そのまま続いており、日本という独立国家は存在しておらず、アメリカの属国、もしくはアメリカの一つの州に成り下がったというか、好んでならしていただいてると言わんばかりの宣言であった。

 

安倍さんはじめ、それを取り巻く人々は、さかんに日本国憲法が押し付けられた憲法だと言っているが、現実に存在している国家、日本国、並びに日本国民を、アメリカにそのままそっくり差し出している自分たちの愚かさは棚に上げている。

 

日本国領土、領空でありながら立ち入りが許されない、裁判権すら制限されている現実、どこに主権があるのか、国家としての、国民としてのプライドがあるのであろうか。

 

プライドとは何かを考えることがある。

 

よく人はプライドが傷つけられたとか言うことがあるが、多くの場合、本当の意味でのプライドではないことが多い。

 

プライドではなく世間体、社会的評価のことが多いいのだ。

 

私は思うのだが、本当の意味でのプライドとは世間から外部から傷つけられることはないものだと思う。言い換えれば、傷つけることがそもそも不可能なものなのです。

 

たとえば、かつてアウシュビッツにおいて人権をはく奪されたユダヤの人達にとって私は彼らのプライドは決して傷つけられることはなかったと思う。彼らにとってのプライドは彼ら自身の中にだけあり、死の淵まで決して傷つけられることなく存在していたと思うし、そのプライドの中で死を迎えたと思う。

 

本当の意味でのプライドとは他者が害することはできないものだ。もし、プライドが傷つけられることがあるとすれば、それができるのは、己自身でしかないのだ。

今回の演説、談話にしても、己自身の自己実現、自己統治という自主独立の思いは全く見られず、終始、過去に縛られ、そこから抜け出ることもできず、そこにあるのは、他者への追従、盲従だけだ。

 

主権者への提言の中でも述べたことだが、個の中に全体があると思う。国家を構成する主権者である国民一人一人の中にこそ世界全体があるのです。

 

人が生まれつき持っている本来のプライドとは、個の自己実現、自己統治そのものなのです。国民一人一人が、個のプライドを大切にするということは、個の中にある全体を大切にすることにおいてのみ実現できることなのです。

 

積極的平和主義とは、個の自己実現、自己統治が実現可能な世界を築くことなのです。そのためには個の中にある全体、言い換えれば、他者の自己実現、自己統治を図ることだと思う。

 

我が国、日本が、今なさねばならないこと、それは見せかけの平和を演じることではない。たとえば、オリンピックとは、本来、平和の祭典である。積極的平和主義を掲げるのであれば、本来のオリンピックの意味を世界に問い直す機会として使うべきであるが、日本の偽政治者たちは、ただの経済効果を生み出す道具としてしかみていない。

 

その結果として、競技場、ロゴマーク、ドーピング問題、様々な稚拙な事柄が、必然的に起きており、そのことは、現在の我が国が、見せかけの平和主義、民主主義国家でしかないことを証明している。そのことは、これらオリンピックを含む現在の政治を推し進めている偽政者たちが、それぞれ個の中に個しか見ていない裏返しでもある。

 

私は今、誰一人責任を取ることもなく無理やり押し進められている東京オリンピックは、もしするのであれば既存の施設を利用して、これ以上くだらない意味のないこ時間とお金を使うことはやめてそのお金を難民問題など他の用途に使うべきではないかと思う。

 

国民一人一人が個の中に全体を見ることができる社会、それこそが立憲民主主義に根ざした国家であり、プライドのある国家なのである。

 

2015年9月8日  文責  世界のたま           sign

現在の日本政治とナチス政治

特定秘密保護法の議決以降の日本政治の流れを見ているとふとナチスがかつて行っていた政治手法を思い浮かべてしまう。

 

かつてヒットラーが政権を握るため何度も議会の解散を繰り返し、ある意味では国民の選挙疲れの中で多数を勝ち取っていった。

 

昨年度の衆議院解散も結局、安保法含めた国民の反発を見据えて、最高裁での違憲状態の是正判決をも無視し、2年という任期もありながらさらなる4年という任期を得るため行ったのだということは明白である。

 

結局、今回の安保問題もそうであるが、多数の民意を無視した違憲な法律を強行議決するために、違憲状態での選挙を強行するという立憲民主主義のかけらもないナチスが政権を取った過程に酷似してきている。

 

国民のあきらめの中でそれらの政治工程を淡々としてゆくというその核心のない軽薄な政治行為も非常に似通っている。

 

地方に目をやっても莫大な費用をかけて行った、都構想の住民投票結果を、真摯に受け止めることもなく、まだ投票から間がないのにもかかわらず、性懲りもなく自分たちの主張が通るまでごり押ししようとする軽薄な政治行為をし続ける姑息な政治屋もいる。

 

彼らに共通しているのは自分たちの主張が通れば民意であり、民主主義だと叫び、少数者を無視する。彼らには正々堂々と国民と向き合う気持ちはない。

 

国民の反対が予想されれば憲法改正ということから逃げ、法制局長の首を変え、憲法判例解釈を勝手にして、憲法解釈の変更という姑息な手段をとる。

 

政党を私物化して、民意を欺き、姑息な手段で自らの政治的欲望の実現を図る。

 

彼らにとって少数者に対する思いやりは存在しない。

 

立憲民主主義を理解できないものに何一つできることはないことを、彼らは学ぶであろう。

 

2015年9月3日  文責  世界             sign

政党政治の崩壊を迎えて

ちょうど1年前に私は、このホームページを立ち上げ、8月のブログの中で、たかり集団化した政党について書いたことがある。

 

その後、一年を経過して今私が思うことは、我が国における政党政治の崩壊だ。

 

本来、政党とは何かと言うことだが、政治に国民の意見を反映させるための手段である。あくまでも世論をまとめ、それを実現させるためのものである。

 

現実がどうかと言えば、政党国家化現象が生じてしまっている。

 

政党国家化現象と言えば聞こえはいいが、内実は小選挙区制度や政党助成金、企業献金の再開など相まって、詐欺集団化していると思う。

 

国政選挙で訴える国民受けのいい内容を盛り込んだマニフェストはほとんど達成、実現されることはなく、多数を取った瞬間から、マニフェストにも上げていなかった事案、マニフェストの片隅に入れていた事案等を、さも選挙において国民の多数の同意が あったと言わんばかりに強行採決で議決してゆく。

 

そこには世論をまとめ、それを実現するという政党本来の姿はない。

 

特に今の政権与党である自民党について言えば、小選挙区制度の下でその代表者である総裁に公認権、政党助成金や企業献金の配分権があると思われ、今回の総裁選でもそうだが誰一人総裁にたてつくものが出てこない。この実態は組織化された詐欺集団、暴力団組織そのものに他ならない。

 

過去の歴史をみてみても国民の生命、自由という人権が踏みにじられるとき、その前に、手段としての立憲民主制が踏みにじられる。

 

私が一年前、このブログを立ち上げたのも、人権保障手段としての立憲民主制、国会と内閣との抑制と均衡、政党政治、そして唯一の国民の権力的契機である国政選挙すらもが、時の政権、それらに群がる一部の人達の権力や資産の維持の手段に成り下がってしまったからに他ならない。

 

この政党内での民主制の欠如は与党だけではない。最近起きたことでは、野党である維新の党も同様である。維新の党として国民から議席をもらってまだ半年である。その幹部が好き放題に離党したり、他党との合流、新党結成を図っている。

 

今の国会議員が真の意味で国民の代表者とは言えない。

 

日本国憲法上、国会議員は政党人である前に国民全体の代表者である。党議拘束より国民の利益、すなわち人権保障が優先されなければならない。

 

このように、この一年、私たちは多くのものを失ってきている。それは、国民の人権を守ってゆくための手段である。国会と内閣との抑制と均衡を失い、権力的契機としての選挙制度、すなわち平等選挙制度を失い

 

そして今、私たちは政党という民意を媒介させるための手段をなくしてしまったのだと思う。

 

今、私たちに残された人権を守る手段が何かと言うと、一つには司法判断、憲法上の違憲審査権です。そしてもう一つが、近代憲法制定の歴史の中で成文憲法の条文上からは消えていった抵抗権です。

 

今、国会周辺含めて全国各地で起こっているデモ、動く集会は抵抗権そのものです。

 

そして、私自身が最高裁に上告申立てしていることが日本国憲法上での抵抗権の行使に他ならないのです。

 

2015年9月1日   文責   世界のたま    sign