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歴史の連鎖を断ち切れることができるのは、「法の支配」のみである

あと今年も今日一日となりました。
人々はこの一年を振り返り、明日から新たな気持ちで一年を頑張ってゆこうとしている。
確かに以前のブログの中でも書いたことがあったが、新たな気持ちで再出発しようとする気持ちのレベルでの意味は大なり小なりあるとは思う。
しかし、今日は、昨日までの社会環境を前提とした今日であり、明日はたとえそれが元旦であろうと、所詮は今日を含めた世界情勢の中での明日でしかない。
過去は消えるわけではなく、全てをその中に包み込んでいる。
私たちは今日を含めた過去、歴史から逃れることはできない。
たとえ新年を迎えたところで

毎日、ネットや、テレビなどで流れる多くの報道、様々な番組を見ていて思うのだが、誤解を恐れずに言えば、全ての面で社会全体が軽薄化している。
そのことは、政治において端的に表れている。現在の政権を筆頭に、与野党問わず国会議員をはじめとする政治家含めて軽薄化の嵐である。そのひどさは日に日に増している。
番組について言えば、経済至上主義の中で、様々な番組は、その背後に大企業というスポンザーがあり、そのスポンサーである大企業は、その利益を求め、番組内容、出演者全てにおいて、政権批判ができなくなっており、その内容も政権を反映して軽薄化している。

多くの国民は、それらの一見楽しく明るい番組、スポーツ、娯楽番組、コマーシャルの洪水の中で、世の中では何も問題は生じていない、何も心配なことはない、現在の生活が続くものだと錯覚する。
かつてナチスが報道、宣伝を巧みに操って国民をコントロールしたが、このことは、ネット社会が発達した一見自由な報道が保障されていると考えられる現代社会においても同じことが起きうる。我が国のような北朝鮮、中国などの露骨な報道規制がない国家においても起こりうることなのです。
何故ならば、軽薄化の原因は、報道規制などにその主たる原因があるのではなく、国民の思考停止にあるのだから。思考停止の中において、自由な報道は何の意味をなさない。
軽薄ではあるが自由な報道が、一見されていることにより錯覚を生じ、何の問題もないと感じることで更なる思考停止が生じてしまっているのだと思う。

そして、将来の国民のことなど何一つ考えない無茶苦茶な経済重視の政策の中で、そのパイを求めて企業はより政権批判をやめて従順な犬となる。その従順な犬のもとで、多くのサラリーマンはより従順な下僕となるための下僕同士のみじめな争いに終始する。報酬というエサと、リストラという鞭の狭間の中で、主権者としては完全に思考停止し、真の意味での自分たちの子供、子孫のことなどに対する責任に対しても思考停止となってしまう。
そのことにも気づきもせず、蜃気楼のようにはかない一瞬の錯覚にすぎない現在の自分たちの生活、社会が続くものだと信じている。
蓄積した富が、グローバル化の中で、更なる中央集権化を図り、一部のお友達のためだけの国家へと変貌し、富はさらに蓄積化し、蓄積化された富によって、説明責任のない社会、民主主義が否定された社会へと現代社会は変貌している。
そうした中で格差社会は拡大し、説明責任のない社会の中で、その底辺社会の人々が最終的に突き進むのが、死かテロではないかと私は思う。
多くの権力者、富あるものは底辺社会の人々の死にはたとえ何人死のうが何一つ関心を示さないが、テロには自分たちの生命がかかっていることがあって大いに関心を抱き、現実的に世界でテロ対策に躍起になっている。これは政治体制問わずアメリカ、ロシア、ヨーロッパ、中国、フィリピンあらゆる国で同じことである。

我が国においても今年成立した共謀罪である。国民の内心の自由を侵害し、国民同士の監視社会を作り上げ、テロを防止することを意図しているが、所詮は、特定秘密保護法、安保関連法と同様に、現在の富ある人々、権力者を守ってゆく一手段にすぎない。
特定秘密保護法に関して言えば、自分たちの都合の悪い情報は永久に葬り去るための仕組みであり、安保関連法は自分たちの資産を何としても守ろうとする仕組みなのだから、彼らの資産を守るのは彼ら自身ではなく、自衛官であり、死ぬのは彼らではなく、自衛官であり、彼らにとっておそらく自衛官がたとえ死んだとしても何の関心もない。彼らの資産が守られればよいのだから
先程も述べたようにテロは底辺社会の人々が起こすことが多いいと思う。蓋し、説明責任のない社会、裏返していえば、今年解散された国会と同様に、一切の発言も、説明も許さない立憲民主主義が否定された社会の中で、底辺社会の人々はその言論の場さえも与えられず、結局、向かう先は静かな死か、テロなどの行動しか選択肢がなくなるのではないかと思う。
私自身、共謀罪に関しては一貫して反対しており、現在も最高裁判所に特別抗告、上告中である。
私はテロなどのない平和で安心な社会を望んでいるが、そのためには、格差社会のない、説明責任のある社会が不可欠である。

歴史を振り返った時、説明責任を放棄し、民主主義を失ったとき、必ず悲惨な時代を迎えている。
そうした歴史を繰り返しているのは説明責任のない社会の中で、多くの国民が思考停止に陥ってしまい民主主義が機能しなくなっているからに他ならないと思う。
私はそんな歴史の繰り返しの中で、人類が考え出した方法が、憲法に基づく「人」ではない「法による支配」だと思う。
現在の我が国は、経済至上主義の中で、説明責任は放棄され、国会は内閣の下請けとなり、一方で、主権者たる国民も思考停止に陥っている。
立憲民主主義が機能不全に陥っている中で、現政権は憲法を順守する前に、憲法改正論議ばかりを推し進めようとしている。このことは歴史の繰り返しに他ならない。そこに待ち受けているのは悲惨な結果しかない。そのことは歴史が証明している。

日本国憲法は過去人類が繰り返してきた悲惨な歴史の証明であり、それを避けうる証明でもある。
私たちが歴史を繰り返さないために不可欠なもの、それは日本国憲法の順守である。しかし、それが守られず、主権者たる国民が思考停止し、立憲民主主義が機能不全に陥り、歴史を繰り返そうとしている時、最終的に不可欠なもの、それは「法の支配」に他ならない。
「法の支配」無くして、私たちは、過去の人類の歴史を内包化した元旦を、新たな再出発とすることはできない。

歴史の連鎖を断ち切ることができるのは「法の支配」のみなのだから
 
    平成29年12月31日   文責   世界のたま

平昌五輪とエルサレムの首都承認に思う

平昌五輪へのロシア代表のドーピング問題が、ロシア政府によるロシア選手の個人参加を認める方向で、一応解決をみた形となった。
私が一連の流れの中で感じたことは、そもそもドーピング問題とは何なのかという疑問である。
確かにロシア選手が禁止薬物を使用し、それを隠蔽してメダルを獲得したことはロシア政府が出場不参加ではなく個人参加を認めたことで、それは事実なのであろう。
しかし、そもそも筋力増強剤などの薬物を禁止薬物としている目的は何のためなのだろう。
おそらく選手間の競争の不平等の是正のためであろう。
しかし、そもそもオリンピックに出場する選手にとって何が平等の基準なのか。
例えばかつて水泳競技において、ある時から突然、一定の泳法が違反となった。ルール変更はいろんな競技でも起こっている。
また、競技に使用する道具や身に着ける衣類など一定の基準の中で競うように選手をバックアップする企業間で開発競争がなされている。
一人一人の選手の練習器具、練習場所、練習時間、コーチングスタッフ全てにおいてすべてにおいてもともと格差があるのだ。
そんな中で総じて言えることは、基本的には経済力、即ちお金があるものが有利だということだ。
確かに選手個人の素質、努力は必要である。しかし、現代のオリンピックにおいて金メダルを取ろうとした時、それだけでは困難である。幼いころからのお金を惜しまない整備された練習施設での国内外を問わないお金に物を言わせたコーチングスタッフ、そして戦争やテロや暴動のない生命の危険のない衣食住の整った社会環境が不可欠である。
結局、各国のメダル獲得数は経済力もしくは国家権力の力の差で決まってしまう。
そうした中で、オリンピックは多くの利権を生む。
組織自体も巨大化し、放映権料などによる莫大な収益、招致活動に対する金銭含めた利益供与、組織役員にまつわる権力闘争、開催国内においても東京オリンピックをめぐる多くの問題で明らかになったように権力、利益獲得競争の巣窟である。
平和の祭典とされているオリンピックであるが、経済至上主義のもとで平等や民主主義とは対極のものとなっている。
オリンピックという煌びやかな祭典の向こうに、地球温暖化の中で海水にのみ込まれている小さな島国、民族紛争の中で国家を追われる難民、非民主的国家の中で迫害されている人々が存在している。
オリンピックが巨大化し、華やかになるほど、その艶やかさの中で、私には、彼らの悲鳴がかき消され、彼らの悲鳴をかき消すために、その艶やかさを演出しているとしか思えない。
今、世界で起きていることは、何度もお話ししてきたように、グローバル化した経済の中で、莫大な富を蓄積した人たちによる利権の確保、その手段としての国家主権の強化、その結果としての、民主主義に対する抑圧に他ならないと私は思う。
このことは国家の政治体制に関わらない。アメリカ、ロシア、中国、ヨーロッパ諸国、東南アジア諸国、中東諸国、アフリカ諸国、南アメリカ諸国、世界全ての地域で巻き起こっている。もちろん我が国、日本でもだ。
何故、トランプ政権がこの時期に、エルサレムをイスラエルの首都と認めたのか。確かに、アメリカ社会における政治的な背景もあるとは思う。
しかし、私が思う最大の理由は、衆議院選挙中にも話したことですが、経済至上主義のもとでの国家主権の強化に他ならない。
北朝鮮問題もそうなのだが、今回のエルサレム問題も同じことなのです。彼らにとって、武器の需要のない社会は来てもらっては困るのだ。
常に、政治的緊張を高め、武器の需要を高めることが、莫大な軍需産業の利益を上げ、政治的緊張を高めることで、国内的には民主主義を抑制し、国家主権の強化につながる。その政治的背景には莫大な富を蓄積続ける資産家がいる。
今回、アメリカの議会で税制度法案が可決ざれたが、その内容も、税制度が本来持つべき平等、民主主義の観点からの所得の再分配機能を否定するものである。
富の蓄積は、アメリカの連邦裁判所判決、無制限の政治献金を認める判決により、一部の者だけのための政治を容認する。そして民主主義の根源である説明責任を否定する。
そのことは、先にあげた世界中の国々で、そして我が国日本で同様に生じている。
一見、現代社会は、自由で、民主的で、平和な世界に見えるかもしれないが、私には、脆く、薄っぺらな社会にしか見えない。
平昌五輪、東京オリンピックの煌びやかさが報じられれば報じられるほど、私には、世界中で虐げられてる人々の悲鳴が聞こえてくる。
それは民主主義の断末魔の叫びでもある。

    平成29年12月25日  文責  世界のたま