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人が生きることの意味(死にゆく世界の中で思うこと)と、その追記

ホーキング博士が亡くなられた。
彼は、天才科学者と言われているが、私自身ほとんど彼のことを知っていなかった。以前お話ししたように、私は科学とは自然から見たときに、所詮、稚拙なお遊びにすぎないと思っているからである。
そんな訳で、彼が、生前の一昨年の2016年に人類は1000年の間に絶滅すると計算し、それまでに生き延びるためには他の天体に移り住まなければならないとしていたこと、そして、昨年の5月、それを短縮させ100年後としたこと、彼がそれらを言い残していたことを、彼が亡くなって初めて知った。
先に述べた様に、私は彼の存在はある程度知っていたが、彼が一昨年、昨年に、そのような人類の未来(未来というよりもうすぐである)を予測していたことに驚いた。

もうすぐ地球上で人類が住めなくなることは私自身4年前、このブログを立ち上げた時から予測し、世界に訴えてきたところであるが、天才的な科学者である彼自身もそういう予測をしていたことに少し驚かされたのだ。私自身は彼のような科学という手段を用いて予測しているわけではない。自然との共通感覚以外の何者ではない。
彼は100年後の地球の予測として、酸素がない二酸化炭素に覆われた250度の高温地獄である金星のような星になることを予測している。

私が、亡くなる直前の彼の予測の中で最も危惧することは、100年後に人類が絶滅することではなく、彼がたった1年でその人類の絶滅の時期を1000年から100年に短縮していることである。彼自身もそうであると思うが、私自身、人類が地球上で生きることが困難になる時期はもっと相当早い時期にやってくることは間違いないと思っている。おそらく数十年先には必ずやってくるであろう。

私は自然との共通感覚の中で、北極の氷が音を立てて海水の中に崩れ落ちている音を聞き、オーストラリアの世界最大のサンゴ礁の生息地で、静かにその生の息吹を止めて白色化している光景を目の当たりにしている。

以前、ブログの中で述べたことがあるが、海は人類含めたあらゆる生物の子宮である。人は海の中から進化し、作られた生き物であり、私たち一人一人、全ての人間は、女性の子宮の中で細胞分裂を繰り返し、羊水という海水の中から破水し、生まれてくる。系統発生を繰り返している。言い換えれば、私たち人類含めた生物は海無くして発生しえなかったし、生きることもできない。

海は、あらゆるものを飲み込み、海に生きるサンゴ礁、微生物含めた生き物によって、それらを浄化し、地球の生命の維持を図ってきた。

経済至上主義の中で、地球温暖化は加速し、その中で海はその温暖化を何とか押しとどめようとしてきたが、北極の氷が融解し、その氷がなくなってしまうことも時間の問題となっている。氷が解けることで、海水温は上昇し、氷がなくなることで、太陽光を反射することができなくなり、そのエネルギーの多くが海水に吸収され、その海水温の上昇に拍車をかけてゆく。

海水温の上昇の中で、サンゴ礁はその生命を維持することはできず、その多くが死滅する。サンゴ礁の死滅はプランクトン含めた多くの海水中の生き物の生態系を破壊してゆく。海水温の上昇は、地球温暖化を加速し、地上の生物の生態系を破壊するだけではなく、巨大台風、海面上昇、食糧難、水不足など人類にとって、多くの国家を超えた争い、生存競争を生じさせ、その個々の生命的危機は、海水温の上昇よりかなり先行して生じるであろう。

それでは、ホーキング博士のような高名な科学者が盛んに訴えた中で、何故、人類は本気になって考えないのか、私のような者が訴えているのではないのにである。
科学によって全ての事象を説明し、解決することができると考えているおバカな現代人がそのような不都合な事実に関して何故、口を閉ざすのか。
答えは簡単である。100年後だからである。(しかし現実は甘くはない。数十年後だ)

そうなのだ。
自分自身に関係ないからに他ならない。
デカルト以降、人が自然と乖離し、自然との共通感覚を失い、人間中心主義の中で、社会の科学化、経済化が進む中で、自然との共存を失ったように、最も身近な自然である現在共に生きている同じ人間である他者との共存はもちろんのこと、真の意味での想像力を失った私たちは、数十年先の子供たちに対する共存する思いをも、人類は失ってしまっているのだ。

この一カ月、日本、世界で起きている出来事を見るにつけ、非常に滑稽である。ある意味で無知であり、ある意味で生物の持つ潜在的な来るべき将来に対する不安がなせる業なのかもしれない。

日本国内に限って言えば、森友、加計学園問題、財務省、新潟県知事などの様々な、しょうもない稚拙な問題、世界から見て猿回しのサルでしかないことに気付かない哀れな安倍さん含めた政府、そして国会、結局、日本国民自体が、バカにされ、同情すらされても尊敬されるには程遠い存在であることに気付いていないおバカさんぶりである。

今を生きる私たち人間、一人一人がどう生きるべきか。
特に日本人である私たちがどう生きてゆくべきか。
たしかに北朝鮮問題、経済問題、多くの問題がある中で、その日の生活のこと、来月の生活費、子供の教育、住宅環境、老後の不安、婚活、周りのことなど考えることなどできない、そんな余裕はないと考えている人も多いと思う。

しかし、そんなすべての人にできること、伝えたいことは、決して自然との共通感覚は忘れないでほしい。思い出してほしい。
その共通感覚の中で、自然も含めた全ての他者との共存を大切にしてほしい。
決して自分が母親の子宮から生れ出たときの純粋無垢な瞳の輝きを忘れないでほしいのです。

私自身、そうした生き方をしてゆきたいと思う。
最後に、私事になりますが、訴訟の方法として本意ではないが、日本国憲法とは何なのか、国会議員選挙とは何なのか、国民の代表とは何なのか、それらに対して私自身が立候補した昨年の衆議院選挙につき、3月に国家賠償請求訴訟を広島地裁に提起したが、その公判が来月に開かれることになっている。たとえ何も変わらないとしても自分ができる、できる限りのことはしたいと考えている。

私は、個の中に全体があるのだと思う。
個が何も為さずして全体は何も変わることはない。
私は、ホーキンズ博士の言うように地球外へ移ることが、人類の生存にとっての解決策になり得るとは思えない。どこに行ったところで、人類は所詮人類でしかありえないのだから

言い換えれば、人類含めた宇宙空間そのものも、私たち一人一人の個の中に、細胞の中にあるのだから

最後にもう一度言っておこう、私たちはキラキラと輝く純粋無垢な瞳の輝きを決して失ってはならない。

    平成30年4月22日    文責   世界のたま

追記)
  二つのことを、敢えて述べておこうと思う。
 一つは、本文に述べたことは事実であるが、一方で、私は、自然と人類との関係において、自然が加速度的に人類を、絶滅させようと図っているともいえると思う。人類以外の種や地球そのものを維持してゆく上で、経済至上主義を邁進する現在のままの人類の絶滅は不可欠である。現象としてはヒトという種としての自然淘汰ということになるのであろう。人類の絶滅によって、地球環境、人類以外の種が守れるかどうか、私にもわからない。しかし、私を含めた現代人が今のままではその存在を否定されても仕方ない。最終的に、それしか地球環境を守れないとするならば、私は敢えて、私自身も含めて、一刻も早い人類の絶滅を願うしかないのかもしれない。そうした中では、世界が加速度的に、アメリカファースト含めて、人間同士が争い殺し合うという事実も悲しいことではあるが、逆説的には歓迎すべきことなのかもしれない。
 もう一つは、私事という言い方をしたが、来月公判を迎える国家賠償請求訴訟に関して、最終的に私がこの裁判で問うているのは民主主義とは何なのかという問題である。民主主義という概念は、本当に面白い概念である。真の意味での民主主義は、私が言う個の中に全体があるという概念の具現化された概念に他ならないからである。そして、真の意味での民主主義の確立のみが、上記に述べた地球を守ることのできる、種としてのヒトが生き残れる唯一の術に他ならない。

    平成30年4月23日  文責  世界のたま