月別アーカイブ: 2015年4月

今なさねばならないこと(3)

私がこのホームページを立ち上げた大きな理由の一つに憲法保障の問題があります。

 

他の提言でお話ししているように私は今の日本国憲法が本当に大好きなのです。

 

私にとって他国に押し付けられたなどの理由などどうでもよいのです。問題は中身なのですから、ある意味で世界における国家からの人権の獲得、保障の歴史を詰めた宝石箱のような憲法だと思う。

 

今の政府含めた憲法改正論議を見ていると、押し付けられたという論理は、まやかしであって本意は戦前のように天皇を中心として国民を統制していきたいだけの話だということが見え見えである。

 

しかも戦前もそうだったのであるが天皇を中心にしてというのはただの口実であって所詮はその時代というか日本が近代化された際にたまたま権力、資産を蓄えた人々がそれらを維持するために戦前戦後含めて天皇という隠れ蓑の中で国民を統制してきただけの話だ。

 

多くの純粋な若者を、沖縄の人達を、植民地の人々を犠牲にして、ある意味で利用して自分たちの利益しか考えていないのに、お国のため、天皇のためとしてそれらの人々から搾取してきたのだと思う。それらの人々を扇動はしても自分たちは決して前線には出ず、敗戦となれば相手国にひれ伏して何とかして生き延びようとし、その中でうまい汁を吸おうとする。戦犯となっても様々な手段で彼らは生き延びてきた。

 

言わば国家的詐欺の犯罪者に過ぎないと思われるが、それらの子孫がまた頭をもたげてこようとしている。

 

その最終段階が憲法改正であると思う。

 

平成24年作成の自民党の改正草案を見ていてもはっきり出ている。

 

天皇を象徴から元首へ変更、天皇の国事行為に関して、内閣の助言と承認の削除、表現の自由に公共の福祉の制限を設けようとしている、更に特に問題となるのは、今の日本国憲法では国民には憲法尊重義務は課せられていないが、憲法尊重義務者の第一文に国民をあげている。

 

他の提言の中でも述べているように、憲法とは国民の人権を国家から守るために存在しているのです。それを彼らは無力化しようとしている。

 

憲法という武器を失った国民は自分たちを守る術が何もなくなってしまいます。

 

総選挙後の一連の流れの中で、一つ一つの事実を見てみればわかります。

 

沖縄の辺野古問題での知事の中止命令処分に対しての政府機関内でのやり取り、原子力発電所問題での政府の対応、本来は行政を規制すべき法律を逆手にとって国民の権利の制限に使っている。

 

それらの延長線上に国民の人権を国家権力から守るべき憲法を、国民が守るべき規制へとすり替えようとしているのです。

 

そしてNHK、朝日放送の呼び出し、事情聴取など表現の自由への圧力、一見、表現の自由の行き過ぎという理由がもっともらしく聞こえるのですが、先の憲法改正草案、特定秘密保護法案の一連の流れの中でみると、その本質がはっきりとわかります。

 

私が今回、最高裁へ訴えているのもそこなのです。

 

言論、表現の自由が失われた時、もうその時には遅いのです。それは歴史が証明しています。

 

現政権になって戦前からの多くの国民から生き血を吸って肥え太った資産家、政治家、それらに踊らされ、利用して戦後、資産を蓄積した人たち、それらの子孫が、資産を守り増やすために多くの政策を打ってきています。これは我が国に限らず世界中で言えることですが。

 

その中では当然のごとく格差は広がっていき、地球環境は破壊されていっています。

 

私は最近よく考えることがあります。

 

デカルトが言った、我思うゆえに我あり、人間中心の社会に、理性は存在するのか、フロイトが言うように理性とは幻想であって、自我の確立などはあり得ないのか。

 

2015年4月30日  文責  世界のたま       sign

今なさねばならないこと(2)

今、世界を見渡した時、シリア難民、パレスチナ難民、最近ではイエメン、アフリカ各地の難民、世界いたるところで、多くの子供たちを含む人たちが劣悪の環境下で、祖国を追われている。

夢も希望もなく、ただひたすらその日の命だけのことしか考えることが許されない人たちが増え続けている。

 

地中海を命を懸けて、あるいは騙されて小舟にのってヨーロッパに漂着する人々も増え続けている。

 

ある人々はヨーロッパの地を踏むことも許されず地中海に飲み込まれている。

 

多くの難民が生じている原因は、その多くが内戦含めた戦闘行為によるものです。

 

今までの提言の中で、安全保障について書いたことがありましたが、日々伝えられる世界各地の難民キャンプなどで嘆き、苦しんでいる子供たちを含む人々を見るとき、安全保障のなんたるかを考えさせられる。

 

我が国、日本においても中国、韓国、ロシアとの国境、領土問題やイスラム国などのテロの脅威に対し、日米安全保障を中心とした今後の安全保障をどうするのか、その中で、辺野古問題、憲法9条問題が生じている。

 

それらの様々の世界情勢、世界各国の動きを見て、歴史を振り返って思うことは、何度も愚かなことを繰り返してきた、人間の愚かさだ。

 

そして今、同じことを繰り返そうとしている我が国がそこにある。

 

今まで他の提言でお話したように、いくら軍事力を高めたところでセキュリテイジレンマ、セキュリテイパラドックスを生じてしまい、無駄な時間、予算、労力を使うだけで、全く意味のないことなのです。

 

それらの経験の中で、何故歴史が繰り返されるのか、我が国が繰り返そうとしているのかということを考えた時、その理由は、大きく二つあると思う。

 

一つは軍事産業に代表される資産家の更なる富への欲望に他ならない。そしてそれにまとわりつく寄生虫のような政治家、官僚たちを含めた人たちの権力欲だ。

そしてもう一つは国家、民族など、本来個のための手段でしかない物を目的化する人たちの欲に他ならない。

 

ただこれら二つは、一見二つであっても一つでもある。

 

歴史を振り返ってみるとき、資産家は自らの富を増やすため人々を先導し、政治家、官僚を利用して民族間、国家間の緊張を高めるのが常だからだ。

 

個々の細分化した集団を作ることで、それらの集団間での争いごとを生じさせ、扇動して自分たち資産家への批判、妬みを減弱させ、それらの摩擦を利用してさらなる富の蓄積を図っているのだと思う。

 

人類も自然界の中では単なる一つの種でしかないということを改めて思い知らされる。

 

ある意味で人が殺し合うことは種の保存というヒトの遺伝子に組み込まれた本能であって己で制御できる事象ではないのかもしれないとも思う。

 

ただそれでも私は思うのです。

 

我が国が、私たちが今しなければならないことは武力をもって戦うことではなく、今現在世界各地で命の危険にさらされている難民の人々へ思いをはせることだと思う。

 

日本国憲法9条という強い盾を私たちは持っているのです。

 

私は思うのです。真の安全保障とは人々の戦争、侵略への疑心暗鬼、セキュリテイジレンマを解消することなのです。

 

そのために我が国が第一にしなければならないことは防衛費を兵器などの物に使うのではなく、難民キャンプの子供たちへの教育のために、人のために使うことだと思う。

 

一人でも多くの子供たちを難民認定して、日本国内に受け入れて日本が世界に誇る教育システムの中で、平和教育、民主教育、技術教育を施し、世界へ、祖国に帰してあげることだと思う。

 

真の安全保障とは何なのか。

 

そのために私たちは今、何をなさねばならないのか。

 

2015年4月18日  文責  世界のたま             sign

 

 

今なさねばならないこと(1)

しばらくの間、いろいろなことを考えさせていただいていました。

 

一つには私事ではありますが特定秘密保護法執行停止訴訟につき、先月の3/27に広島高裁民事部において控訴棄却の判決をいただき、1週間考えた上、4/6に最高裁への上告を申立させていただきました。理由書については追って提出することにしており、上告そのものはまだ完結いたしていない状態です。

 

当然のことながら一般的にも言って年に数千件もある上告に対する最高裁の判断は99%以上が棄却されており厳しい判断が予想されますが、新聞社の取材の中でもお話しいたしましたが、私が、今生きている社会の中で決して許してはいけない事実に気付いたものは是正、修正を促す義務があると思う。

 

そして自分自身が後悔したくないのです。

 

そして二つ目には過去、いくつかの提言の中で現在行われている金融政策についての私自身の思いを述べさせていただきましたが、このひと月、いろいろな金融政策専門家に関しての考え方をもう一度学ばさせていただきました。

 

金本位制から現在の管理通貨制度の中での貨幣の持つ意味、そして現在の世界を取り巻く財政、金融危機、デフレ問題など、いろんな問題における、様々な方の考え方を学ばせていただく中で思ったこと

 

1990年台以降の長期にわたるデフレの中での財政、金融政策が失敗であり、第二次安倍内閣の下での財政政策、黒田日銀総裁の下での異次元の金融緩和政策が成功であったのか?

 

正直な考え方を述べるならば、今までのアメリカを中心とした資本主義社会的な社会を今後も引き続き考えてゆくならば、現在行われている、ゼロ金利政策に加えてのインフレターゲットを指標とした無制限とも言える金融緩和政策は理論的には正解である。

 

1990年以降、日本政府、日銀が行ってきた財政、金融政策は確かに中途半端であったといえるであろう。デフレからインフレに振れようとした際のゼロ金利解除や金融緩和政策解除、金融緩和規模としても量的に不十分であったことは否めない。

 

ただし、そこで問題なのは、それらの財政、金融政策の目的が、先ほども述べたようにあくまでも今までの資本主義的な社会を目指したうえでの延長線上で考えた時の手段としての金融、財政政策として正しいというだけのことだ。

 

そして、はっきりしていることは、短期的な一時的なものでしかないということは明白であり、根本的な財政政策抜きでは考えられない。

 

私が今、これらの財政、金融政策で思うことは何度も繰り返して述べているように、手段を目的化しているということです。株価、通貨価値、物価それら自身を目的として、金融、財政政策を行っているだけなのです。手段としては正解なのですが、手段そのものを目的にしているのか、目的がわからないまま進んでいるのです。

 

結果として皆さんのご承知のように、何が待っているのでしょう。

 

そこにあるのは更なる格差社会、環境破壊です。

 

盛んにデフレは悪である、インフレが望まれているのは誰のためなのか、一見確かにデフレは資産のあるものは有利と思えるのですが、それは現在の税制度含めた財政政策を前提とした考え方で、地球環境などを鑑みた時、消費、経済の縮小が本来は望まれるのだと思う。

 

地球環境はもはや残念ながら後戻りができないところに来ていることは明白であり、自然現象としての世界各地で起こっている、自然災害、テロを含めた戦争状態、すべて自然による人という種への自然淘汰であると思う。

 

格差社会の中で人々は自分たち身の回りのことのみしか考えられなくなってきている。

 

富あるものは更なる富を目指して資源を独占し、消費し、環境破壊を覚悟したうえで自分たちだけはその中で生き残る術を模索している。

 

金銭的に貧しきものは、富あるものによる政策の中で、序列化され、下位のものを蹴落とすことに心奪われる。

 

今、私自身何をなさねばならないのか。

 

2015年4月15日   文責  世界のたま    sign