都議選と民主主義制度について(立憲民主主義の破綻)

先日7月2日に都議選が行われ、都民ファーストの圧勝、自民の大敗という結果に終わった。
今回の一連の流れの中で私自身が思うことを伝えておこうと思う。
今回の選挙結果自体については多くの方々が述べられているように国政の影響が色濃く表れていたと思う。というより国政の在り様への批判そのものであったと思う。

選挙結果以上に、そのことを最も象徴していたのが安倍首相が最終日に秋葉原で行った街頭演説であろう。何度もニュースで流されていたので知らない国民はほとんどいないであろう。

安倍首相が演説する中で大衆の中から辞めろ、帰れコールが沸き起こり安倍首相の演説がかき消されていた。

都議選というより安倍首相、政権への民衆の怒り以外の何物ではない。

何故こういったことが生じたのかを考えた時、私には何度もブログの中で今までも述べてきたことだが、我が国の現代立憲民主主義の破綻を垣間見ているようでならない。悲しい民衆の叫びに見えて仕方ない。

確かに選挙結果として多くの国民はある意味で溜飲を下げ、自民党の都連の幹部の辞職、安倍首相含めた政権幹部の反省の弁などがみられ、多くの人が今後の政権運営への影響は避けられないなどとの発言をした。

しかし、私には一連の流れの中で何一つ解決されたとは思えない。ただ単に我が国に起こっている現実を突きつけられたにすぎないとしか思えない。

それは我が国における現代立憲民主主義の破綻という事実であり、その限りない深さである。

本来、都議選もそうであるが地方選挙は、そこに住む人達にとって直接に関わる様々な教育、福祉、経済について考える場である。4年に一回の大切な住民の意思表示の場であり、住民自治という地方自治にとって最も大切な権利行使そのものである。

その大切な機会が、森友学園問題、加計学園問題、稲田防衛大臣の発言問題、下村都連会長の加計献金疑惑、豊田議員暴言問題というレベルの低い稚拙な国政問題のために、失われてしまった。本来なら東京都民にとって大切な日常生活に直結する様々な問題について判断する機会であったはずなのに

せめてもの救いは小池都知事が語っていた都議会の議決過程の透明化だとは思われるが、一方では中央と一緒で都議会による執行権者たる都知事へのチェック機能が機能するのかという問題も生じているのは事実である。

先にも述べたが今回の都議選の過程、結果の中で私が感じた我が国における現代立憲民主主義の破綻であるが、秋葉原での安倍首相の演説と、その大衆の一部から沸き上がった辞めろ、帰れコールの中に凝縮されている。

たとえそれらの辞めろ、帰れコールが前もって計画された人たちによるものだとしても、その意味において何ら変わるものではない。

それは民主主義にとって核となる説明責任の欠如なのである。説明責任のないところに民主主義は存在しえない。このことは経済至上主義の中で起こっている経済格差における説明責任がいらない世界と対極にある。経済至上主義の中では基本的に説明責任は不要だ。経済力のある者の発言がすべてである。そこには善悪の判断は存在しない。

説明責任の欠如は、経済至上主義を唱える安倍首相を筆頭とする現在の政界をはじめ、財界、教育界含めた社会全体にはびこっているし、日本のみならず世界中でこの現象は生じている。トランプ政権下でのアメリカも同様であり、トランプ氏が多用しているツイッターでの投稿は説明責任が不要の典型例である。

そういった彼らに特徴的なのがマスコミとのやり取りの拒否、マスコミ批判である。

彼らは立憲民主主義、代表民主制という概念を理解しておらず、というより彼らの思考の中にはそういった概念がもともと存在しておらず、永久に存在することもないのだと思う。だから彼らにそういった概念をもって理解を求めること自体が無理なのではないかとも思う。

彼らにとって正義とは自己が望むことを得られることであり、その対象の多くが富や名誉そして権力なのだと思う。他者との共存や、贈与の感覚はありえないのだと思う。

秋葉原での安倍首相が、辞めろ、帰れコールをあげる国民への「こんな人たち」という切り捨てた発言は如実にそのことを表している。彼にとって自分の望む考えに賛同するお友達のみが国民であり主権者なのだ。それ以外の自分の対極にある存在と共存しようとは思っていない。彼にとってシュプレヒコールをあげる人たちは国民でも主権者でもない「こんな人たち」にすぎないのだと思う。

私は今回の都議選を振り返った時、ただ単に安倍政権の驕りであるとか、国民の怒りが鉄槌を下したとかというレベルの問題ではないと思う。

小池さん率いる都民ファーストが大勝したところで、日本社会にとって何らの変化も生じていないのだから

私たち主権者である国民が今回の都議選で学ばなければならないこと、確認しなければならないこと、気付かなければならないこと、それは日本社会のみならず、経済至上主義の世界中で起きている現代立憲民主主義の崩壊の事実である。現代社会はその淵に立っているということである。

都民ファーストが何議席とろうが、自民党が、公明党が、共産党が何議席とろうが、安倍政権がどうなろうが基本的にはどうでもよいことだと思う。最も大切なことは私たち主権者が現在ある日本国憲法を制定した動機、思いに心を馳せることだと思う。

日本国憲法の条文に反して野党が要求する臨時国会を拒否する政府、政権与党は究極の説明責任を放棄しており、そのことは日本国憲法が立脚する立憲民主主義の否定である。内心の自由を含む基本的人権を守るための手段としての立憲民主主義の否定は、必然的に日本国憲法の目的である主権者たる国民の基本的人権への侵害を引き起こす。

その典型例が先日強行採決された組織犯罪処罰法の改正である。それによる私たち主権者の内心の自由への侵害は、おそらく間違いなく手続きたる立憲民主主義制度の更なる侵害を引き起こし、結果として日本国憲法が保障する他の様々な基本的人権への侵害を許してしまうであろう。

私たち主権者たる国民は、自己実現や自己統治といった私たちが日本国憲法を制定した目的そのものを失ってしまうであろう。

私たち主権者は、内心の自由への侵害をほんのわずかでも許してはならない。
内心の自由さえあれば、すべての他の基本的人権を失ったとしても手段としての立憲民主主義制度を通じて失った基本的人権を取り戻すことが可能なのだから

     平成29年7月4日   文責  世界のたま

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