平昌五輪とエルサレムの首都承認に思う

平昌五輪へのロシア代表のドーピング問題が、ロシア政府によるロシア選手の個人参加を認める方向で、一応解決をみた形となった。
私が一連の流れの中で感じたことは、そもそもドーピング問題とは何なのかという疑問である。
確かにロシア選手が禁止薬物を使用し、それを隠蔽してメダルを獲得したことはロシア政府が出場不参加ではなく個人参加を認めたことで、それは事実なのであろう。
しかし、そもそも筋力増強剤などの薬物を禁止薬物としている目的は何のためなのだろう。
おそらく選手間の競争の不平等の是正のためであろう。
しかし、そもそもオリンピックに出場する選手にとって何が平等の基準なのか。
例えばかつて水泳競技において、ある時から突然、一定の泳法が違反となった。ルール変更はいろんな競技でも起こっている。
また、競技に使用する道具や身に着ける衣類など一定の基準の中で競うように選手をバックアップする企業間で開発競争がなされている。
一人一人の選手の練習器具、練習場所、練習時間、コーチングスタッフ全てにおいてすべてにおいてもともと格差があるのだ。
そんな中で総じて言えることは、基本的には経済力、即ちお金があるものが有利だということだ。
確かに選手個人の素質、努力は必要である。しかし、現代のオリンピックにおいて金メダルを取ろうとした時、それだけでは困難である。幼いころからのお金を惜しまない整備された練習施設での国内外を問わないお金に物を言わせたコーチングスタッフ、そして戦争やテロや暴動のない生命の危険のない衣食住の整った社会環境が不可欠である。
結局、各国のメダル獲得数は経済力もしくは国家権力の力の差で決まってしまう。
そうした中で、オリンピックは多くの利権を生む。
組織自体も巨大化し、放映権料などによる莫大な収益、招致活動に対する金銭含めた利益供与、組織役員にまつわる権力闘争、開催国内においても東京オリンピックをめぐる多くの問題で明らかになったように権力、利益獲得競争の巣窟である。
平和の祭典とされているオリンピックであるが、経済至上主義のもとで平等や民主主義とは対極のものとなっている。
オリンピックという煌びやかな祭典の向こうに、地球温暖化の中で海水にのみ込まれている小さな島国、民族紛争の中で国家を追われる難民、非民主的国家の中で迫害されている人々が存在している。
オリンピックが巨大化し、華やかになるほど、その艶やかさの中で、私には、彼らの悲鳴がかき消され、彼らの悲鳴をかき消すために、その艶やかさを演出しているとしか思えない。
今、世界で起きていることは、何度もお話ししてきたように、グローバル化した経済の中で、莫大な富を蓄積した人たちによる利権の確保、その手段としての国家主権の強化、その結果としての、民主主義に対する抑圧に他ならないと私は思う。
このことは国家の政治体制に関わらない。アメリカ、ロシア、中国、ヨーロッパ諸国、東南アジア諸国、中東諸国、アフリカ諸国、南アメリカ諸国、世界全ての地域で巻き起こっている。もちろん我が国、日本でもだ。
何故、トランプ政権がこの時期に、エルサレムをイスラエルの首都と認めたのか。確かに、アメリカ社会における政治的な背景もあるとは思う。
しかし、私が思う最大の理由は、衆議院選挙中にも話したことですが、経済至上主義のもとでの国家主権の強化に他ならない。
北朝鮮問題もそうなのだが、今回のエルサレム問題も同じことなのです。彼らにとって、武器の需要のない社会は来てもらっては困るのだ。
常に、政治的緊張を高め、武器の需要を高めることが、莫大な軍需産業の利益を上げ、政治的緊張を高めることで、国内的には民主主義を抑制し、国家主権の強化につながる。その政治的背景には莫大な富を蓄積続ける資産家がいる。
今回、アメリカの議会で税制度法案が可決ざれたが、その内容も、税制度が本来持つべき平等、民主主義の観点からの所得の再分配機能を否定するものである。
富の蓄積は、アメリカの連邦裁判所判決、無制限の政治献金を認める判決により、一部の者だけのための政治を容認する。そして民主主義の根源である説明責任を否定する。
そのことは、先にあげた世界中の国々で、そして我が国日本で同様に生じている。
一見、現代社会は、自由で、民主的で、平和な世界に見えるかもしれないが、私には、脆く、薄っぺらな社会にしか見えない。
平昌五輪、東京オリンピックの煌びやかさが報じられれば報じられるほど、私には、世界中で虐げられてる人々の悲鳴が聞こえてくる。
それは民主主義の断末魔の叫びでもある。

    平成29年12月25日  文責  世界のたま

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