安保法制の強行議決を前にして

この間、安保法制の国会審議を見ていて思うことは、日本国における民主政治の成れの果てを見ているようで、怒りや悲しみを通り越して今の国会議員、内閣総理大臣、他の大臣の人々の哀れさを感じる。

 

それは権力に魅せられた哀れな人たちの愚かさだ。

 

どこかの新聞の記事に出ていたが、私自身も今の安倍さんは世界の中で裸の王様でしかない。自分自身は、多分、大したことをしていると錯覚しているのだが、ただの自己満足でしかない。自分自身もある意味では不安なのだとは思う。その表れが、アメリカ議会での演説などのパーフォーマンスに他ならない。

 

哀れな裸の王様に対して誰一人裸なのですよと注意してくれる人もいないということに更なる哀れさを感じるが、多くの国民を巻き添えにする点においてなんら同情する余地はない。

 

私自身、このブログの中で、そして裁判の中で、今、私たち日本国民が大切にしなければならないものは、何かを訴えてきましたが、現時点では、何も変えることはできませんでした。

 

忸怩たる思いで、いっぱいですが、私自身、精一杯しているつもりで、個人としては、現代立憲民主主義国家に生きている国民として、なんら後悔はしていません。

 

このことで日本の民主主義が終わるのではないのだけれど、無駄な時間の消費と、第二次世界大戦含めた、過去、現在行われている様々な戦争、テロによって失われている尊い命と同様に日本国民の命の危険、実際の被害が生じてしまうリスクは避けることができないであろう。

 

できる限り避けなければと私なりに一生懸命頑張っているつもりではあるけれど。

 

ただ、裁判については先週に最高裁判所第一小法廷の裁判所事務官から上告受理申立の受付が完了した通知が届いた。

 

申立てが却下されることの確率はほぼ100%かもしれないが、私の裁判を通じて、日本国憲法が想定する内閣と国会における抑制と均衡が取れなくなった統治機構の中で、かつ民主制の過程の回復が困難な状況の中で、国民の基本的人権を守るため、日本国憲法の核心を守るため、憲法保障機関としての司法が、今までの殻(過去の最高裁判例)をうち破って、憲法裁判所としての司法の新たな姿を見せてくれることを切に願っている。

 

私の上告が認められ、審理されることで、我が国の民主主義の再構築、日本国憲法の再認識、世界の中でのこれからの日本の在り方が問い直されることを切に願ってやみません。

 

2015年7月14日    文責   世界のたま  sign

 

 

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