法の支配と法治主義

前回のブログで民主主義を取り上げましたが、民主主義が機能する前提として、法の支配が不可欠です。

 

そこで問題となるのが法というものです。

 

狭義の意味では法とは国家における法律を指すことが多いいかもしれません。そこで言う法律とは国家機関である立法府によって制定された法を指します。

 

従って法を守りましょうという場合の法、法治主義でいう法とは、基本的には狭義の意味での法律を指し、その制定過程、その内容、ましてやたとえ国家体制が独裁国家であれ、それらに関しては考える余地はないのです。

 

いわゆる悪法も法なりです。

 

我が国においても明治憲法下では法律の留保のもとで、言い換えれば、法律の範囲内での人権が認められ、逆に言えば、法律をもってすれば、人権制限が可能であった。

 

その後、世界大戦中、国家、法律の名のもとに様々な人権侵害が世界中で行われ、それを契機に法の支配という、国家、法律によっても侵すことのできない法、いわゆる自然法による支配が確立していった。

 

最近の世界で起きている様々な事象を考えた時、明らかに法の支配から、法治主義的な考え方への流れがはっきりと見受けられる。

 

私自身、法の支配という言葉が昔から大好きだった。ただ、法の支配という概念は、実は非常に人間にとってハードルの高い概念であることも事実だと思う。

 

国家や組織を超えたところにある法の支配という概念は、それを履行しないからといってそれを強制する強制力を持っているわけではない。法治主義においては、国家機関である検察、警察、そして司法による強制力が作用するため否が応でも従わざる負えないが、法の支配に関する強制力は存在しない。あるとすれば抵抗権、革命権といったことになるのであろう。

 

沖縄辺野古問題での政府の沖縄県への対応の中でも防衛省の農水省への行政不服審査法に基づく執行停止の申し立てなどは、本来は国民の権利を守るための不服審査法であるのを国家が申し立てるなど、法治主義どころか、本来、不服審査で訴えられる側が逆手にとってその法律を用いて訴えるということを平気で行っている。

 

2010年のアメリカ最高裁判所のシチズン・ユナイテッド裁判での企業による政治献金の無制限の合憲判決もある意味では政治活動の自由という点から見れば一見、理があるように思えるが、資産があるものの政治への影響力を考えた時、これは法治主義的な考え方で、政治活動の自由(特に政治資金の供与の自由という点に過ぎない。)と健全な民主主義の維持という利益を比較検討した時、法の支配の考え方からは、政治献金の制限が認められることが理にかなっていると思う。

 

イスラム国などとのテロとの戦い、彼らには彼らなりの宗教上の教義があり、それがいかなる非人権的なものであろうとも、それが彼らにとっての法である。それもまた、法治主義的な考えである。

 

ロシアによるウクライナ問題、アフリカ各地でみられる内戦、シリアでの内戦、北朝鮮での政治体制など世界各地で起こっている諸問題で言えることはそれぞれの国家、地域での施政者にとって、法治主義的な意味での法に則った行為であり、正当化されるべきものであると考えている。

 

今、私たちが考えてゆかなければならないのは法の支配という視点から物事を考え、行動してゆくことだと思う。

 

法の支配とは、国家、地域を超えた概念で、いわば道徳に近い概念だと思う。

 

すべての人が道徳的であることはほとんど困難であるが、すべての人が法の支配のもとにあることは可能だと思う。

 

私は思うのです。法の支配から法治主義へ歴史を戻し、従来から言われているように歴史を繰り返すのではなく、法の支配の確立を目指すべきなのです。

 

法の支配とは決して難しいことではないのです。ほんの少しだけ誰もが私欲を捨てればできることなのだから。

 

2015年6月4日   文責   世界のたま                 sign

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