プライドをなくしてしまった国家、日本

アメリカ議会での演説、戦後70年談話など世界に向けて安倍さんは言葉を発した。

 

彼にとってはプライドをかけた一世一代の演説、談話だったかもしれないが、あれほど日本という国家、国民にとって恥ずべきプライドをなくした出来事もなかったかと思う。

 

両演説、談話を通じて言えることは、戦後のアメリカ占領政策が未だに、そのまま続いており、日本という独立国家は存在しておらず、アメリカの属国、もしくはアメリカの一つの州に成り下がったというか、好んでならしていただいてると言わんばかりの宣言であった。

 

安倍さんはじめ、それを取り巻く人々は、さかんに日本国憲法が押し付けられた憲法だと言っているが、現実に存在している国家、日本国、並びに日本国民を、アメリカにそのままそっくり差し出している自分たちの愚かさは棚に上げている。

 

日本国領土、領空でありながら立ち入りが許されない、裁判権すら制限されている現実、どこに主権があるのか、国家としての、国民としてのプライドがあるのであろうか。

 

プライドとは何かを考えることがある。

 

よく人はプライドが傷つけられたとか言うことがあるが、多くの場合、本当の意味でのプライドではないことが多い。

 

プライドではなく世間体、社会的評価のことが多いいのだ。

 

私は思うのだが、本当の意味でのプライドとは世間から外部から傷つけられることはないものだと思う。言い換えれば、傷つけることがそもそも不可能なものなのです。

 

たとえば、かつてアウシュビッツにおいて人権をはく奪されたユダヤの人達にとって私は彼らのプライドは決して傷つけられることはなかったと思う。彼らにとってのプライドは彼ら自身の中にだけあり、死の淵まで決して傷つけられることなく存在していたと思うし、そのプライドの中で死を迎えたと思う。

 

本当の意味でのプライドとは他者が害することはできないものだ。もし、プライドが傷つけられることがあるとすれば、それができるのは、己自身でしかないのだ。

今回の演説、談話にしても、己自身の自己実現、自己統治という自主独立の思いは全く見られず、終始、過去に縛られ、そこから抜け出ることもできず、そこにあるのは、他者への追従、盲従だけだ。

 

主権者への提言の中でも述べたことだが、個の中に全体があると思う。国家を構成する主権者である国民一人一人の中にこそ世界全体があるのです。

 

人が生まれつき持っている本来のプライドとは、個の自己実現、自己統治そのものなのです。国民一人一人が、個のプライドを大切にするということは、個の中にある全体を大切にすることにおいてのみ実現できることなのです。

 

積極的平和主義とは、個の自己実現、自己統治が実現可能な世界を築くことなのです。そのためには個の中にある全体、言い換えれば、他者の自己実現、自己統治を図ることだと思う。

 

我が国、日本が、今なさねばならないこと、それは見せかけの平和を演じることではない。たとえば、オリンピックとは、本来、平和の祭典である。積極的平和主義を掲げるのであれば、本来のオリンピックの意味を世界に問い直す機会として使うべきであるが、日本の偽政治者たちは、ただの経済効果を生み出す道具としてしかみていない。

 

その結果として、競技場、ロゴマーク、ドーピング問題、様々な稚拙な事柄が、必然的に起きており、そのことは、現在の我が国が、見せかけの平和主義、民主主義国家でしかないことを証明している。そのことは、これらオリンピックを含む現在の政治を推し進めている偽政者たちが、それぞれ個の中に個しか見ていない裏返しでもある。

 

私は今、誰一人責任を取ることもなく無理やり押し進められている東京オリンピックは、もしするのであれば既存の施設を利用して、これ以上くだらない意味のないこ時間とお金を使うことはやめてそのお金を難民問題など他の用途に使うべきではないかと思う。

 

国民一人一人が個の中に全体を見ることができる社会、それこそが立憲民主主義に根ざした国家であり、プライドのある国家なのである。

 

2015年9月8日  文責  世界のたま           sign

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