企業(会社)とは

世の中には数多くの企業があり、そこで数多くの人たちが働いている。また、多くの若い学生が毎年、就職活動のために、多くの企業を訪れていることでしょう。

今回は、皆さんが働いている、または、働こうとされている企業について考えてみたいと思います。

最近のニュースでも派遣労働者に関しての法改正が問題になっています。

派遣労働者についての改正ですが派遣社員について一定の派遣雇用期間が経過しても人が変われば引き続き派遣雇用が継続できるというものです。

賛否両論言われており雇用の機会を増やすことができる反面、派遣の固定化につながり企業サイドに立ったものだとも言われています。

 

私はこれらの議論をみていて思うことは、表面的な派遣社員の在り方がどうであるかと考える前に、現代社会における企業そのものを在り方がどうあるべきなのか、もっと言えば企業とは何なのかを考てみる必要があると思います。

 

企業を取り巻く問題には派遣問題以外でも、食品偽装問題、自動車などの製造業のリコール問題、ブラック企業問題、製薬会社における治験欺罔問題や薬剤副作用問題、電力会社における原子力汚染問題、電力買い取り問題など数多くの問題が生じています。

一つ一つの問題をみると一見それぞれ違った問題に見えますが、根源的な問題は企業の社会的責任だと思う。それはつまり企業の在り方、企業とは何なのかが、今、問われているのだと思う。

 

企業とは何かを考えた時、多くの人の答えは、日々の生活費を稼ぐところ、そして、自分自身のやりたいことを実現するところといったところでしょうか。

確かに現実的にはそういった理由で働かれている方が多いいと思います。

 

企業の成り立ちを考てみると、個人で生産するだけでは限界があり、人が集まり分業して効率的に多くのものを生産する中で物が豊かになり社会が発展し、企業という形が形造られ、それと同時に雇用者と被雇用者という関係、企業が巨大化する中で、経営者と株主という関係が生じたのだと思う。

従って、もともと企業という組織は社会が豊かになる必要な手段として生じてきたものだと思う。

財政の現代史に関する提言の中でも述べているが日本社会においても当初、企業は終身雇用制のもとで国の社会保障制度の一役を担っており、企業で働くことで多くの勤労者、その家族は安心して生活を送り、社会が発展できたのだとは思う。

そうした中で企業も巨大化し、現代社会においては、本来、社会、国民のための手段としての企業が、企業のための企業に、言い換えれば、手段としての企業が目的化してしまっている。

 

資本主義という考え方は確かに社会を物質的に豊かにし、飢餓や、貧困を減少させたという点では手段としては間違っていなかったと思うし、合理的で必要だったとは思う。

その中で企業の果たした役割は大きかったと思う。

 

ただ、今の世界、特に日本社会を考えた時、私は思うのです。

 

主権者諸君へ、世界への提言の中でも述べているのですが果たしてこれ以上の手段としての便利さは社会にとってそんなに必要なのか?

 

手段としての企業の利益のために私たち社会が振り回され、利用されているだけではないのか?

 

私が、世界、日本社会を直視した上で、立ち止まって考えた時、これ以上の便利さが世界の人々の豊かさ、特に心の豊かさ、言い換えれば人間らしさにとって必要かと問われたなら

 

否と答えると思う。

 

1年10ヶ月前くらいだったか滅多に行かないのだが製薬メーカーの勉強会に招かれて話をさせてもらったことがあるが、その時に思ったことは、勉強会の内容ではなく、席の配置だった。

私が一番前の席に製薬メーカーのスタッフに向かって一人で座っていたのだが、一列に私に向かって座っている製薬メーカーのスタッフたちから離れた一番後ろの会議室の入り口のドアのそばに子会社の卸業者のスタッフがたった一人でぽつんと居心地悪そうに座っていたのを今でもはっきりと覚えている。

その当時の私の担当のメーカーのMRは常日頃、卸業者とは二人三脚でお互いに助け合って上下関係はないと言っていたが現実を垣間見た気がした。

おそらくメーカーのMRは認識していないのだろうが、こうした積み重ねが、製薬メーカーの奢りを生じさせているのだと痛切に感じ、皮肉ではないが、その時にその製薬会社が海外で訴訟を起こされている薬剤(日本国内でも製薬会社が、緊急の注意喚起、患者への発がん性についての説明義務を指示していた)に絡めて、エイズ混入血液製剤事件を取り上げたが、一方で、このスタッフたちでは、おそらく被害者患者の痛みは理解できないだろうと痛切に感じたのを今でもはっきり覚えている。

その後、MRと訴訟を起こされている薬剤について話した際、MRが裁判では勝っているという話をしたとき、私が「発がん性があるかもしれないが裁判では勝っているという張り紙をしてあるフレンチ料理を君は食べるの?」と聞いたら黙って何も答えなかった。最近、アメリカで80億程度の上訴審賠償判決が出ていた。陪審員判決から相当、額が減ったから多分その企業は安堵しているのだろう。

ただ、私は思うのだけれど企業の本来の存在理由を考えた時、本当は訴訟の勝ち負けではなく、その額でもない。

訴訟を起こされたこと自体が問題だと思う。たとえアメリカが訴訟好きな国としても。

一歩譲ってそんなに安全性に自信があるのであれば何故、日本国内で緊急の注意喚起、患者へ発がん性の説明義務をするのかが理解できなかった。

特に、製薬メーカーであれば健康被害については謙虚さが必要であると思う。

そしてかかったと思われる多額の訴訟費用、賠償金もその一部は、我々日本国民の医療費としての税金が使われているのということも認識すべきで、その意味でもいくら莫大な利益を上げ、給与が良いとしても、社会的存在価値の低い企業としか言いようがない。

 

医療に関わるものにとって最も大切なものは何かと問われたなら、

 

いかなる理由があろうとも、どこまでも、相手に寄り添う姿勢であり、気持である。

 

世界の財政政策を見ても分かるように、EU、アメリカ、日本ともに行き詰まってきており中央銀行が、国債、債券を買い取る、金融緩和を推し進めざる負えない状態に追い込まれてきている。

 

昨日のニュースでも日銀の黒田総裁は70兆からさらに10兆円の金融緩和の上積みを行い、年80兆円としたが、本当に日本財政、金融政策の限界だと感じた。ただそれを決めた金融政策委員9人のうち反対が4人いたことがほんのわずかであるが救いだった。

 

他の提言で述べようとは思うが、言わば、世界は資本主義経済の限界に差し掛かっていると思われる。

 

現実的にいくら日銀が金融緩和しても大企業のみが利益を上げ内部留保を増やし、中小企業含めた勤労者は賃金は上がらず、完全に経済の流れ、貨幣の流れは行き詰まっている。

日本の基本法たる憲法を振り返ってみたとき、憲法上、資本主義を認めている条文というと29条の財産権の保障、22条の職業選択の自由であるのだが、共に、自由を認める一方、その自由は公共の福祉による制限を受けている。

憲法上、具体的権利の中で公共の福祉による制限を受けている条文は他にはない。

 

私は思うのだが、日本国憲法は資本主義経済の限界を予定しているのだと思う。

 

今回の提言の企業とは何かということで言えば

 

企業とは、社会の心の豊かさを創造する媒体、手段だと思う。

 

多くの方はおそらく理想の考え方で現実的ではないと言われると思う。

 

それは私も含めて資本主義的な考え方で教育を受け、資本主義社会の中で生活してきたからです。その中では現実的ではないとしか思えない。

 

世界への提言、主権者諸君への中でも言っているように、資本主義社会の行き詰まりの中で資本主義を超えた 新たな価値観が必要な時なのです。

 

 

平成26年11月1日  文責 世界のたま   sign

 

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