道徳とは

先日、校医の仕事の関係で、小学校を訪れたが、その際、現場の先生との話の中で、道徳の学校教育について聞いてみた。

 

先生になられて8年目の先生であったが、現在考えられている道徳を国が評価科目にすることについて反対意見を持たれていた。

 

以前、道徳について触れたことがあるが、国民の中でも最もとは言わないまでも、道徳的でない人たちである政治家が考えることだけに、多くの国民があきれ返っていることとは思う。犯罪者が、皆さん、犯罪を起こさないようにしましょうと言っているようなものなのだから。

 

私は思うのだけれど、そもそも道徳とは、学校で教わるようなものではないと思う。

 

基本的には学校ではなく、社会の中で教わってゆくもの、自然に身についてゆくものだと思う。ここで言う社会とは家庭、学校も含んでいるが、本来的には家庭、学校外での社会である。

 

人間は社会的動物であり、社会あるところに道徳が存在する。孤島で独りぼっちであったなら、道徳的である必要は全くないのだから。

 

子供たちにとって、家庭、学校というところは、最初に出会う社会であるのだけれど、そこで言う社会とは、親、教師を通した社会である。すなわち、親、教師が社会の一部であり、親、教師を含む社会を、彼らを通して学ぶのである。

 

決して、算数や理科のように教科書を通じて学習するのではなく、現実社会の中で道徳を学ぶのです。そのためには、親、教師はもちろんのこと、子供たちを取り巻く現実社会が道徳的でない限り、子供たちに道徳を教えることはできないし、ましてや、その評価などできるわけがないのです。

 

親、教師について考えた時、私を含めて、彼らも、現実社会の中で、生活をして生きている。

 

私は、その現実社会の中で生きてゆくことに、年々息苦しさを感じる。この息苦しさを感じるのは自分だけなのだろうか。そして、その息苦しさは年々、強くなってきている。

 

その息苦しさの原因は、私たちの社会に目的がないことから生じている。

 

そして、その目的こそが道徳なのです。

 

目的を持たない社会、手段を目的化している社会が現代社会なのだ。

 

ブログの冒頭の主権者への提言の中でも述べているが、人々が行っている様々の日常的なありとあらゆる行為は、経済的、政治的活動含めて、すべて所詮は手段に過ぎない。

 

現在、日本を含む世界で問題となっている国家体制である、資本主義、民主主義制度そのものも、所詮はただの手段に過ぎないのです。それぞれの制度は、社会を、物質的、精神的に豊かにする手段としては優れていたのは事実である。

 

ただ、人間は、種の保存というすべての生物の目的とは違う、自己実現をその目的としてきており、しかもその目的は手段そのもので留まっている。

 

私が感じる社会の息苦しさは、人間が、資本主義、民主主義という手段を乗り越えられないもどかしさ、そして、その中で世界は、本来の目的を見失い、歴史が繰り返されるというわかりきった結果がそこにあるのに、その流れの中で何も起きていないかのように楽しんでいる人間の悲しさ、哀れさからきているのだと思う。

 

所詮人間は、自然界における生物の一つの種でしかないとするならば、道徳的であることは無理なことかもしれないが、道徳的でなければ人間は存在し続けることはできないことも知らなければならない。

 

道徳を評価しなくてはならないのは、子供たちではなく、私たち大人たちであり、最も評価されるべき対象者は政治家、官僚など政治に携わる人たちである。ただ、憲法、法律を守れない人たちに道徳を守ることは決してできないことも事実である。

 

 

2015年6月28日  文責 世界のたま    sign

 

 

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