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仮想通貨に思う~仮想社会に、救いはない

コインチェックからの仮想通貨の流出が大きな問題を引き起こしたが、このことは、現代社会に生きている私たち社会の鏡である。
仮想通貨という表現をしているが、そもそも国家の中央銀行が発行しているドル、円、ユーロをはじめとする通常の通貨そのものも所詮は何の価値もない単なる交換手段にすぎない仮想価値に他ならない。
私が、コインチェックなどの事件を知ってまず思うことは、事件そのものより、仮想通貨をはじめとする仮想社会の中に生きる私たち人間の愚かさ、哀れさであり、その果てしない虚しさである。
仮想通貨以外でも、様々な技術を駆使して作り出されている仮想空間、そして仮想敵国まで人間はありとあらゆる仮想社会を作り上げている。
仮想社会を作り上げていることに対して、私たちはそれを技術の進歩であると錯覚している。ある者は経済的利益のために、ある者は自己満足のために、しかし、どこまで行ったところで、その先には何の価値も存在していない。
今回のコインチェックの損害に関しても、たとえ、その保障として実際の通貨に換金されたところで、所詮それ自体何の価値を有しない通貨以上の何ものでないのだから。
仮想通貨を国境を越えた交換手段としての側面をその利点としてあげられることがあるが、果たしてそうした利点は意味があるのであろうか。
グローバル化の流れの中で、ネット社会と物流を合体させた仮想通貨は一見、私たちの生活の中で便利な手段であり、有意義なものに考えられやすいが、私にはそれは誤りであると断言できる。
例えば、現実の通貨ユーロを考えて見ればわかることである。通貨の統合の中で、国家の融合を図る社会的な実験であるが、イギリスが離れ、アメリカファーストの中で、各国の国家主権主義が強くなる一方である。
通貨統合という手段によって、国家間融合、世界平和という目的がなしえると考えることは茶番である。
手段は所詮、手段でしかありえないのだから
その手段を目的にすり替えているのが、経済至上主義であり、その一役を担っているのがグローバル化企業であり、仮想通貨もその中の一手段にすぎない。
仮想通貨は、所詮単なる手段にすぎない。
今回のコインチェック事件は、手段としての仮想通貨を、それがさも価値があるかのように錯覚した者たちが、目的化してしまっている経済至上主義のなれの果てであることを明らかにしている。
仮想通貨を作る人々、それに踊らされる人々、全ての者たちが、手段としての貨幣に踊らされ、鎖につながされた奴隷にすぎないのだということに私たちは気が付かなければならない。
彼らは一見想像力が豊かで、知的な人間であるかのように思われるが、私にはその逆で、経済至上主義の中で、貨幣や物に心を奪われた真の意味で想像力の欠如した哀れな人間、一生、その鎖につながれた社会から抜け出すことができないちっぽけな人間にしか見えない。

世界平和、人類の平和的共存、一人一人の人間の価値の最大評価を目的だとした時、それを貨幣などの手段でなし得ようとするならば、その前提として、国家、民族、宗教的な対立の解消、究極的にはそれらが無くなる必要がある。
しかし、現実的には、誰が考えても困難である。それらは、人間にとって貨幣など以上に核心に近いものなのだから。
それらの私たち人間にとって大切と思う国家、民族、宗教などの、所詮はそれらも手段にすぎないものであるが、それらの手段を守りながら世界平和、人類の平和的共存、一人一人の人間の価値の最大評価という目的を成し遂げようとした時、私たちにとって何が最も大切かと言えば、通貨などの手段、経済至上主義を決して目的化してはならないということだ。
特に仮想通貨などのグローバル化に直結する手段を目的化してはならない。
その先にあるのは、争いの絶えない世界であり、奴隷社会であり、人としての尊厳のない社会である。
私たちは仮想通貨や、経済至上主義といった想像力の欠如した社会を乗り越えた新たな社会を作り出さなければならない。
私たちは決して歴史を繰り返してはならない。

    平成30年1月30日  文責  世界のたま

己に徹して人のために生きる~民主主義とは

人が己に徹して生きてゆくことは非常に難しいことだと思う。
特に、現代の経済至上主義の中で、それを実践することはなおさらである。
先日、ハワイにおいて、ミサイルが発射された誤情報が一斉に流され、多くの住民が振り回され、ある者はあわてて建物内に非難し、ある者は愛する人へ愛しているとのメッセージを送信した。
一方で、シリア、イエメンなどでは、何の警告もなく爆弾が投下され、多くの子供を含む人々が逃げまどい、そしてその短い人生を終えている。

トランプ大統領は、北朝鮮、イラン、パレスチナなどを威嚇し、嗾け、それによって、世界中に脅威を煽り、それに便乗する形で多くの国々で、中央集権化、国家主権の強化がなされている。
彼らの目的はただ一つで経済的利益のみである。
国際的には巨大な軍事力、経済力を武器に、ありとあらゆる地下資源、海洋資源の獲得競争が行われている。
国内的には軍需産業の活性化で莫大な需要が生じており、雇用の拡大がなされている。そうした中で、人々はさらなる物質的、金銭的欲望を増大させる。

アラブの春におけるジャスミン革命によって、唯一民主化がうまくいったと思われたチュニジアにおいても経済的格差の中で、政局は混迷を極めてきている。

今、世界を見まわした時、経済至上主義の下での民主主義は成り立ちえないことを私たちは気付いているはずである。

民主主義とは自己実現、自己統治の過程である。
そのためには私たちは己に徹しなければならない。
しかし、経済至上主義の下では、決して己に徹することは困難である。蓋し、経済至上主義の下では、ある者は、更なる経済的利益を求め、ある者は物質的利益を求め続けるしかないからである。

人は、莫大な資産を形成している富あるものは一見、自由であり、彼らに雇われている人々は不自由であると考えやすいが、決してそうではない。どちらも結局、経済的価値という鎖につながれた奴隷にすぎない。

トランプ大統領がアフリカを肥溜めと表現して国際的な問題となっているが、かつて奴隷船で多くの人々を奴隷としてアメリカに連れてきたその感覚が残っているのであろう。だが、実際はどうなのであろう。経済的、物質的な鎖につながれた人生を送っているものと、たとえ、経済的、物質的に豊かではなくても自然の中で、自然と共に生きている人々、どちらが自由なのであろう。

私には、鎖を断ち切って、己に徹したとき、人は真の意味で、自由になり、そうした中で、自然との共存、他者との共存が初めて生まれるのだと思う。
個の中に、全体が見えてくるのだと思う。
己に徹したとき、はじめて人のために生きれるのだと思う。
民主主義とは、己に徹して人のために生きる社会であり、それ以外に、私たちが生きてゆく術は無いことを、私たちは知らなければならない。

私自身、己に徹して人のために生きてゆきたいと思う。

  平成30年1月16日  文責  世界のたま

歴史の連鎖を断ち切れることができるのは、「法の支配」のみである

あと今年も今日一日となりました。
人々はこの一年を振り返り、明日から新たな気持ちで一年を頑張ってゆこうとしている。
確かに以前のブログの中でも書いたことがあったが、新たな気持ちで再出発しようとする気持ちのレベルでの意味は大なり小なりあるとは思う。
しかし、今日は、昨日までの社会環境を前提とした今日であり、明日はたとえそれが元旦であろうと、所詮は今日を含めた世界情勢の中での明日でしかない。
過去は消えるわけではなく、全てをその中に包み込んでいる。
私たちは今日を含めた過去、歴史から逃れることはできない。
たとえ新年を迎えたところで

毎日、ネットや、テレビなどで流れる多くの報道、様々な番組を見ていて思うのだが、誤解を恐れずに言えば、全ての面で社会全体が軽薄化している。
そのことは、政治において端的に表れている。現在の政権を筆頭に、与野党問わず国会議員をはじめとする政治家含めて軽薄化の嵐である。そのひどさは日に日に増している。
番組について言えば、経済至上主義の中で、様々な番組は、その背後に大企業というスポンザーがあり、そのスポンサーである大企業は、その利益を求め、番組内容、出演者全てにおいて、政権批判ができなくなっており、その内容も政権を反映して軽薄化している。

多くの国民は、それらの一見楽しく明るい番組、スポーツ、娯楽番組、コマーシャルの洪水の中で、世の中では何も問題は生じていない、何も心配なことはない、現在の生活が続くものだと錯覚する。
かつてナチスが報道、宣伝を巧みに操って国民をコントロールしたが、このことは、ネット社会が発達した一見自由な報道が保障されていると考えられる現代社会においても同じことが起きうる。我が国のような北朝鮮、中国などの露骨な報道規制がない国家においても起こりうることなのです。
何故ならば、軽薄化の原因は、報道規制などにその主たる原因があるのではなく、国民の思考停止にあるのだから。思考停止の中において、自由な報道は何の意味をなさない。
軽薄ではあるが自由な報道が、一見されていることにより錯覚を生じ、何の問題もないと感じることで更なる思考停止が生じてしまっているのだと思う。

そして、将来の国民のことなど何一つ考えない無茶苦茶な経済重視の政策の中で、そのパイを求めて企業はより政権批判をやめて従順な犬となる。その従順な犬のもとで、多くのサラリーマンはより従順な下僕となるための下僕同士のみじめな争いに終始する。報酬というエサと、リストラという鞭の狭間の中で、主権者としては完全に思考停止し、真の意味での自分たちの子供、子孫のことなどに対する責任に対しても思考停止となってしまう。
そのことにも気づきもせず、蜃気楼のようにはかない一瞬の錯覚にすぎない現在の自分たちの生活、社会が続くものだと信じている。
蓄積した富が、グローバル化の中で、更なる中央集権化を図り、一部のお友達のためだけの国家へと変貌し、富はさらに蓄積化し、蓄積化された富によって、説明責任のない社会、民主主義が否定された社会へと現代社会は変貌している。
そうした中で格差社会は拡大し、説明責任のない社会の中で、その底辺社会の人々が最終的に突き進むのが、死かテロではないかと私は思う。
多くの権力者、富あるものは底辺社会の人々の死にはたとえ何人死のうが何一つ関心を示さないが、テロには自分たちの生命がかかっていることがあって大いに関心を抱き、現実的に世界でテロ対策に躍起になっている。これは政治体制問わずアメリカ、ロシア、ヨーロッパ、中国、フィリピンあらゆる国で同じことである。

我が国においても今年成立した共謀罪である。国民の内心の自由を侵害し、国民同士の監視社会を作り上げ、テロを防止することを意図しているが、所詮は、特定秘密保護法、安保関連法と同様に、現在の富ある人々、権力者を守ってゆく一手段にすぎない。
特定秘密保護法に関して言えば、自分たちの都合の悪い情報は永久に葬り去るための仕組みであり、安保関連法は自分たちの資産を何としても守ろうとする仕組みなのだから、彼らの資産を守るのは彼ら自身ではなく、自衛官であり、死ぬのは彼らではなく、自衛官であり、彼らにとっておそらく自衛官がたとえ死んだとしても何の関心もない。彼らの資産が守られればよいのだから
先程も述べたようにテロは底辺社会の人々が起こすことが多いいと思う。蓋し、説明責任のない社会、裏返していえば、今年解散された国会と同様に、一切の発言も、説明も許さない立憲民主主義が否定された社会の中で、底辺社会の人々はその言論の場さえも与えられず、結局、向かう先は静かな死か、テロなどの行動しか選択肢がなくなるのではないかと思う。
私自身、共謀罪に関しては一貫して反対しており、現在も最高裁判所に特別抗告、上告中である。
私はテロなどのない平和で安心な社会を望んでいるが、そのためには、格差社会のない、説明責任のある社会が不可欠である。

歴史を振り返った時、説明責任を放棄し、民主主義を失ったとき、必ず悲惨な時代を迎えている。
そうした歴史を繰り返しているのは説明責任のない社会の中で、多くの国民が思考停止に陥ってしまい民主主義が機能しなくなっているからに他ならないと思う。
私はそんな歴史の繰り返しの中で、人類が考え出した方法が、憲法に基づく「人」ではない「法による支配」だと思う。
現在の我が国は、経済至上主義の中で、説明責任は放棄され、国会は内閣の下請けとなり、一方で、主権者たる国民も思考停止に陥っている。
立憲民主主義が機能不全に陥っている中で、現政権は憲法を順守する前に、憲法改正論議ばかりを推し進めようとしている。このことは歴史の繰り返しに他ならない。そこに待ち受けているのは悲惨な結果しかない。そのことは歴史が証明している。

日本国憲法は過去人類が繰り返してきた悲惨な歴史の証明であり、それを避けうる証明でもある。
私たちが歴史を繰り返さないために不可欠なもの、それは日本国憲法の順守である。しかし、それが守られず、主権者たる国民が思考停止し、立憲民主主義が機能不全に陥り、歴史を繰り返そうとしている時、最終的に不可欠なもの、それは「法の支配」に他ならない。
「法の支配」無くして、私たちは、過去の人類の歴史を内包化した元旦を、新たな再出発とすることはできない。

歴史の連鎖を断ち切ることができるのは「法の支配」のみなのだから
 
    平成29年12月31日   文責   世界のたま

平昌五輪とエルサレムの首都承認に思う

平昌五輪へのロシア代表のドーピング問題が、ロシア政府によるロシア選手の個人参加を認める方向で、一応解決をみた形となった。
私が一連の流れの中で感じたことは、そもそもドーピング問題とは何なのかという疑問である。
確かにロシア選手が禁止薬物を使用し、それを隠蔽してメダルを獲得したことはロシア政府が出場不参加ではなく個人参加を認めたことで、それは事実なのであろう。
しかし、そもそも筋力増強剤などの薬物を禁止薬物としている目的は何のためなのだろう。
おそらく選手間の競争の不平等の是正のためであろう。
しかし、そもそもオリンピックに出場する選手にとって何が平等の基準なのか。
例えばかつて水泳競技において、ある時から突然、一定の泳法が違反となった。ルール変更はいろんな競技でも起こっている。
また、競技に使用する道具や身に着ける衣類など一定の基準の中で競うように選手をバックアップする企業間で開発競争がなされている。
一人一人の選手の練習器具、練習場所、練習時間、コーチングスタッフ全てにおいてすべてにおいてもともと格差があるのだ。
そんな中で総じて言えることは、基本的には経済力、即ちお金があるものが有利だということだ。
確かに選手個人の素質、努力は必要である。しかし、現代のオリンピックにおいて金メダルを取ろうとした時、それだけでは困難である。幼いころからのお金を惜しまない整備された練習施設での国内外を問わないお金に物を言わせたコーチングスタッフ、そして戦争やテロや暴動のない生命の危険のない衣食住の整った社会環境が不可欠である。
結局、各国のメダル獲得数は経済力もしくは国家権力の力の差で決まってしまう。
そうした中で、オリンピックは多くの利権を生む。
組織自体も巨大化し、放映権料などによる莫大な収益、招致活動に対する金銭含めた利益供与、組織役員にまつわる権力闘争、開催国内においても東京オリンピックをめぐる多くの問題で明らかになったように権力、利益獲得競争の巣窟である。
平和の祭典とされているオリンピックであるが、経済至上主義のもとで平等や民主主義とは対極のものとなっている。
オリンピックという煌びやかな祭典の向こうに、地球温暖化の中で海水にのみ込まれている小さな島国、民族紛争の中で国家を追われる難民、非民主的国家の中で迫害されている人々が存在している。
オリンピックが巨大化し、華やかになるほど、その艶やかさの中で、私には、彼らの悲鳴がかき消され、彼らの悲鳴をかき消すために、その艶やかさを演出しているとしか思えない。
今、世界で起きていることは、何度もお話ししてきたように、グローバル化した経済の中で、莫大な富を蓄積した人たちによる利権の確保、その手段としての国家主権の強化、その結果としての、民主主義に対する抑圧に他ならないと私は思う。
このことは国家の政治体制に関わらない。アメリカ、ロシア、中国、ヨーロッパ諸国、東南アジア諸国、中東諸国、アフリカ諸国、南アメリカ諸国、世界全ての地域で巻き起こっている。もちろん我が国、日本でもだ。
何故、トランプ政権がこの時期に、エルサレムをイスラエルの首都と認めたのか。確かに、アメリカ社会における政治的な背景もあるとは思う。
しかし、私が思う最大の理由は、衆議院選挙中にも話したことですが、経済至上主義のもとでの国家主権の強化に他ならない。
北朝鮮問題もそうなのだが、今回のエルサレム問題も同じことなのです。彼らにとって、武器の需要のない社会は来てもらっては困るのだ。
常に、政治的緊張を高め、武器の需要を高めることが、莫大な軍需産業の利益を上げ、政治的緊張を高めることで、国内的には民主主義を抑制し、国家主権の強化につながる。その政治的背景には莫大な富を蓄積続ける資産家がいる。
今回、アメリカの議会で税制度法案が可決ざれたが、その内容も、税制度が本来持つべき平等、民主主義の観点からの所得の再分配機能を否定するものである。
富の蓄積は、アメリカの連邦裁判所判決、無制限の政治献金を認める判決により、一部の者だけのための政治を容認する。そして民主主義の根源である説明責任を否定する。
そのことは、先にあげた世界中の国々で、そして我が国日本で同様に生じている。
一見、現代社会は、自由で、民主的で、平和な世界に見えるかもしれないが、私には、脆く、薄っぺらな社会にしか見えない。
平昌五輪、東京オリンピックの煌びやかさが報じられれば報じられるほど、私には、世界中で虐げられてる人々の悲鳴が聞こえてくる。
それは民主主義の断末魔の叫びでもある。

    平成29年12月25日  文責  世界のたま

横綱日馬富士と安倍政権(法律と道徳)

横綱日馬富士による傷害事件とそれに伴う処分について、このところ毎日のように取り上げられ、同時に国会における森友加計問題に対する質疑応答も同様に取り上げられていた。

この二つの問題は片や相撲、片や政治と全く違う世界で起きたことであり、関係ないことのように思われやすいが本質的にその問題となる点においては同質であると思う。

相撲協会理事長がスポーツ庁を訪問した際に長官が理事長に注意したとされる社会に対する説明責任をきちんと果たすようにというその言葉である。現政権下の大臣であるお前が言うのかと唖然とした言葉であったが、そうなのだ、社会に対する説明責任なのである。

被害者とされる貴の岩の師匠である貴乃花親方は相撲協会をはじめ、報道関係者に一切を語らず、黙秘を貫き、各方面から非難も浴びていた。彼が何故、黙秘を貫きすべて警察に任せるとしたのか、その真意はわからないが、私には閉鎖された相撲界、理事会、横綱審議委員会に対する不信感以外の何者でもないように思う。

おそらく貴の岩の負った傷の程度もうやむやにできるレベルで無かったこともあろうが、過去にもそれらの閉鎖された社会の中で多くの事柄がうやむやにされてきたのではないかと思う。今回もおそらくそうした閉鎖された社会の中で解決を図れば、何事もなかったかのように終わることを危惧したのではないかと思う。

だからこそ審判部長でありながらまず警察に連絡したのだと思う。それに対して審判部長でありながら警察の前に理事会などへの報告すべきであるとしてその義務違反を問う声もあった。しかし敢えて警察に連絡したのは閉鎖された相撲界を知り尽くしていたからに他ならないと思う。

私は全国いたるところで起こっている子供のいじめ、そして学校関係者、教育委員会の隠ぺい体質、それらも同様のことが言えると思う。

私は相撲の取り組み中の事故などであれば、それらは別として、今回のようなプライベートな時間に起きた傷害事件はその程度は別にして、まず第一に問われなければならないのは一般社会人としての責任であると思う。そういった意味で今回ここまで複雑な問題となること自体が理解できない。貴乃花がとった態度がごく当たり前の社会人としての対応である。

スポーツ庁長官が理事長にいった社会に対する説明責任とは、彼らがどういう思いでその言葉を発し、受け止めたかは知らないが、私が思うのは、社会は社会でも一般社会に対する説明責任である。

結局、日馬富士の横綱引退という結果を生じたが、それも致し方のないことである。逆に言えば当たり前のことであろう。

一方、森友加計問題における質疑の中でも、会計検査院の値引きの根拠は不明確であるとの指摘に関して、真摯に対応するとは言うものの、総理の妻をはじめとする当時の関係者の証人の招致に関しては拒絶、値引きに関する資料の隠滅に関しても何らの責任を取ろうとも思わない、納税者である主権者たる国民に対して真摯な説明責任を果たそうとするかけらもない。

日馬富士問題、森友加計問題に共通なのは、彼らがそれぞれのお友達社会の中でことを納め、一般社会に対しては何ら説明責任を拒絶して、自分たちの利権を守り続けようとする姿勢である。その裏には相撲界で言えば満員御礼の状態を壊したくない相撲界の収益であり、ひいては理事長はじめとする高額な報酬であろう。政治で言えば官僚、政治家、企業家たちの利権である。

その根底にあるのは経済至上主義に他ならない。彼らが住む社会には、一般社会の道理や、最低限の社会人が守らねばならない法律すら存在していない。

相撲界はまだ国技として一定の税金が投入、免除されているとしても庶民の娯楽の一つにすぎないが、国会は国民が守るべき法律を制定し、内閣はそれらを執行するのである。

衆議院選挙中にも述べたことではあるが、もはや我が国は学級崩壊している。その是正のために必要なものが今回の日馬富士問題では相撲界ではない一般社会のルールである法律の順守であり、森友加計問題における国家機関においては、法律を制定する立場としての法律以前の道徳観であり、国家機関をも拘束する日本国憲法の順守に他ならない。

そうした中で彼らは子供たちに道徳教育科目を必須化させようとしている。
子供たちに教える道徳が彼らのどこにあるというのか
道徳観のかけらもない政治家、官僚により作られた道徳教育を教える教員、おバカな国家日本としか言いようもない
教員は、現在の自分たち大人社会には子供たちに教える道徳が全く存在していないことをも合わせて教えなければならない

     平成29年11月30日  文責  世界のたま

明日が来る当り前さ(今日を生きる)

私は仕事柄、多くの人を看取ってきた。
人の死は輪廻転生において、一つの通過点、現象にすぎないのかもしれないが慣性の法則の中で、人は恐れ、日常の意識の中でそれを潜在化させる。
人は明日が来ることを当たり前と考える。

確かに世の中には、与えられた仕事、自分が望んだ仕事に対して時間を忘れて一生懸命に取り組まれている多くの人々がいるであろう。一日一日を必死に生きておられる方も数多くおられるのも事実だと思う。

しかし、人としての死を含めた一連の時間軸の中での今という時間、人類の歴史の中での今という時間、地球の存在の中での今という時間
国内外の人類すべての中での自分という個人の存在、生物界全体の中でのヒトという種としての個人の存在、自然界全体の中での個人としての存在

それらを意識した上で今を生きている人がどのくらいいるのであろう。一人一人の人間は物質的にも時間軸的にも全体の中での個であると同時に、個の中に全体がある。個の存在のためには全体が必要であり、個の存在なくして全体も存在しえない

自然との共通感覚である

私が、今の時代を生きる中で、今を生きる人々に対して最も必要であると訴え続けている感覚である。全ての人が持つ必要があると言っているのではない。国家の三権、立法府、行政府、司法府に関わる人々、そして未来の主権者を育てる教育者には持ってほしいと願っているし、日々現実の中で世界中に起きている事象を鑑みた時、私たちは持たなければならない。
現在の自然との共通感覚を失った世界は今まで幾度となく訴えてきたように決して長くは続かない。
共通感覚を失った人間は自然界では存在しえない

この一カ月私たちの身の回りで起きていることを振り返ってみればいい

育児、教育の無償化のためとする政府から企業への3000億円の出資の依頼は、時代遅れのトリクルダウンの発想で、国民に対する侮辱であり、立法、行政府の責任の放棄であり、政官癒着、経済至上主義の裏返しである。
そこに存在する国民は、個としてただの全体のための存在でしかない。決して個のための全体は存在してはいない。もし個のために全体があるとすれば、税制度全般の中での無償化がなされなければならないはずである
私たち国民は物乞いではない

森友加計学園問題が国会で取り上げられ、特に森友学園に関しては会計検査院からは森友学園に対する国交省の土地の値引きに関して十分な根拠がないとされた。そして加計学園もなし崩し的に文科省によって認可された。
森友学園に対する値引き、加計学園に対する国、今治市からの補助金、今後発生するであろう加計学園に対する補助金はすべて国民の税金である。そこに存在するのは、個のための全体であって、決して全体のための個ではない。
もし全体のための個でないとするならば、それらの根拠なき行政行為は無効であり、それらに関わった全ての者たちが責任をとらねばならない。彼らが勘違いをしているのは証拠さえ隠滅しておけばどうにかなると思っていることである。疑いを晴らさなければならないのは彼ら自身であり、挙証責任は彼らにある。

国会では与野党の質問時間が盛んに論じられ、党首討論もされることがなくなった。確かに質問時間も大きな問題であり、民主主義とは説明責任であるという根本的なことを無視している現政権に対してはそれらの質問時間の取り決めが必要であるとも思う。
しかし所詮、質問時間を長く確保したところで、本質的には何の意味もない。
根本的な問題は、与野党含めた全ての国会議員一人一人が、全国民の代表者なのか、自然との共通感覚を持ち合わせているかどうかが問題なのであって、質問時間の長短は大きな問題ではない。裏返すと、自らを個のための個としての存在、個のために全体が存在しているとしか考えない、国民を全体のための個としての存在としか考えない国会議員しかいないために質問時間が問題となってしまうのである。

今日ニュースになっている京都大学の立て看板が景観を害するとの意見を大学当局に申し立てたとか、地球温暖化防止のために炭素税の導入だとか、投票率の低下など若者の政治離れのために被選挙権の年齢を下げようだとか、どの政策を見ても自然との共通感覚はみじんも見られない。
京都大学の立て看板で言えば、特定秘密保護法、共謀罪含めた民主主義の根幹たる思想、表現の自由への侵害の一連の流れの中で考えることが本当の意味での自然との共通感覚である。
炭素税の導入も一見すると自然との共通感覚に基づいているように思えるが、産業構造全般、経済至上主義の見直し、税制度全般における平等主義、民主主義観点からの見直しの中で考えなければ何の意味もない。
被選挙権に関しても、違憲状態の選挙制度しか作れない、違憲行為のオンパレードの自らを個のために全体が存在しているとしか考えない国会議員から言われる筋合いのものではない。国民主権、民主主義を理解できない彼らに選挙制度を考える能力はない。

アメリカと共同して月面で人間が生活するプロジェクトを検討するようなニュースもやっていたが、民族紛争、格差社会、環境破壊などの地球環境も考えることができないものが考えることとは思えない。自然との共通感覚を失い、科学の中に閉じ込められ、本来の想像力を失った砂漠を彷徨う現代社会を象徴している。

私たちは、全体は個のために存在していると考えると同時に、個の中に全体を考えなければならない。地方自治は民主主義の学校であると言われるように、地方の中に日本全体を考えなければならない。そして、日本という国家の中に世界全体を考えなければならない。

私たちは決して明日が必ず来るものと錯覚してはならない
過去に思いを馳せ、未来を想像する中での今日を生きなければならない
己のみならず、全ての人類、全ての生物、環境に思いを馳せなければならない
決して自然との共通感覚を失ってはならない

     平成29年11月26日  文責  世界のたま

  

衆議院選挙につきまして応援ありがとうございました

このたびの衆議院選挙につきまして数は少なくとも悪天候の中、投票所に足を運び、ご支援くださった方々にお礼申し上げます。

この度の選挙結果を踏まえて、私が今、思うところを述べておこうと思います。

皆さんにとって今回の選挙は、今までの選挙と同じような感覚で迎え、そして投票されたのではないかと思います。

ただ、私が今回の選挙に立候補させていただいたのは、我が国が現代立憲民主主義国家としての終焉を迎える可能性が高いと感じたからにほかなりません。

今回の選挙結果についても与党が勝ったとか、野党が負けたとか、様々な国会議員が落選したとか、当選したとか、もしそれらにしか皆さんの関心が向いていないとすれば、それ自体が、本当の意味で危機なのだと思う。

投票率の低さもそうであるけれど、今、我が国が置かれている状況を多くの国民が、そして多くの政治家すらも理解できていないのではないかと思う。それは私たちが自らの力で主権を獲得したこともなく、戦後もアメリカをはじめとしてそれらの庇護下の中でしか生きてこなかったからに他ならないと思う。

今回の解散権の行使は、主権者たる私にとって許すことはできませんでした。主権者たる国民の代表である(たとえそれが違憲選挙で選ばれたにしても)衆議院議員の資格を、大義もなく一斉にはく奪することは明らかに国民主権の侵害に他ならないからです。
私たちの主権の侵害なのです。

しかし、残念ながら多くの国民は、今回の選挙で、現在のある程度恵まれた私生活を優先し、所属する組織、政党を優先して、選挙権の不行使か、私たちの主権侵害した政権を容認してしまった。

私たちは政党、組織人である前に主権者であることを忘れてはならないのに

そしてそのある程度恵まれたと錯覚している私たちの私生活すら、私たち自身が、将来の子供たちにつけを回し、財政再建も顧みず、日本銀行がお札を刷りまくった中での、もうじき壊れてしまう偽りのうすっぺらな生活に過ぎないというのに

昨年の参議院選挙後にもお話し、いずれ歴史が証明することであるが、今度こそ、私たちは取り返しのつかない過ちを犯してしまったと思う。

歴史を振り返ってみればわかるのだけど、その渦中にいるとき、つくづく人は気付けないものだと思う。

皆さんは、今度また政権選択をすればよいと簡単に考えておられるかもしれないが、問題は、安倍さん含めた政権与党、どうしようもない野党にあるのではなく、おバカな私たち国民自身にあるのだということを気付かない限り、現在日本国憲法で保障されている私たちのすべての自由を、私たちは間違いなく、もうじき失ってしまうであろう。

今回の選挙において、政権与党が勝ったのでもなく、野党が負けたわけではない。
私たち主権者たる国民が負けたのだと思う。

そして、今だもって核兵器、原発を推し進め、自然との共存を否定する私たち人類は、そう遠くない将来、自然の中に飲み込まれてしまうであろう。

生意気であると考えられる方も多いいと思うが、歴史は嘘をつかない。

歴史は繰り返し、人間はそれを止めることはできないのかもしれない。

本当に御支援誠にありがとうございました。
最後になりますが、国民よ主権者たれ。

  平成29年10月23日   文責   世界のたま

18歳、19歳の君たちへ(最後の訴え)

 あなたへの約束の中でも述べましたが、我が国は、現在1048兆円という莫大な借金を抱えています。そして今現在も毎日その額は増え続けているのです。
 国民の預貯金(郵便貯金、銀行預金、保険会社、企業)で買い支えていましたが、現在は日本のお金を作る日本銀行が買い支えています。お金を作るところですからいくらでもお金を刷って買い支えられます。しかし、誰が考えてもまともではない。
 株価も一見20000円を超えて景気がよさそうですが、これまた皆さんの将来の年金の掛け金、そしてまたお札を刷る日本銀行が買い支えています。
 私はこんな見せかけの社会はもうすぐ崩れてしまうと思う。誰が考えてもまともではありません。
 一見就職率も上がり、求人倍率も上がっていますが、非正規雇用者数が増え、正規と非正規の賃金格差も拡大しています。すべて一時的なあなた方の将来の付けの中で一過性に生じていることなのです。根本的には広い意味では騙されているだけのことです。
 それらの付けはあなた方、若い世代にすべてがかかってきます。このまま行けば、必ず、近い将来、日本が新たな借金をすることができなくなると思う。
そうなった時、どちらにしてもあなた方の年金はかなり減額され、生きているうちにもらえる方は少なくなるでしょう。また、医療費、介護費用はおそらくほぼ全額自己負担となる時代も遠くないでしょう。
 私は年に一回校医をしている小学校で喫煙防止教室という授業を1時間させていただいています。その時に子供たちに伝え、少しでも心の片隅に止めておいてほしいと、いつもお話ししていることは、事実をきちんと理解して、情報に流されず、他者の考えに流されない、自分の頭で考える大切さです。
 そして大前提として考えなければならないのが、自然、他者との共存だということです。
 私は、今、君たちにそのことを改めて伝えたい。
 事実をしっかりと把握して、政党や組織の考え方に流されるのではなく、自分自身の頭で自分自身の判断で未来を切り開く一票を投じてほしい。

未来は君自身の心の中の一票にあるのだから

   平成29年10月18日  文責  玉田 憲勲(世界のたま)

総選挙後に私たちを待ち受けているもの(最後の訴え)

選挙戦終盤に差し掛かり、投票日を目前にして私が思うことを述べて最後の訴えとさせていただきます。

① 主権者は誰なのか

あなたへの約束の中でも述べさせていただきましたが、私が今回立候補したのは、今回の説明責任なき国会冒頭解散を目の当たりにして、明らかに主権が国民にはないという事実の中で、主権を国民に取り戻したいという一念です。
 ただ正直なところ私を含め日本国民にとって、島国という環境の中で、そして敗戦を契機にたまたま獲得した国民主権という概念は、血を流して自らが勝ち取った主権と違って弱いものだと思う。
選挙期間中も沖縄ヘリパット周辺の私有地でのヘリ墜落、広島上空でのフレア発射など、政府の抗議も全く無視され、立ち入りも一切許されない。おそらく国会に墜落したところで同じことであろう。
総選挙という国民主権の最たる権利行使の期間中に主権を害する行為を平気で行い、何一つ説明するでもなく飛行再開を強行する、政府も遺憾に思うと発言するのみで、アメリカの属国であると公言したに等しい。
 私たち国民には、もはや政治的な意味において日本政府に対して、そしてアメリカに対しても、また、領土的な意味においてもアメリカに対して、主権は存在していない。

② 民主主義の否定(説明責任の放棄)

 選挙期間中も、私は政権与党による説明責任は果たされていないと思う。森友加計問題を筆頭に、都合の悪いことは説明していない。
一方で選挙戦が優勢かという報道を聞けば、憲法改正の具体的日程などをぼかした形で報道関係者に流す。
 形勢が有利になると、過去5年間の政権の評価が問われていると言うが、もしそうだとすれば、それは死票が多い選挙制度の中で選ばれた国会議員の数ではなくすべての有権者数の過半数か、少なくとも有効投票数の過半数でなければならない。
 今までがそうであった様に、結果がよければ、選挙期間中にしっかりと説明して信任を得たということで、再び、説明責任なき国会での強行採決のオンパレードが始まるであろう。森友加計問題もしっかり説明して信任を得たとするであろう。

 そして、国家の基本法たる日本国憲法の改正発議すらも難なく行うであろう。

 最後に、投票日を目前にして、有権者の皆さん、もう一度、世界の歴史、日本の歴史を思い出してほしい。
国民主権そして民主主義を失ったとき、私たちは、身体の自由、表現の自由、思想の自由、すべて失ってしまうことを、現在の私たちの経済的豊かさをすべて犠牲にしても守らなければならないものであることを

   平成29年10月18日  文責  玉田 憲勲(世界のたま)

私の思いとあなたへの約束

  無所属  玉田 憲勲   平成29年10月10日
    ( 順序は優先度の高い順 )

1.今回の選挙で問われているもの

 私たちが今回の選挙で問われていることは、決して政権選択ではありません。
 私たちが、今、問われていることは、誰が主権者なのかということです。
 今回の安倍首相、与党による臨時国会の冒頭解散は、説明責任の放棄において民主主義の否定であり、国会議員の発言を一切認めない点においては国民主権の否定以外の何者ではない。
 安倍さんの自民党、そして小池さんの希望の党に期待している人には申し訳ないが、自民党の「自由民主」、希望の党の「希望」という言葉は、かつてナチスドイツが多くのユダヤ人を迫害したアウシュビッツ収容所での入り口に掲げてあった「働けば自由になる」という言葉で彼らを欺いた自由のない世界への入り口に他ならない。
 私たちは、彼らによって作られたうわべの総選挙劇場という舞台から降りて、しっかりと心の目を開き、今、自分たちが本当に問われていること、将来の子供たちにとって何が本当に必要なのかを見つめ直さなければなない。
 私たちには、もうそんな彼らに付き合う無駄な時間は残されてはいないのだから。

2.学級崩壊社会、日本

 私は、今回の解散、その後の国会議員たちの行動を見ていて、もはや我が国は学級崩壊していると思う。
 実際の学級崩壊でも言えることであるが、そこには必ずその原因がある。
 我が国の現在の学級崩壊を考えた時、その原因として安倍さんであるとか、強権的な与党であるとか、優柔不断な野党であるとか、いろんなことがあげられるとは思うが、私は、根本的な問題は我が国における立憲民主主義の破たんであると思う。
 立憲民主主義の破たんと言えば難しく思われるかもしれないが、簡単に言えば、まず、立憲主義については、我が国の国家機関が憲法を順守していないということです。
 何故順守できないのかであるが、それは憲法に対する私たちの考え方が確立していないからに他ならない。
 我が国は、立憲主義的な意味での憲法を自らの力で作った経験がないのだ。明治憲法も、ドイツなどのヨーロッパからの導入であり、現在の日本国憲法も戦争に負けた結果としてできたものである。(ちなみに現在の自民党が掲げている改正憲法草案は、一度読まれたらわかるが、その内容は現代立憲民主主義憲法に値するものでない非常に稚拙な草案であり、あまりにも稚拙すぎてそれを作った人の知的レベルを疑う)
 憲法とは、国家の基本法であり、主権者たる国民の基本的人権を保障するために、国会、内閣、司法の国家権力を制限するものであるというその目的を理解できていないのだ。決して国家権力のためのものでもなく、国民に対してそれを義務づけるものでもない。
 そうした憲法の持つ意味を、国民も国家権力も理解していないために、憲法を順守しなければならない、順守させなければならないという反対動機が形成されにくいのだ。その結果として、国政選挙の違憲状態もそうであるし、今回の解散、安保関連法、テロ等準備罪など、それらすべてが、日本国憲法に反した違憲行為である。
 実際の学級崩壊もそうであるが、ルールを守らずして学級は成り立たない。憲法の由来などある意味でどうでもよいのだ。国民の人権を守るという意味での立憲主義とは、現在存在する憲法を国家機関が順守する、ただそのことだけに意味があるのだから。
 一方、民主主義とは、一言で言えば説明責任である。民主主義とは多数決であると公言するおバカさんもいるが、決して多数決で決定するということにおいての多数に意味があるのでない。 現在の安倍政権はその点で無知であり多数がすべてだと、その真の意味をまったく理解していない。多数そのものに意味があるのではなく、そこまでに行き着く討論、審議過程に意味があるのです。過程を大切することによって少数が多数になる可能性が生じる。その可能性こそが民主主義なのだから。
 そのために必要なのが説明責任なのである。説明責任のないところに少数が多数になる可能性は生ぜず、民主主義は成り立たない。
 そういった意味で、現在の我が国において、立憲民主主意義は存在しておらず、そのことを真摯に振り返ることなく政権選択選挙をしたところで、ただの時間の無駄で、学級崩壊社会は何の改善もしない。主権者たる国民の人権はより失われてゆくであろう。そのことだけは明白である。
 私はもう一度、我が国に立憲民主主義を取り戻すことをあなたとお約束する。
そしてもう一つ大切なことであるが、その立法事実も存在せず、実行行為としての準備行為も不明確で罪刑法定主義に反するテロ等準備罪の廃止することもあなたとお約束する。

3.憲法改正について

 自民党、並びに希望の党、維新の党などは、盛んに憲法改正を謳っているが、先ほど述べたように、現在の我が国は、憲法に反した国家行為のオンパレードであって、そんな学級崩壊した国家が、まともな憲法改正論議を行えるはずもない。
 我が身を振り返れない者たちがどうして改正した憲法を守る保証があるのか。法論理的に成り立たない。実際の学級崩壊でも、まず、今あるルールを守ることからスタートせずして学級崩壊が改善する術はない。
 私はもう一度、憲法を守る国家を作り直すことをあなたとお約束する。

4.政党政治について(選挙制度改革)

 政党とは本来、国民の意見を集約して国政に結び付ける媒体である。そのために莫大な税金を政党助成金として毎年、政党に交付している。
 しかしどうであろう。今回の解散、その後の流れの中で誰が、政党の本来の意味をそこに見いだせたであろう。自民党で言えば、国会、すなわち国民が求めた森友、加計学園問題に対する説明責任を放棄した安倍政権の片棒を担ぎ、その解散に対し、一応に万歳三唱をしていた。党議拘束の下で意思を持たないロボット議員でしかない。
 一方、野党はと言えば、自らの議席を求めて蜘蛛の糸に群がり、信念や理念などあったものではない。いずれにしても、全国民の代表者と言えたものではない。
 我が国においてもはや政党は、国会議員のための集票、集金マシーン以外の何者ではない。何が二大政党だ!何が政権選択選挙だ!国民をコケにするのもいい加減にしろ!
 私たちはもう一度選挙制度を見直さなければならない。我が国のような民主主義が根付いていない、説明責任も放棄した、密室、談合政治を行う国家は、正々堂々と議論を戦わせる必要がある二大政党制は所詮、無理がある。死票が少ない中選挙区中心制度に戻すべきであろう。又政党が意味を持たなくなった現在、比例代表制も民主主義にとって害があっても益は何一つない。
 私は、最高裁の判断を仰ぐこともいらない国会自らが自信をもってこれこそが立憲民主主義であると胸が張れる選挙制度改革を行うことを、あなたとお約束する。

5.安全保障について(北朝鮮問題と、対米追従外交)

 安全保障については今まで、安保関連法、日米安保条約もすべて、安全保障の対象が、国家であるとして考えられていたのであるが、私はそうした安全保障の対象が国家であるという考え方はもはや古いと思う。確かに今だもって世界中のリアリストの考え方はその対象を国家としていることは事実だが
 昨今の世界の紛争を見た時、もはや国家同士ではなく、その多くが国境をまたいだ民族、宗教的対立である。それでは北朝鮮問題はどうなのだということだが、北朝鮮問題は基本的に核抑止論の問題である。
 私は、もはや核抑止論も遺物であり何の意味もないと考える。核抑止論も、核保有国、原発推進国によって意図的に作られた幻想に過ぎない。
 アメリカのトランプ大統領は盛んに、北朝鮮をはじめとする様々な国々の危険性を取り上げ、その恐怖をあおっているが、所詮は軍需産業の代弁者に過ぎない。何一つ長期的な国際平和を求めているのではない。その逆で、軍需産業にとって平和社会は来てもらっては困るのだから。
 アメリカの歴史を見ればわかるが、常に闘いあるところに顔を突っ込み、実際に戦争に加わるか、兵器を提供し続けている。いくら米兵が亡くなろうと経済がすべてだと考えている。
 朝鮮戦争をはじめ、ベトナム戦争、アフガンに侵攻したロシアと闘うビンラディンなどへの支援、イランイラク戦争ではイラクのフセインを支援し、湾岸戦争ではそのイラクを攻撃し、かつて支援したビンラディンによって9.11が引き起こされるや否やテロとの戦いと称して、アフガン侵攻、イラク進攻、数えればきりのないくらいの戦争に関わってきている。
 私は、兵器の製造販売を一つの巨大産業と考える国家、アメリカとの関係を一から考え直すべきであると思う。もはや安全保障の対象を国家とした集団的自衛権など、何の意味もない。北朝鮮の脅威をたきつける安倍政権もアメリカと同様で、国内の産業政策として軍需産業の育成を図ろうとしているだけのことで、国際平和に逆行はしても何のメリットはない。核兵器禁止条約不参加も根底にはそれがある。経済至上主義の権化だ。
 憲法9条の改正も含めて、私たちはアメリカや、安倍政権を含めた軍需産業を一つの産業として考える人たちが意図的に、脅威を作り出していることに気が付かなければならない。心の目をしっかり見開き、冷静に物事を見るならば、それらに騙されることは決してないはずだ。
 私は日米安全保障含めた抜本的な見直しを図り、核兵器廃止条約への参加、核保有をしていない国々との意思疎通を含めた外交政策など、180度向きを変えた安全保障政策を行ってゆくことをあなたとお約束する。

6.消費税と社会保障について(現在の財政、金融政策)

 今回の選挙で言われている消費税問題は、所詮解散理由の後付けにすぎず、希望の党が言う消費税引き上げ延期もこれまた選挙目当てであり、自民党も希望の党も何一つ国民の生活を考えているわけではない。
 事実はその逆で、選挙の時にだけ取り上げるのは、彼らが、何も考えていないことの裏返しであるともいえる。
 そのため私自身、彼らとまともに論ずる気にもなれないが私の考え方だけは伝えておこうと思う。
 我が国の借金は1048兆円を超え、現在も増え続けており、政府が盛んに言う基礎収支(PB)のバランスの改善も聞こえはいいが、基礎収支のバランスには借金の返済分は含まれておらず、一つのだましである。
 家計を考えてもわかるが借金の返済を考えないバランスなどあり得ない。政府は、その基礎収支のバランスすら先送りした。
 一方で、黒田総裁率いる日本銀行がもつ国債は300兆円を超え、更なる買い増しを続けようとしている。黒田総裁に反対する理事が差し替えられたことも考え合わせれば、おそらく後戻りもできない状況になってきているのだと思う。
 郵便貯金の上限額引き上げも国民のタンス預金を搾り取り、それによって日本銀行に代わって国債のさらなる購入を図ろうとしていることが見え隠れする。  
 まともな国家であれば、1年でも早く消費税含めた税制度改革を行い、抜本的な財政再建を行うべきである。私には1000兆円を超えた借金の返済など不可能であると思えてならず、そうだとすれば、日本銀行が持つ国債をなかったことにするか、国民の大切な預貯金で国債をチャラにするかどちらかしかないように思える。どちらにせよこのまま行けば、とんでもないことが待ち受けていることは間違いのない事実である。
 年金基金もかなりの部分が株式投資などに回されており、おそらくそんな遠くにない時期に一挙に問題が露呈すると思われる。
 安倍政権が言う経済成長による収支バランスの改善など絶対に不可能である。
 私は、今年も非正規労働者の格差が一段と広がり、大企業の内部留保が400兆円を超えている状況下で、法人税の引き上げ、高額所得者、相続税などの直接税の引き上げを行うと同時に、消費税も一律に引き上げるべきだと思う。
一方で、国会議員数の削減を筆頭に、医療、介護などの抜本的制度の見直し、セーフティネットの構築、地方分権化など早急に推し進めることが、もはや遅きに失しているのだが、一日でも早く将来の世代のために手を付けなければならないと思う。多くの国民にある程度の我慢を強いることになるとは思うが、不退転の覚悟で成し遂げることを、あなたにお約束する。

 消費税問題を、この期に及んで政権選択などと言って政争の具にするなど、もはや自民党、希望の党含め、政治が落ちるとこまで落ちてしまった感がある。
彼らの自分たちのことしか考えない人間性には怒りを覚えるが、一方で、必死に権力にしがみつこうとする強欲な人間として哀れに思えてならない。

       平成29年10月10日  文責  玉田 憲勲(世界のたま)